【2】 宿り神
果てしない広大な闇の中に、淡い光のもやが次々に浮かびあがり、水面をめざす泡のようにゆらゆら揺れながら上昇していく。
「・・・次は、それを一つにまとめ、力を注いでみよ」
声にならない声が、遠話でファネリの耳に指示を送る。無限に年老いたような、性別をも超越したような声だ。
“この実なる世と、見えざる虚なる世、それは共にここに在り重なっている”
師父の教えに意識を集中させる。
その実から虚へ心の力を向け、目に見える光のもやの“裏側”に手を伸ばす。そして虚から実へそっと裏側から力を注ぐイメージだ。
ファネリは目を閉じながら、まぶたの裏に光のもやを見ていた。
ふわふわと光が集まり、大きな光へと成長し、さらにまばゆく輝き始める。
息をのむような雰囲気が伝わる。
「闇の中に邪悪なる黒きものを見つけよ」
光りが空間全体に平らかに広がり、隅々まで照らす。その一角だけしみのように照らされぬ闇が残り、濃い陰影が浮き上がる。
「では、それを漏らすこと無く浄化せよ」
ファネリはそのしみのような闇のまわりを光で囲む、その輪をゆっくりと狭めていく。
だが、ふとそこで、いぶかしげに首を傾ける。
その隙に闇はにゅるりと蠢き、光の輪をする抜ける。
ただ、すり抜けたように見えた途端、闇は幾色もの鮮やかな光の小球に分離した。そして空間のそれぞれの隅に、白い光に包まれたままたどり着き、ガラスの中に封じられたかのように、色とりどりの光る球となって、動きを止めた。
「むう、そこまでじゃ」
ほーっ、と幾つものため息らしきものが漏れた。
気がつけばそこは、ほんの狭い部屋の中だった。7人の僧形の老人たちが、少年のまわりに趺坐している。床には五芒星が、天井には星々の運行図が描かれている他は、明かり窓さえ無い小部屋だ。
「なぜ、最後の試しをあのようにしたのか」
ファネリは困った顔をした。
「“邪悪なる黒きもの”を浄化って・・・でも、あれは邪悪には感じられなかったので・・・」
「ふむ・・・退出して良い。結果はそなたの師に伝えておく」
「・・・ありがとうございました」
ファネリはほっと息をついて、これでよかったのだろうか?と首をひねりながら、しびれた足を伸ばし、扉も無い、と見えたその部屋の壁の一隅を押して開き、出て行った。
「・・・なんと、あのような解釈があるか」
「驚いたわえ」
「わしは認めぬぞ、邪を浄化せよ、との言葉をあれは実行できなんだ」
「いや出来なかったのではあるまい、あれは黒ではなく多様なる人の欲の集まりに過ぎぬ、と見て取ったのでは」
老人たちは先ほどまでの威厳に満ちた態度を忘れたかのように、てんでに口を開き始めた。
「シャラムーン師、観相の結果が出ましたぞ」
だが、一人がそう告げると、みな口を閉ざし視線をそちらに向けた。
シャラムーンと呼ばれた老人は、一人僧形では無く長い白髪を背に垂らした頭を上げた。
「ほう、してなんと」
「御身も既に見て取っておるでしょう。これは、定めの神、ですな」
途端にまた老人たちは口々に驚きの声をあげる。
「“宿り神”はその者を導き守護する神、それが運命神とは、いったいいつ以来か?」
「百年は出ておらぬであろう」
「しかし、あれが定めの神の示し、と言えるのか?」
「シャラムーン師の宿り神は、理の神、先のお弟子らも農神に医神だったかと・・・」
「さよう。ただ、わしは弟子らには特定の教えは授けておらぬゆえ、あれはそれぞれの内なる資質が、それぞれに現れておるだけでしょう・・・」
「それではかの子は、幾万年失われて久しい、この世の定めに導かれておると?」
「我らが長年待ち望んでいた者が、あれだと言うのか」
シャラムーンは、頭を振ってしばし考え込んだ。
「・・・であれば良いが。いずれにしても、動き出したのやもしれぬ。それがさて、良い方へか悪い方へか・・・」
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きのう、日が暮れる直前まで後をつけた馬車と護衛の騎馬は、師から決して踏み入ってはならぬと言われている間道の奥に向かった。
それを見てファネリは、懐に忍ばせていた光虫の抜け殻を風に乗せて飛ばし、あの子どもの足につなげられた鉄球の鎖に絡みつかせようとした。うまくくっついたかは半ば以上賭けだったが。
その子は、ファネリが行った妙なわざに気づいていたのかはわからないが、ずっとまわりの兵に気取られないようファネリの方をチラチラと見て、何かを訴えようとしていた。
光虫がうまくくっついていなくても、馬車の行方自体は心配していなかった。
なぜなら、あの間道の先には通り抜けることはできず、森の中の古い遺跡にたどり着くだけの一本道だと、少年は知っていたからだ。
遺跡の中に入ったことはさすがにないが、禁止された場所ほど入らずにいられないのは、古今東西の少年というもののさがだろう。
案の定、苔むした廃墟の手前に、馬車が放置され、ねじ曲がった樹木につながれた馬たちが不安げに身を寄せ合っているのが見つかった。
遺跡は地下だ。
中に入ったことはないが、入口はあれだろう、という場所は見つけてある。馬車のすぐそばに、瓦礫が積まれ、普段ははっきり見えていなかった入口が大きく開いていた。
きょうはまだ日が高いし天気も良い。こんな時に竜は獲物を探したりはしない。警護の兵たちの緊張は緩み、小高くなったところで一応は周囲の空を見渡せる位置に座り込んで、昼から酒を飲んでいるものさえいるようだ。
ファネリは、そんな、足もとの警戒はろくにしていない兵たちの隙を突いて、あっさり地下への階段に入り込んだ。
嗅いだことがないような不思議な匂い、古い書物と古い油とそれ以上に古い何かの。
真っ暗な階段に目をこらすと、かすかに転々と光る粒が落ちている。うまくいったらしい。少年はその跡をたどり、地下深く進んでいった。
やがて、何やら大勢の詠唱の声が聞こえ、明かりが見えてきた。
地下にこんな広い場所があったのか、と驚くような広大な洞窟だ。壁のそこここに松明が取り付けられ、さらには油壺に火が灯され、煌々と照らし出されていた。
そこではあの馬車とは別口に、どこからやってきたのか、黒いローブをまとった大勢の者たちが、洞窟の奥の方に向かい声をあげている。
高く低く、声を重ねて響き渡る詠唱が、炎にくべられたきつい香の匂いと相まって、怪しげな祈りの空間を作り出していた。
その詠唱を捧げられている、洞窟の奥に、一段高い祭壇が設けられ、宗教儀式には不似合いな武装した大男が、幾人かの黒いローブの者たちと、さらに多くの僧形の者たちを従えて暗闇を凝視している。
その足もとには、石板に手足を縛り付けられ、鎧を脱がされ薄衣一枚をまとわされた、あの銀髪の子どもが横たわっていた。
そして、闇の奥からは何かまがまがしい、強大な力の波動が迫ってくる。
遺跡全体がびりびりと振動する。
低いうなり声が響き渡る。
黒い闇の中に赤い光が浮かび、巨大な赤い竜の姿が、ゆっくりと出現した。