曇天の少女
実のところ、シタンにとってユエラは確かな存在ではなかった。確かめようとしたまさにその瞬間にユエラは去ってしまった。それ以来、感じていたはずの情も、結びたかったはずの繋がりも、細く、脆く、それでいてなぜかどうしても断ち切れずに残り続けてきた。
かつての自分を理解できなくなってゆく。自分の情がわからなくなってゆく。嫌だと思った。怖いと思った。ユエラに会いたいと、そう思った。なぜそう思ってしまうのかはわからなかった。
いや、わかってはいた。
ただ確かめたかった。あるいは、ただ断ちたかった。どちらでもよかった。どちらでもないよりはいいと、そう思えた。
どちらになろうとも、シタンは自分にとって確かなものをすでに持っている。それは、あまりに強烈で鮮明な記憶だが、それでも、すべてを確かにはできなかった。
強さがあっても、届かないものはある。思い出す度に、シタンはそんな当然を思い知る。無力さに痛みを幻覚する。
それでも、思い出す。思い出さずにはいられなかった。たったの一七日。その始まりの日の記憶は、それほどまでに美しかった。
その日は薄曇りだった。シタンはひどく気分が悪かった。天気のせいだった。
晴れは世界を明るく鮮やかに彩って、雨は世界に重みを加える。シタンは世界に意味を加えてくれる晴れと雨が好きだった。
だから、曇りは嫌いだった。シタンにとっては意味のない天気で、今日はずっとこんな天気だろうなと思うと、身体に痛みさえ感じた。
なんとかして、気分の悪さを少しでも和らげたい。シタンはそう思って、ならばどこか行ったことのない場所へ行こうと考えた。
そして、シタンは行くことを禁じられていた森を抜け、その先の広大な草原にたどり着き――――なにかに足を引っ掛けた。
「うわっ!」
その“なにか”の声を聞きながら、シタンは転んだ。
「痛っ! えっ、なに……えっ」
その“なにか”は――――少女だった。シタンと少女はどちらも地面に伏せながら互いを見つめた。
シタンが思ったのは、少女がどこか不気味だということだった。得体が知れないというだけでは、そのような気持ちにはならない。見た目は同じくらいの年齢の少女でしかなく、少女のなにがそんな気持ちを起こさせているのか、シタンはわからなかった。
シタンがうつ伏せからゆっくりと身体を起こす。少女は仰向けのまま、シタンを観察しているようだった。視線がどこに向いているのか。自分がどう思われているのか。足を引っ掛けてしまったのは謝るべきだろう。そんな思考が閃いては移ろってゆく。
「ふぅ……」
シタンは一呼吸を置いた。緊張が、緩まないまでも、強まらなくなった。
四つん這いから腰を下ろし、地面に座り込む。短く折れた枯草が手に軽く刺さり、わずかに痛みが走った。それでようやく、転んだ時にいくつか小さな擦り傷を作っていたことに気づいた。
「えっと……ごめんなさい。ケガしてない?」
シタンに訊かれ、少女は自分の身体のあちこちを触って確かめた。シタンから見える限りでは怪我はなさそうだったが、少女の反応を見るに、どうやらそのとおりらしかった。
「……あんたのほうがケガしてる」
少女が初めて言葉を返した。整った外見にはあまり似合わない、少し乱れた言葉遣い。
「まあ、これはわたしの自業自得というか、こんな広くて穏やかな原っぱなのに、気持ちよく寝転んでいる人がいそうだなって考えになれなかったのが悪かった……んだと思う」
「……そう」
会話が絶える。少女はシタンから天へと視線を移した。
唐突に、シタンは少女に自分を見てほしいと思った。閃いたその思いが、シタンの声を支配する。
「どうしてここに?」
「えっと……“広くて穏やかな原っぱだから、寝転んでみた”……だったっけ?」
「それ、からかってるの?」
「ちゃんとからかいになってるかはわからないけど、そのとおり」
そう言って、少女はシタンに視線を戻した。その目の中央を捉え、シタンは血がザワッと昇るように感じた。
その感覚は、快かった。今までにない色の瞳だったからなのか。自分にはない、奥行のようなものを感じたからなのか。思いつきはしても、どれも確かめられない。
「名前、訊いてもいい?」
「ユエラ」
「わたしはシタン」
「東の名前ね」
「よく知ってるね」
ユエラは手を軽く挙げたが、なにをするでもなくそうっと下げた。
「あたしのいる家が東の国の子孫だからよ」
「家はどこ?」
「……それは教えない」
ユエラの表情が曇る。
あぁ、だめだ。曇らせてしまうのはだめだ。
「どうして?」
そうじゃない。そんなの、もっと曇ってしまうだけだ。
「……あんたはどうしてここにいるの?」
視線を外される。身体が冷たくなってゆくような幻覚。
「どうしてって――――」
「チトセ家の土地に薬町の人間は入っちゃだめ。知ってる?」
「……うん、知ってる」
「そう。じゃあやっぱり、あんたは薬町の人間なのね」
ユエラの目が閉じられてしまう。悲しさがまた身体を冷たくする。
「そうだよ」
乱雑な答えだった。だが、それがシタン自身に気づかせた。
あぁ、そうか。そちらへ向かってしまえばいいんだ。
「わたしは、知っててここに来た。入ってやったのよ。チトセ家がどうしたって言うの? みんな怖がってるけど、わたしは怖くない。だから――――」
「怖がるよ、あんたも」
ユエラがグッと身体を起こす。そして、シタンを見据えた。
