第一章 うごめき
おそらくこの小説は体力を要する。
筆者が書き終わるのも大分先であり、しかも従来のケータイ小説のような読みやすさはない。
だが、この重さが人生の重さであると考える。いつだって人は簡単に死に、事件は起きる。おそらく主人公に感情移入しながら読むというよりも、主人公との距離感を感じながら読む小説となるだろう。
わかってほしいのは圧倒的な距離感と断絶。
人の苦しみなど軽薄に書けるものではなく、同時に言葉を連ねるだけ空虚である。人が死んだことに悲しみは、死んだという事実でしか表現できない。
だからこそ、このような小説形態をとらせてもらった。
より多くの読者が私の考えに賛同し、読んでくれることを期待し、手を取ってくださった方にはこの場を借りてお礼を申し上げたい。
恍惚の表情を浮かべる女の首に手をかけると、女はくぐもった声でさらに愉悦を表現するのであった。それだけでは物足りないのか、首にかけられた両手の上から自己の両手も沿え、もっと強く締めてくれるよう無言で懇願する。そして、その要求に男は素直に従い、指先に力を入れる。男が果てたときには、女の魂は既に抜け落ち、目の前にあるのはただの肉塊でしかなかった。
ファン・アントニオ・フェルナンデス・モントーヤ。 通称フリオ 3月に生まれたのに、なぜかそいつの相性は7月を意味するフリオ julioだった。フリオが産まれた日は、とても3月とは思えない暑さと日差しで、誰もが今日はjulio7月みたいだって言っていた。そんなことが理由で、彼にその愛称が付いたのかどうか、なんてことは今になってはどうでもいいことなのだ。ただ、彼はフリオと呼ばれていた、それだけの事実があれば、今は十分だ。
彼は、ヒターノの家系、つまりジプシー。 ここで少しジプシーの歴史を紐解きながら、彼らの特徴を述べる必要があるだろう。ジプシーは、インドからやってきたと言われている。そして長い年月をかけ、彼らはインドからアラブ、そしてルーマニアなどの東欧、そこからフランス、最後にたどり着いたのがスペインだといわれている。彼らは流浪の民であり、楽園を求めて旅を続け、もちろん途中で定住を選んだ者もいれば、志半ば旅の途中で倒れた者もいる。そして、最後に彼らが終着地として選んだのが、スペイン南部アンダルシアである。そして、ヒターノとはスペイン語でジプシーを意味する言葉だ。
彼らは音楽性に優れていた。ジプシーの歴史と音楽の関係は切ってもきれない関係にあり、アラブ・ヨーロッパの民族音楽の歴史をたどれば、必ずジプシーにぶつかるといっていいほど、彼らの音楽性はアラブ・ヨーロッパに多大なる影響を与えた。その代表的なものにフラメンコがあるといえよう。
彼らの顔は浅黒く、まつげは長く、堀の深い顔立ちをしており、アングロサクソンとは明らかに異なる妖艶なオリエンタルな香りは、時として人々を惑わせた。フリオも例外ではなかった。いやむしろ例外だったかもしれない。背丈は決して高かったわけではないが、肩まで伸びたその髪は、鳥の濡れ羽色とも言うべき、艶やかなで常に濡れているのではないかと思わせるほどの輝かしい黒髪であり、肌は上質のシルクを思わせるほど滑らかでありながら、海の男のような日に焼けた力強い色をしており、一見すると細見に見えるその肉体も、フラメンコによって鍛えられ、ネコ科の肉食獣を連想させるしなやかさがあり、その身体に触れるものを狂わせてしまうほどのエロスに満ち溢れていた。
当時のヨーロッパは汚かった。そして、強烈な異臭が各所から放たれていたのだ。下水設備など当然しっかりしていないのだから、全ての汚水は河川に流れ込み、河は汚物まみれとなっていた。市場でと殺された家畜から出た血液、廃棄された内臓、死んだ犬猫やねずみ、身元不明の死体、考えうる全ての汚物が河川には存在した。そんなものが発酵をはじめ、川底からぶくぶくと泡を吹き出し、そこから放たれる腐乱臭を形容するにも、現代の生活からは程遠く、想像を超えたものなのである。この匂いを知る者が、現代にいるとすれば、死体を自分の家に放置した経験のある、殺人者と精神異常者くらいだろう。
