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鉄鎖の少女

 鉄鎖の民は強者だった。彼らの鉄鎖は絶対の力そのものだった。自らの身体から創り、繋げ、鍛えた鉄鎖を操って、彼らはあらゆる敵を縛り、打ち、阻んでいた。

 しかし、鉄鎖の力は縛られ、砕かれ、消されてしまった。そして、鉄鎖の力を失った彼らには、敗北と屈辱が待っていた。

 彼ら鉄鎖の民は、今では自らを縛っている。かつてはなによりも強かった鉄鎖に、もはや力は宿らない。ただまさに鉄鎖でしかない鉄鎖を創り出す力だけが身体に残り、そして彼らは自らが創り出すその鉄鎖を、隷従の証として身にまとわせる。

 ただの鉄鎖だ。ただの鉄鎖などではなかったという歴史は、今の彼らに救いを与えない。権威の象徴。力の具現。もう彼らの鉄鎖にそれらが宿ることはない。

 生まれた瞬間から、彼らは背負う。たとえ鉄鎖を創り出すのが、あるいは望まずとも生み出してしまうのが、出生から幾年か経ってからであるとしても、彼らが鉄鎖の民である限りは、誰もが彼らを逃がさない。強者であった時代は途方もなく長かった。だからこそ、逃れられないほど多くの強者を今に生み出してしまった。

 そして、二つあるべき名を一つしか与えられずに、ユエラは鉄鎖の民として生まれた。




 ユエラは一五歳になったが、まだ鉄鎖を創り出していない。

「誕生日おめでとう」

 午後。薄曇り。枯色の草原の一隅で仰向けになっていたユエラのもとに現れるなり、シタンは笑顔でユエラに祝意を示した。

「ねえ、昨日も言ったと思うんだけどさ」

「ん?」

「誕生日だからって、会いに来ていい理由にはならないからね」

 ユエラはシタンにうんざりしたような態度を見せたが、シタンの笑顔は少しも曇らない。

「でも、なんだかんだ言っても、いつも来てくれるね」

 シタンはユエラと頭向かいになるように寝転んだ。二人で草原に少し曲がった線を描く。

「あんたが探しに来るかもしれないからよ」

「ユエラの家は探さなくてもわかるよ」

「……まあそうね」

 ユエラがいつも現れる方向にある人家は一棟だけ。その向こうにあるのは広大な森林だ。

「来ないでよ?」

「うん、行かないよ」

 ある時を境に、シタンはユエラを冗談の程度を超えて困らせなくなった。これからもそうだろうと、ユエラは思った。

「それと、あそこはあたしの家じゃないからね」

「ユエラも同じ家名でいいって言われたのに?」

「それは……」

「鎖の約定は結んでないって言ったんでしょ?」

「そんなの本当かどうかわからない」

 ユエラはシタンに初めて自分とチトセ家との関係を明かした時と同じように断言した。シタンはその時と同じように声を押し込めた。

 互いから言葉が絶える。ただ空を仰ぐ時間が過ぎてゆく。世界にとっての草原と同じように、二人にとって無言はありふれている。たとえ出会ってからまだ一七日しか経っていないとしても。たとえその一七日のうちで共に過ごした時間が長くはないとしても。

「でも、嘘かどうかもわからないよね」

「……その話はもう終わり」

 ここ数日ほど、天気は薄曇りが続いている。シタンは晴れも雨も好むが、曇りだけはどうにも好きになれそうにないと思っていた。そんな考えが変わってしまったのは、シタンがユエラに会いに来るようになるきっかけとなった日のことだった。

「今晩はまた冷えそうね――――」




 鉄鎖はなぜ絶対だったのか。

 その問いに答えることができるのは鉄鎖の民を相手取ったことのある者だけであり、今や生きた証言は絶えようとしている。

 だからこそ、記録が取られた。

 チトセ家の主である、シンタロウ・チトセの手によって。




 シンタロウの記録によると、鉄鎖の民はそのほとんどが九歳から一二歳までの間に最初の鉄鎖を創り出すという。長い歴史の中で、最初の創出がその時期を外れた者は一人だけだった。


「ね、ねえ……シタン……」

「なに? まだ寒くないでしょ……えっ」


 最初の鉄鎖は首に創られる。首根の辺りで一周して首輪を作り、胸元の正円の鎖素子から再び二本に分かれ、下腹部の辺りまで到る。


「シタン……あたし、どうなるの?」

「どうって……わからないよ」

「でも、シンの書いてたやつだと、こっちは今じゃないって……」


 最初の鉄鎖の創出から短くとも一年を空けて次の鉄鎖は創られる。左右の足首を一周して二つの輪を作り、脚に巻きついて、下腹部の辺りで最初の鉄鎖の終端と繋がる。


「こんなのが……こんな、冷たい……いや……」

「ユエラ、大丈夫……大丈夫だよ。ユエラは鉄鎖の民なんだから」

「そんなの意味ない!」

「怖がらなくてもいいんだよ。鉄鎖だってユエラなんだから。そう言ってたのはユエラだよ」


 創り出されるあいだ、鉄鎖はキキッギッギギッキッと鳴り続ける。その音は聞く者を快の対極へと突きやる。


「いや……なんで全部……いや……」

「大丈夫。ちゃんとユエラだから。わたしがちゃんと見てるから」

「いや……見ないで、こんなの……」

「大丈夫。怖がらなくていい。怖くてもいい。大丈夫だから……」


 最後の鉄鎖はまた一年以上を空けて創られる。左右の手首を一周して二つの輪を作り、腕に巻きつき、肩に沿って首に到り、最初の鉄鎖と背中側で繋がる。これをもって、鉄鎖は完成へと至る。


