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2番目に好きな人と結婚しました。  作者: 柚子湯
第2章 始点→終点
12/25

尋常とは僅かな長さを表す語らしい

 

 お泊まり。

 しかもただの宿泊ではない。年頃の男女のお泊まりである。お泊まりである。

 本来なら、尋常であれば、そういうのはもっと諸々の然るべき段階を踏んで、起きるイベントではないのか。手をつないだり、抱き締め合ったり、キスをしたり……。否、お泊まりと肉体的関係を結ぶこととを等号で結べるとは思っていないが。そのような経験がある訳でもない。最後の交際履歴を辿るなら、俺は中学時代まで遡らねばならないのだからそれも当然だ。無論、交際経験がないと昔言ってた橘もないだろう。ないよな? あったら困る、なんて俺が言える資格はないが──いや待て、だから俺らの間には恋愛感情がないんだ。ねばーざれす。それなのに夫婦になろうとしているのだから尋常の範囲で考えられるわけがない。ちなみに尋は「八尺」、常は「その二倍の一丈六尺」という意味で、尋常とは僅かな長さを表す語らしい。何の話だ。八尺はおよそ242センチメートル……。


「橘に限ってそういう意味があるとは万が一にも思ってないが……」


 二人分の皿洗いを終えて、蛇口を捻る。

 近くの水が流れる音がなくなった代わりに、背後の水が流れる音が無意識に耳に入ってくる。

 シャワーの音だ。家主である俺はここにいるので、消去法的にそれを浴びているのは客である橘ということになる。

 とりあえず料理担当の橘に夕食を振る舞われたのち、とりあえず彼女を先に風呂に入れて、とりあえず皿洗い担当の俺は自分の仕事に専念していたわけだが。

 いや全然取り敢えていない。主に思考回路が。そのへんは勉強してきてないんだよ。チャート周回してないんだよ。


 考えるのを放棄して、どかっとベッドに座り込む。低反発マットなのか少しだけ沈んだ感覚がした。


 ──私、この人と結婚するの。


 あの言葉には、不覚にもときめいてしまった。しかしそれは彼女のあまりの大胆さにであって、どちらかというと少女漫画の主人公がヒーローに抱く感情に近しい。

 どちらにせよ過度に意識しているのに変わりはないんだけどな……。


「それもこれも、ベッドが一人分しかないのが悪い!」


 橘が自分で「当分は自宅に帰るから自分の布団はいらない」と前に言ったのだ。なぜ俺が悶々としなければならないのか。


「何か言った?」


 嘆いたクレームが聞こえてしまったらしい。風呂から上がり、脱衣所にいるであろう橘から尋ねられてしまう。わざわざ言い直すのも億劫なので「なんでもないぞ」と返しておく。

 それにしても、脱衣所というものがないワンルームの方が一般的だとは思うが、わが下宿には存在してくれていて心底良かった。バスタオル一枚の橘とのご対面なんていう、少年漫画みたいな展開にならずに済んだのだから。


