鉄鎖の姫
ユエラがカナコを母と思ったことは一度もない。母とはどういう存在なのかを知っているのは、カナコが実子のエイシとコウスケに愛情を惜しみなく捧げるのを見つめてきたからだ。
「でも、カナコさんってユエラにもそうだったんじゃないの?」
「あのさ、話を逸らすのこれで何度目かわかってる?」
「わかってたらもっと楽しんで焦らすよ」
「……あんたがこの三年くらいでどういう女になったのかがすぐにわかっちゃうのって、なんだか嫌だわ」
枯色の草原。その一隅をユエラが最後に訪れたのは旅立つ前夜で、独りきりだった。今は夕方で、シタンが傍らに座っている。
「彼方の国ってどんなところだった?」
ユエラは会話を主導するのを諦めた。乾いて脆くなった茎を折るようにして仰向けになると、背中にわずかな刺激が走った。鉄鎖がキリッキンッと鳴り、その音が草原の果てへと抜けてゆく。
「彼方の国は……一つじゃなかった」
鉄鎖の余響が消えたのを感じてから、ユエラは答えた。
「なにが?」
「国が」
「えっ、なにそれ」
「北と南、それぞれの果てに別々の“彼方の国”があったってこと。どっちがシンタロウの言った“彼方の国”なのかがわからなくて、結局はどっちにも行った」
「うわぁ」
いつかのように、シタンが頭向かいになるように寝転ぶ。ザサッ、パキッ、サシャッ。シタンの下敷きになった草が軽くて乾いた音を立てる。二人が描く線は、いつも、今も、まっすぐにはならない。
「それってさ、シンタロウさんは彼方の国が二つあるって知ら……いや、それはないか」
「うん、ない」
「じゃあ、なんのためにそんなことさせたんだろね」
「…………」
答えがないわけではなかった。
だが、教えるわけにはいかない。
「……ねえユエラ、わたし思ってたんだけどさ」
シンタロウ本人に確かめていないのも、教えない理由ではある。
「ユエラはどうして『ユエラ・チトセ』になったの?」
シタンが知らないことばかりなのも、教えない理由ではある。
「あたしは『ユエラ』だよ」
シタンが腹ばいになり、手をついてユエラを見下ろす。
「なに?」
「未来は違うって顔してる」
「……それってどんな顔なの?」
「えっとね……遠い企みの顔、かな」
「なにそれ」
ユエラが穏やかな笑顔を見せた。シタンは少し驚いて、穏やかに笑い返した。
問いのすべてに答えることができるのは、すべてを征した者だけ。そして、ユエラはまだそうではなく、そうなれるのかも、そもそもそうなろうとしているのかも、確信を持つことができずにいる。
今からシタンに語ろうとしている三年弱の迷行で、ユエラは知を隠す術を身につけた。他者を操ることだけでなく、縛ることさえもできるようになってしまった。ユエラはそんな今の自分をシタンにまだ知られたくはなかったのだった。
書斎の扉の前に立ち、把手に手を掛け、ユエラは止まった。
背後の廊下へ、そして家中へ見えない鉄鎖を伸ばしてゆく。南の彼方の民が編み出した感覚の網を張り巡らせる力を鉄鎖の力として取り込んだものだ。
カナコとエイシとコウスケ。それぞれがそれぞれの部屋にいる。三人ともがユエラの帰宅には気づいているようだ。顔を出そうとはしないが、怯えたり嫌ったりしているわけではないように感じる。
ユエラは鉄鎖を引き戻した。まとわりつくような感覚があったが、見えない鉄鎖は実もないのだから、身体や鉄鎖にはなにもまとわりつくはずがない。ユエラはすぐにそれを気に留めなくなった。
今は、感覚の網の侵入を許さなかった目前の扉の向こう、そこにいるはずのシンタロウに再会することを優先しなければならない。今のユエラには、それを理解して行動に移す賢明さが備わっている。シンタロウの前でも、そうあり続けられるか。迷い歩いた果てで、ユエラは一つの証を得るために、扉を開けた。
「おかえり、ユエラ」
「ただいま、シンタロウ」