「ねえ、あたし言ってたよね?」

「……なにを?」

「『鎖なんか、できてもなんともない』って」

「……言ってた」

「あたしってなんにもわかっちゃいなかったんだね……」


 すべての鉄鎖を創り終えた鉄鎖の民は、生涯それを身にまとう。


「本当に鉄鎖なんだね」

「ユエラ……」

「これが冷たくなくなる日って来るのかな?」

「冷たくなんかない……そんなことない」

「そりゃあさ、あんたさっきからずっと握ってるじゃない」




 かつての鉄鎖には意思が行き届いていた。鉄鎖の民たちは身体に巻きついた鉄鎖を途中で断ち分け、自らの腕や脚と同等の精密さで操ることができた。他者は決して断ち切ることができず、身体から離れない限りにおいてはほとんど自由に繋ぎも解きもできた。

 他人種にとって鉄鎖は途轍もない脅威だった。いくつもの人種や民族が鉄鎖の民に抵抗したが、ただ犠牲だけが積み上がっていった。いくつもの時代に渡って、そのように思われてきた。

 だが、抵抗勢力が替わるばかりだったことに気づいた者がいた。途轍はあるのだと気づいた者がいた。積み上がってきた犠牲がその途轍となっているということを理解した者がいた。同じ時代に現れ、同じ地に集った彼らは、抵抗の歴史のすべてを背負った。そして、彼らはとうとう鉄鎖の真実を解き明かし、自らを最後の犠牲にして、鉄鎖の力を世界から消し去った。

 その日を境にして、鉄鎖はまさに鉄鎖となったのだった。




 夜。夕食を終えてしばらく間を空けてから、ユエラは書斎に行き、シンタロウに“チトセ”を自分の家名にしてもいいと告げた。

「ユエラは本当に賢明な子になったなぁ」

 シンタロウは満足そうに笑っている。ユエラにはそう見えた。

「そんなことない」

 ユエラの腕が後ろにまわる。この男が褒める時というのは油断が許されないと、ユエラはわかっていた。

「いやいや。今まで頑なに拒んできて、真実を知った途端に真反対へと身を振ったんだ。これを賢明と言っておけば、我が家の一員となるにじゅうぶんな素質がユエラにはある、ということにできる」

 ユエラがため息をつく。その音が大きく聞こえてしまうほどに、シンタロウの書斎では動いているべきものが動いていない。書棚の脇に掛かる時計の振り子を動かしてやりたいと、ユエラは思った。今まで幾度となくそう思って、やってみたことは一度もない。

「シンは……とてもずるい」

「これからはユエラもそう言われるかもしれない。家名を共にするというのは、そういうことだ」

「カナコもエイシもコウスケも、ずるくない」

「二人に遺伝しなかったのはいいことだね。カナコは私のずるさに染まりも流されもしない。すごいことだよ」

 果てなく純粋な肯定。

「シンだけが家名を貶してる。そんなの――――」

「許せない? 許せなくなったのかな?」

 ユエラは黙り込んだ。肯定の先の罠を察知していたからだったが、否定の果てを捉えられそうになかったからでもあった。

「でもねユエラ、薬町の人間の言うことは、ユエラの見てきた私の本性とは違う私の印象から出てきている。気にする必要はないよ」

「……それでも、そういうのが周りの目というものなんでしょ?」

「よく覚えていたね。うん、賢明だよユエラ」

 すでにユエラの腕は後ろにある。それ以上はもはや両手を組んで握り込むくらいのことしかできない。

「けれど、もっと賢明にならなければね。これからは周りとの差を絶対へと近づけてゆかなければならない。そうなるまでの間、私はユエラに家名を盾や鎧として与えよう。以前から言っていたように」

「でも――――」

「ん?」

 ユエラは抵抗の失敗を悟った。だが、続けなければならなかった。

「あたしがそういう人間になれるなんてわかるわけない」

「はははは、まだそんなことを言うんだね。さっきまでの賢明さはどこにやってしまったのかな?」

 ユエラは賢明さなど求めていないのだから、それがどこへ行ってしまおうと気にはしない。注意を向けるべきなのは今の対話の経過だけだということを、ユエラは忘れていなかった。

「まあ……そのささやかな偽りを丁寧に手折ってゆくなら、まずは一五歳になったちょうどその日その瞬間に鉄鎖を創り出したことを挙げよう。次は、その鉄鎖がたった一度の創出で完成してしまったことだね。最後は……ははっ、これだけでもじゅうぶんかな?」

