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鉄鎖の迷い姫

 彼方の国は北にあるのだと、ユエラは思っていた。シンタロウはまず北へ向かえと言っていたし、鉄鎖を隠せば問いに答えてくれる道端の人々に訊いても、彼方の国らしき土地は北の果てにあると、そう言われ続けた。

 シンタロウは、鉄鎖をできるだけ晒しておくように、とも言った。鉄鎖を外気の穢れに触れさせるためだと言った。鉄鎖を引きずって歩くように、とも言った。かつての鉄鎖の民が忘れてしまっていた大地の恵みを、鉄鎖に思い出させるためだと言った。

 そして、鉄鎖に血を擦り付けるように、とも言った。その理由は、ユエラが自分で言葉にした。

 犠牲には、犠牲を。

 シンタロウはそのとおりだと頷き、続けて、どれも求めるべきは量ではなく濃さなのだと言った。

 シンタロウの言ったことは、それを聞く前に決意していたことと重なっていた。言ってしまうならば、汚れてゆけばよいということだった。言ってしまうならば、シンタロウのようになればよかった。ユエラはまだ一五歳だったが、シンタロウの本性を、神を除けば、誰よりも長く、深く、見つめてきていた。だから、若さはユエラを阻むことができなかった。




 彼方の国は、北にあった。その国では、鉄鎖の民が鉄鎖のように、あるいは鉄鎖であることすら叶わない形で、使われていた。

 ユエラも、その例外にはならなかった。鉄鎖を汚すことこそが、ユエラの目的だった。鉄鎖の力を振るうことは、目的ではなかった。

 荷引きは数え切れないほど。鉄鎖の民の潰れた死体が荷となったことも、何度かあった。鉄鎖の軋む音がひときわ耳障りだからと、鉄鎖のないところを狙って何度も強かに蹴られた。

 三度、放逐された。三度目は、隷奴の荷車から日没後の卑暗街に投げ出された。元から粗末だった隷奴服は布とすら呼べなくなっていて、その姿は、卑暗街においては卑しき自由の表明だった。

 激烈な、痛み。そして、戻らぬ証の名残としての、血。熱さには冷たさしか感じられない。どちらも決して快くはならない。

 汚れなければ。

 この血も、この地も、鉄鎖に擦り付けなければ。

 そして、目が合った。

 ユエラは、わかってしまった。こうでなくともよかったのだと。




 彼方の国は、南にもある。北の彼方の国で、最後の鉄鎖の民からそう明かされたユエラは、かつてないほどに乱雑な死を、その者に投げやった。

 どのくらいで、この国の正統なる民は次の加虐の的を見つけるのだろうか。絶えたあたしたちのことを忘れるのはいつなのだろうか。耐え続ける者がいたことを、彼らはいつまで覚えているだろうか。ユエラはどの問いにも自分で答えることができるはずだった。だが、ユエラは考えることすらしなかった。

 鉄鎖の汚れは、もういい。目に見える汚れは、もういい。そうだ、南の彼方の国では、目に見えないところを汚そう。ああ、違った、どちらも汚せばいいんだ。どっちがついでになっても、どっちもが同じになっても、なんだっていい。汚れたいんだから。汚れたくはなかったんだっけか。

 だいぶ昔のことになったんだね。もう二年になるのか。急ごうか。

 いや、ゆっくりと、ふらふらと、向かえばいいんだ。

 あたしは、鉄鎖の民をこの時代に遺す、鉄鎖の迷い姫なんだから。




 まだいるのか。まだ、あたしだけじゃないのか。

 行かなければ。あたしが最後にならなければ。鉄鎖の民は、この時代に果てなければ。絶えなければ。

 だって、絶える未来は避けられないんだから。王家の魂なんて、鉄鎖の“民”にはなんの関係も意味もない。彼らは彼らで繋がり、続いてきた。そして、彼らは彼らで絶える運命の上に立ち、あたしたちはあたしたちで、絶える運命の上に立った。

 絶えゆくことを知れば、わずかな罪悪感を代償ならぬ代償にして、辱める。そんな国があった。あたしは見てきた。それは世界の真実だった。きっと、いつの時代においても――――鉄鎖の民の時代においても――――真実だった。

 あたしは、王家の最後の生き残りとして、かつて誰も知らぬ間に道を分かった民を解放する。あたしは、もはや高貴さを求められはしない姫は、汚れを、穢れを、求めよう。そちらへはまだ道が続く。その果ては、高貴よりも遠く、深く、激しいに違いない。

 世界を迷い歩いて、確かに鉄鎖はあたしにふさわしい姿になった。錆びることのない鉄鎖を、こんなにも汚すことができた。

 さあ、行こうか。ゆっくりと、ふらふらと、迷うように歩いて。




 その国で、鉄鎖の民は陽を浴びていた。

「…………」

 彼らの傍らには、鉄鎖の民がいて、正統なる民がいて、民がいて、民がいて――――

「…………」

 世界に、あるんだろうか。こんな国が。民が。光景が。

「ようこそお越しくださいました、姫様」

 そんなことを冗談以外では言いそうにない声だった。

「どうして……」

「どうしてだと思う?」

「わからない……」

「わかるようになるかも、わからないね」

「うん、そう……そうだよ」

 流れたのは、血ではなかった。血は、もう流れないかもしれない。

「長き旅の果てに我が国へお越しくださったことを感謝いたします、鉄鎖の迷い姫」

「……その呼び名、なに?」

「まさにそのとおりだったんでしょ?」

「うん、そうだった。自分でもそう名乗ってた。心の中でだけど」

 鉄鎖が触れられる。いつぶりだろうか、鉄鎖がぬくもりを伝えるのは。

 この国は、あぁ……あたたかい。

「この鉄鎖が……」

「ん?」

「この鉄鎖が……冷たくなくなる日って、来るのかな?」

「今は?」

「……まだ冷たい」

 冷たいからこそ、ぬくもりがわかる。

「うん、確かに冷たい」

「あの時はあたしを傷つけないように言ったの?」

「ううん、あの時も今と同じ。冷たかった。今だってあの時と同じ。あたたかくもあるんだよ。ずっと握っていたいって、思えるんだよ」

「……なんだよそれ」

 いつの間に、追い抜かれていたんだろうか。どうやって、こんな国を作ったんだろうか。なにを代償にしたんだろうか。その代償を、あたしはどこまで埋められるだろうか。

 あぁ……なんてことだろう。あたしはもう、迷いを許されない。ここが最果ての地、最果ての国になってしまったんだから。

「最後まで。約束だからね」

 シタンが鉄鎖を手に巻きつけ、握り締める。

「シタンは……とてもずるい」

 ユエラはシタンに困らせられてしまった。冗談の程度をはるかに超えて、困らせられてしまったのだった。

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