なにもかもが汚かった。当時を考えれば、風呂に入るなどという習慣は、一部貴族だけのものであり、多くの人は風呂に入らず、髪はフケや頭髪からの皮脂、さらには街中の埃を被り、髪も肌も色はくすみ、髪は櫛で梳かすことなど不可能なほど絡まり、きしんでいた。衣服も、充分な数をもっているはずなどなく、破れた衣服の上から薄汚れた布きれを繋いだだけのようなものを重ね、肌着は汗を吸い込み、垢によって変色し、黒ずんでいた。このような人々が放つ匂いは、衛生的な現代な人々には耐えられないものであろう。それこそ一瞬で吐き気を催すような匂いである。
当時のヒターノといえば、そのような世界で最下層の暮らしをしていた。街に住むことを許されず、ほとんど路上で生活しているようなものであり、まともな仕事にありつけるものなどいなかった。女は10歳を過ぎれば、初潮を迎えるよりも早く、街に立たされた。そして、多くの女の処女は、わずかな賃金のために、見知らぬ男によって奪い去れ、その後も多くの男たちの欲望のはけ口として、ボロボロになるまで使われ続けるのである。見ず知らずの子を妊娠することだってあり、産むこともあれば、堕胎することもある。
男だって、碌なことはない。もっと幼いときから、皮なめし工場などで働かされ、牛や豚の死臭の中、その返り血を体中に浴びながら日々を過ごし、わずかにもらえる賃金はパンを買うにも不十分であるが、数少ない家族の収入源として働かざるを得なかった。もしくは、盗み、強盗、殺しといった犯罪に手を染めるかである。そして、ほとんどの男たちは後者の道を選んでいた。
アンダルシアのとある町では、ヒターノの部落のひとつは町のはずれの市場と皮なめし工場のあいだにある、とある橋のふもとにあった。およそ10くらいの家族がそこに住んでいたが、働く女子供はおれど、働く男は皆無であった。男たちは、朝から葡萄酒を飲み、ハシシと呼ばれる大麻の一種と思われるタバコに混ぜて吸い、朦朧とした意識の中で、子供に手を上げ、女たちを街へ追い出し、帰ってきたら自らの欲望のはけ口とする、そんな生活を繰り返していた。すでに彼らにとって、セックスとは排泄行為と等しかった。愛などというものは、豊かな者たちだけに与えられた共同幻想である。真に貧しき者にとっては、愛などという感覚はない。そこにあるのは、動物のごとき本能と歪んだ形での怨念のごとき嫉妬心と絶望感である。男たちは、自分たちの境遇を呪い、豊かな者たちを恨み、わら人形に五寸釘を刺すが如く、女たちの股に自らの男根を突き刺すのであった。
フリオもその集落で産まれた。このような場所である。誰が父親であるかなんて、わかるはずもない。わかるのは、母親だけである。母の名は、マリア・モントーヤ・バルガス。彼女のことを詳しく知る者がいないため、彼女に対する記述をすることは困難を極めるのだが、「実は彼女は貴族の子供で、望まれない子供であったために彼女の母ドローレス・バルガスに託された」という説や、「そのドローレス・バルガスととある貴族とのあいだにできた子供である」といった出生にまつわる噂が耐えない女性であった。だが、母ドローレスはマリアが幼少のころ急逝しており、その真相を知る者がいるとすれば、集落の長であるイスラエルだけであるが、そのイスラエルが口を割ることも決してなかった。