「てか、別に俺がここで寝ればいい話か」


 フローリングにはブラウンのふかふかしたマットが敷かれていて、冬でも冷たくはない。

 ただ、毛布の代わりになるものは夏用のタオルケットしかないので、電気代は勿体ないが暖房はつけっぱなしにしておこう。よし解決だ。


「お待たせ」

「……お、おう」

「なによ」

「いや別に」


 風呂上がりの女子(おなご)など礼儀的に直視してはいけないと決めていたのに、気付いたら数秒ほど目線を奪われてしまっていた。慌てて視線を外して、平静を装う。


「じゃ、じゃあ俺も入ろうかな……」

「……?」

「…………」


 どっぷり腰を下ろすと、自分の体積分だけ湯船の水位が上がる。

 先程まで洗い物をしていて凍えていた指先が、じんわり解凍されていくのを感じた。

 夏はシャワーだけで済ませてしまうことが多いが、やはり冬は湯船に浸かるに限るな。

 入るまでがとても億劫で、入ったら入ったで出るのが億劫なのが難点だが。


「お風呂っていいなー」


 ……などと口にして誤魔化しても早まった鼓動は収まらない。


 ん? いいから早く俺たちの琴葉ちゃんを描写しろ? 五月蝿いぞ、少しくらい待ってくれ。世の童貞だって、こんな状況になったらきっとまともな精神状態じゃいられない。忘れてほしくないのが普段こそ意識しないが、橘のポテンシャルは常人のそれじゃないんだ。今日の生配信の騒ぎの大きさがそれを物語っている。


 黄金比や白銀比とやらにでも当てはまりそうな整った顔、つやつやとした茶髪、すらっと伸びた白い手足。誰がどう見たって美人だ。美人なのだ。

 高校から一緒にいたとはいえ、他の人物にぞっこんだった身としては、客観的に理解はしていても意識することがなかった。それ故に今になって困惑してしまう。


 加えてだ、加えて。

 脱衣所から現れた橘は、乾かした長い髪をひとつに束ねていたのだ。

 出会ってから髪を結った姿を初めて見たので、その新鮮さは並のものではなかった。ポニーテールとは少し違ったように思うが、似たような一つ結びだった。寝る時に髪を傷めないためのヘアスタイルだろうか。  

 そこにはちゃんとポニーテール同様の魅力が健在しており、はだけたうなじが蠱惑的な目でこちらを見つめていた。寝間着も至って普通の、男子受けも女子受けもしなさそうなシンプルなものだったが、いつもとは違う新鮮さに人は弱いものなのかもしれない。きっとそういうものなのだろう。いわゆるギャップ萌えというやつだ。別に萌えてないが。いや、それは流石に無理があるか。兎にも角にも元々尋常じゃないポテンシャルにそういう要素がアドされてしまったら、もうそれは尋常じゃないどころでは済まされないわけで。ちなみに尋は「八尺」、常は「その二倍の一丈六尺」という意味なわけで、尋常とは僅かな長さを表す語らしいけど。ん? この流れどこかで……。あと八尺はおよそ、いやだからそれはもういい。



「……のぼせた」


 嫌がる身体をなんとか叩き起こして、湯船から出る。そして念のためいつもよりも入念に丹念に丁寧に身体を洗う。念のため。念入りに。念のため……。


「お待た──え?」


 寝間着に着替えて脱衣所から顔を出すと、なんと橘琴葉が倒れているではないか。

 足だけベッドの横に出して、身体はベッドに預けている。そしてすやすやという橘の浅い呼吸。


 ・・・もしかしなくても、ただ寝てるだけだな。


「はああああああ」


 一気にどっと気が抜けて重いため息が出た。ひとりで悶々としていたのが、本当に馬鹿みたいだな。可笑しくなって、ははっと自嘲的な笑いが漏れる。

 目を瞑ったその表情は、普段の強気な印象を感じさせず、柔らかそうな頬も細い鼻筋も、小さな口も、一人のかよわい女の子といった感じだった。


「まあ橘だって、今日は疲れたよな」


 体勢的にベッドに腰掛けていたらいつの間にか寝落ちしてしまったのだろう。

 今日は橘琴葉、大健闘の日だったもんな。


「おつかれ」


 さっきまでの(よこしま)な雑念は快晴の空のようにどこかへ消え去っていた。ベッドから出た両足を起こさないように戻して、肩まで毛布を掛ける。流石に枕を敷く勇気はなかったので、頭の横に置いておくことにする。


「さ、寝るか」


 深夜一時。いつもならだらだら夜更かしして朝散々な目に遭ったりするところだが、今日はこのままゆっくり眠れそうだ。それは、俺も久々の全力疾走で疲れているから。


 あと、今夜は胸の奥が寂しくないからだろう。


 ──何故かは分からないけどな。


































「あれ、だったらなんでお泊まり……?」



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