「きっと怖がっちゃう。そうに決まってる」
ほんの少し前に感じた奥行に、果てがなくなっている。見つめているようで、捉えてはいない。もしも捉えられてしまったら。そう考えた途端に、シタンはユエラの言葉の意味を思い知った。
こんな人間がいるということを、シタンは今まで知らなかった。感じているのは恐怖なのだと、最初は思った。だが、次第にそれは変わっていった。
「あたしは誰とも会っちゃいけない。シンタロウとそう約束してる。だから、あんたはもう来ちゃいけないの。あんたたちが怖がってるシンタロウは、本当に――――」
「そんなの嫌」
「――――なにをするかわか……えっ?」
シタンは方向を変えることにした。そう決めてしまえば、それはきっと良いことなのだろうと思えた。ほんの少し前の自分が真逆を向いていたことを思うと、おかしくて面白かった。
「そんなの嫌だよ。わたし、あなたを知りたい。一緒にいたい」
「はぁ? えっ、えぇ?」
ユエラがこういう気持ちを知らないなら、わたしだけがこういう気持ちでいても別にいいだろう。そう考えながら、シタンは笑ってみせた。ユエラはそれを見て怯えた表情になった。
「だって、あなたは……ユエラはわたしの世界にたくさんの意味をくれそうだから」
「……わからない。なにそれ、あんたはなにを言ってるの?」
「わたし、曇りが嫌いなの。意味をくれないから。でも、ユエラはもしかしたら意味をくれるかもしれない。わたしの知らない世界にいて、わたしよりも世界を深く知ってるのに、世界なんてどうでもいいって思ってる。だったら、わたしがそれをもらいたい。ううん、奪ってやりたい。ユエラと同じくらい世界が見えるようになりたい。だって、だって――――」
短く、大きく、シタンは息を吸った。
「きっとそれって、とても、とっても、素晴らしい!」
危うかった。気持ちが暴れまわり、言葉を見失う寸前だった。
それでも、シタンは言い遂げた。
「……『素晴らしい』? そう思うの?」
見えない果て。シタンはもう、それを怖がらない。
「思うよ」
「ふざけんな!」
言葉の勢いだけに圧される。
「あんた……知ってるのか? なあ、知らないだろ!」
「なにを?」
「世界が縛りつけようとしてくるのがどんなに悲しくて、苦しくて、悔しくて、怖いか……わからないだろ!」
「うん、わからない」
それらがユエラの実感なのだと、シタンはわかっている。
「だったら――――」
「どうしてユエラはそれを知ってるの?」
「それはっ……それは……」
「ねえ、どうして?」
「あ……う……うあっ……」
「あっ……」
そして、シタンは目の当たりにした。
ユエラの、涙を。
「だめだって……だめなんだって……」
その涙は、曇り空に遮られた陽光を集め、鈍く輝きながら静かに頬を伝っていた。
決して鮮やかではない。明るさもない。だが、それでもシタンは目を奪われた。
きれいだと、美しいと、そう思った。
「どうしてだめなの?」
「だって……だって、あたしは……」
シタンが手を差し出すと、ユエラは怯え、その手を避けた。
なぜなら――――
「あたしは……鉄鎖の民だから」
「えっ……」
あまりにも重すぎる事実。その言葉は、その告白は、聞かされた者にとってそういうものになるはずだった。
だが、シタンにとっては違った。
「あんたも知ってるのね。そうよ、あたしはいつか、鉄鎖をまとう隷奴になる」
「だからユエラはそんなにも深いんだね」
「えっ、あ、いや……深いんじゃない。ただ失ってるだけ」
「鉄鎖の民……そうだったんだ……」
シタンの反応が予想と違ったからなのか、ユエラは困惑していた。
「あ、怖くないよ。なんでなんだろ、とは思ってるけど。なるほど、確かにチトセ家って謎だらけだね」
シタンは立ち上がった。ユエラはそれをただ見ているだけだった。
「今日はこのくらいにしとくよ。明日はもっとたくさん教えてね」
そう言ってシタンは背を向け――――
「……あっ、待って!」
ユエラの呼び止めに、シタンは振り返った。
「『明日は』って……」
「うん、そういうこと」
「でも、本当にシンタロウは――――」
「ユエラがここに来てくれたらいい」
「いや、そんなの――――」
「ここなら大丈夫なんでしょ?」
「確かに見つかりはしないけど――――」
「じゃあ大丈夫。いなかったら探しに行くしね」
「だからそれはだめだって。見つかったら――――」
「じゃあ、ユエラが明日もここに来れば大丈夫だね」
「えっ、なんでそう……あっ」
ユエラはようやくシタンの意図を察したが、シタンは「じゃあね」と言い残して、森へと駆け出していた。
「ここに来ていいわけじゃないから!」
背後から、ユエラの慌てた声が聞こえてきていた。
森に入り、草原の気配が消えると、シタンは脚を緩めた。
「鉄鎖の……姫。うん、姫だ。あれは、うん、姫だった」
逸ったままの鼓動に突き上げられて、出た言葉。どうしてそんな言葉になったのか、シタンは自分でもわからなかった。
ただ、思い出せばなぜか納得できてしまった。曇り空と、鉄鎖の少女。本当に美しくて、尊かった。
「すごいなぁ……あぁ……はぁ……」
木々の間から覗く空は相変わらず曇っているが、シタンはもはや曇り空を意味のない天気だとは思っていなかった。
曇り続けたその日は、シタンにとって意味のある素晴らしい日となったのだった。