フリオを産んだのは、マリアが18のときである。フリオは彼女にとって、最初に産まれた子であった。最初に産まれた子供ではあるが、初めての妊娠ではなかった。初めて妊娠したのは13のときであった。父親はおそらく彼女を贔屓にしていた、変態マリオ。やつは、マリアの最初の客であり、初めての相手でもあった。当時11歳のマリアを500ペセタで買い、変態マリオが言うのは、痛がるマリアを無理やり押さえつけ犯したようなのだ。
「あれはいい女だった。処女だからいつもよりも300ペセタも多く払わされたけど、処女のガキに突っ込む瞬間ってのは、きつくてたまらねえよな。それによぉ、あいつが少し抵抗するから、引っ叩いて無理矢理にやってやったんだよ。そうしたら、泣きながら、やめてくれっていうから余計に興奮したよ。」
というのが、変態マリオの発言なのだが、実際にはどうも疑わしい。というのは、まずマリアは傷一つなく帰ってきた。つまり破瓜という重大な出来事はあったにせよ、抵抗しているならば殴られたあとがあっても良いし、変態マリオの発言どおりならば、やつはマリアを引っ叩いたことになるが、傷一つない。それにそもそも人間としての完成を失っているマリアが、抵抗するということすら考えられないのだ。むしろ、全くのためらいもなく服を脱ぎ、ベッドに横たわり、その瞬間が来て、終わるのを待ったのではないかとすら思えるのである。更に言えば、マリアは痛みという感覚すら麻痺していた可能性がある。と考えると、無理矢理犯したということは考えにくい。そして、初体験という行為が彼女にとって重大な意味を示すように聞こえるだろうが、貧困の中で失われた人間性は、たとえ残酷な破瓜を体験しようとも蘇ることはなかった。
その後も変態マリオは何度もマリアを買った。そして、偉そうにマリアを連れていく姿は何度も見られていた。しかしいつの間にか立場は逆転し、変態マリオは13歳のマリアの前に跪き、一晩相手をしてくれと請うようになっていた。マリアにとっても、金払いが悪くない変態マリオは悪い客ではなかった。やつのことを、変態、変質者と罵る者はたくさんいたが、所詮はどの男も似たようなものだった。そりゃたしかに、醜悪に太った変態マリオが裸になり、荒く鼻を鳴らしながら、自分の足の指を一本ずつ舐めていく姿が、まるでえさを舐めるイボガエルのようであったが、結局は自分の身体に異物が入り、その後男は嬉しそうに金を置いていく、その一連のプロセスに違いはない。
なぜ立場が逆転したのか。これは日本のとある高名な研究者が言及していることだが、小児愛好者いわゆるロリータコンプレックスの者は、少女を愛す一方で、自らも子供に還りたいという、幼児化願望があるようなのだ。しかも不思議なことに、そのなりたい自分の年齢は自分が対象とする少女よりも、年下を目指すのである。そして、その少女のなかに母を見出そうとするという不思議な、鬱屈した現象が見受けられるのだ。変態マリオを例に取れば、彼はマリアを愛する中で、自分はマリアよりも下の年齢、つまり11歳以下の自分になろうとしていたのであった。このような状況が生まれるのは、小児愛好者がもつ幼児性と幼児回帰願望がが、自らの性的嗜好という形で投影されているのではないかと考えられている。そして、それを称して幼児退行的ナルシズムと規定している。
この小児愛好者の願望は、多くの場合は受け入れられない。なぜなら相手がいたとしても、その相手がその状況を受け入れられないからである。だが、マリアはいつの間にかその逆転の状況を受け入れていた、というよりも抵抗も示さなければ、賛同していたわけでもない。ただ、目の前にある状況に対して無感覚でいただけである。それが余計に、変態マリオをのぼせ上がらせる要因となった。そして、マリアが妊娠したときを考えると、その時期の客は変態マリオだけであった。しまいには、彼は「自分と結婚してくれ」とマリアに言い出し、「お前が他の客の相手をするのは嫌だ」と、自らの商店を売り、その金を全てマリアにつぎ込んでいたのだ。変態マリオと結婚する気などさらさらなかったが、それでも好条件であったこともあり、変態マリオだけの相手をすることをマリアは受け入れていた。そんなさなかの妊娠であった。