「でも、あたしは家名をもらえなかった」

 家名こそが“そういう人間”の証たりえることを、ユエラは知っていた。だからこそ、母君がユエラに家名を移譲する前に亡くなってしまったという事実をシンタロウの眼前に突きつけ――――

「いいや、ユエラの家名はちゃんとあるよ」

「えっ」

 ずっと時計に逃がしていた視線が、奪われた。

 ユエラは振り向き――――またも悟った。

「ああ、期待させてしまったね。きちんと言うなら、あるけれども、そこに王家の魂は宿っていない」

 シンタロウの微笑み。今のユエラにとっては血が沸きそうになるほどに苛立たしいもの。抑えることができているのは、シンタロウから少しも代償を奪えずに自分の逃げを奪わせてしまったことへの自責のほうが、ほんの少しだけ強いからだ。

「どういうことか、説明して」

 シンタロウがユエラの態度をたしなめないでいる。ユエラの耳に血流の音が響き始める。握り込めた手が鈍く痛み続けている。残る抑止は、示されるはずの情報への期待だけになった。

「ユエラの母……はもうカナコだね。産みの母君はユエラに王家の魂を移譲できるまで生きることが叶わないと知って、彼女自身の魂を捧げることにしたんだよ。純系の鉄鎖の王族は彼女とユエラしかいなかったし、かなり強引とはいえ、王家の魂を少しでも長らえることはできる。聞かされた直後はそりゃあ驚いたけれど、納得するのは難しいことじゃなかった」

 不明がわざと残されている。ユエラはその意図を掴んでいた。

「もっと簡潔に」

「家名を借りると言った瞬間にわがままな子になったのかな?」

「そういうことでいい」

 苛立ちを強気に移し替え、冷静を取り戻してゆこうとする。その試みをシンタロウは察知しているはずだが、見逃している。

 腹が立つ。身体が震えてしまう。

 それさえも、移し替えてしまえばいい。できるのであれば、そうしなければならない。できなくなれば、終わるのみだ。

「簡潔に、ねぇ……」

 さすがのシンタロウも少しばかり考える時間をとったが、それを好機と思うほど、ユエラは愚かではなかった。まさにそのとおりで、シンタロウが再び言葉を発するまでの時間は二秒にも満たなかった。

「ユエラの鉄鎖は産みの母君そのものだ」

 ユエラの戸惑いと沈黙は一〇秒に達した。なおも続こうとして、ようやくユエラの思考は帰ってきた。

「家名じゃなくて、鉄鎖に王家の魂がある……そういうことなのね」

「そういうことだよ」

 賢明だね、とは言わなかった。理解して当然、ということだった。

「ずっと隠してきたけれど、つまりはそういうことだったんだよ。産みの母君は確かに私を鎖の約定で縛ってはいない。それは本当のことだ。それならば、私がどうしてユエラを我が家に迎えて守ろうとするのか。その答えは……これも簡潔に言い表そうかな」

 一呼吸。二人のどちらも、それを間とは捉えず――――

「憧れと、利益だよ」

 まばたき一つ。ユエラがシンタロウの思考の理解に要した時間は、シンタロウが相手を真に賢明な者だとみなす水準に達していた。

 鉄鎖をシンタロウの目前に差し出す。

「あぁ……」

 創り出して間もないというのに、苦もなく従わせることができた。ユエラは鉄鎖の民であり、ユエラのまとう鉄鎖は、世界で唯一の、そうあるべきで、そうあることを叶えた鉄鎖だった。

 シンタロウが鉄鎖になにを見ているのかを、ユエラは知らない。それでも、心はわかっている。シンタロウ自身が言葉にしなかったとしても、久しぶりの“初めて見る顔”が教えただろう。

「美しい……そうだ、鉄鎖の民は美しかった……」

 触れようとはしない。触れさせようかと思えてしまう。

「あたしは『ユエラ・チトセ』としてどうすればいい?」

 シンタロウは鉄鎖に触れないようにしてユエラの頭に触れた。

「迷いなさい、私の姫。お前が迷い歩くなら、鉄鎖はいつかお前にふさわしい姿になる。その時が来れば、お前は『ユエラ・チトセ』という名の盾と鎧を捨てればいい。お前は私の姫ではなくなって、たとえ虚ろなのだとしても、『ユエラ・ジエルタ』と名乗ればいい」

「そうするよ、シンタロウ」

 どんな姿を見せられようとも、ユエラはシンタロウを嫌いになることが一度もできなかった。決して好むことができなくなるような本性を知ってもなお、できなかった。

 ユエラが欲するのは、シンタロウのようで、シンタロウではない者だった。だから、探しに行こうと思った。発つべき旅を示され、偶然に見つけた依りたい者と離れることになろうとも、その仮初の導きに鉄鎖を括りつけ、地と血を身体に擦り付けてでも、望まれたことをきっと為し遂げようと、そう思った。

 ユエラは、まずは『ユエラ・チトセ』として生きることにした。

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