「おそらく、このことを知れば、やつは喜ぶだろう、そして、さらにしつこく結婚を申し入れてくるだろう。それで金が入るならば良いが、そうでないとしたら、変態マリオもこのおなかも仕事の邪魔でしかない」
そんなことが頭をよぎっていたのだが、ある日を境に変態マリオの姿が見当たらなくなった。客としてのやつがいないのであれば、妊娠は仕事の邪魔でしかない。しかも、親のいないマリアは全てを自分で稼ぎ出さねばならないのだから、休んでいる暇はなかった。
いつの間にか、お腹の子は消えていた。
二回目の妊娠は、15歳のときであった。このころのマリアといえば、息を呑むほどの色気を持つ女になっていた。誰一人として、彼女を15であるとは思わなかった。街を歩くだけで、人々は振り返り、その澄んだ黒い瞳に誰もが吸い込まれそうになっていた。もちろん客も絶えなかった。たとえどんなに他者からの寵愛を受けようとも、それに感謝する気持ちも嫌がる気持ちもなかった。あくまでもマリアは無感覚であった。
このころに、あたりを取り仕切っていた長老イスラエルの息子ホセは、彼女を貴族専用の売春婦に仕立て上げた。彼女にとっては、そんなことはどうでもよかった。客が貴族だろうが、乞食だろうが、どうせすることに変りはない。またがってきて、己の欲望を果たし、それで金を払う。それだけのことだ。相手が貴族になれば、金払いはよくなり、一回でもらえる金も増えるが、それでも多くはホセにもっていかれたし、自分にとっては何もかわらなった。そんなときの妊娠である。マリアは、これを機にこの仕事をやめようか、なんてことも考えていた。確かに他の仕事の選択肢があるわけではない。だが、彼女は疲れていた。決して彼女の美貌がその疲弊によって失われることなどなく、彼女の疲労に気づくものなどもいなかったが、彼女自身だけは自分が疲弊していることに気づいていた。
何に疲れていたのかは、わからない。ただ、体の中にどす黒く重たい、ずっしりとした鉄球のようなものが入っているような気がした。夜もあまり眠れなかった。しまいには、自分が起きているのか、寝ているのか、そんなことすらわからなくなり始め、夜に眠っているのか、それとも自分は白昼夢の中にいるだけなのか、そんなことも全くわからなかった。だが、その重さだけがマリアの持つ唯一の感覚であった。
ホセは仕事をやめさせるわけにはいかなかった。大事な収入源である。ここでやめさせてしまえば、収入の多くを失う。だからこそ、マリアをやめさせるわけにはいかない。そして、ホセはマリアの妊娠に気づき始めていた。彼女がつわりを起こしていることも、お腹が少し大きくなってきっていることにも気づいていた。ホセにとっては、妊娠による休暇すらも邪魔な存在であり、認める気はなかった。
「今日の客は、トーレ・デ・マカレナの先のカジェ・ソルの55番に住んでいるおっさんだ。やつはもう七十だってのに、お前とやりたがっているよ。金はさっき半分受け取ったから、お前は残り半分を貰って帰って来いよ。それはそうと、お前の腹が最近でかくなってきている気がするんだが、まさか子供でも出来たわけじゃあるめえよなあ。そういうめんどくせえことは勘弁してくれよ。てめえに休む暇なんてねえんだし、そもそもお前に子供なんて必要ないんだからよ。」
そんなホセの言葉を聞いても、マリアが反応することはない。ただホセのほうを見て、「行ってくる」の一言を発するだけであった。いつもいつもホセは、マリアの反応に気持ち悪さを感じていた。時には、彼女が人外の者ではないのかと疑うことすらあった。それくらいマリアは反応がなく、不気味な妖気を漂わせながら、それでいて人一倍美しかった。かつて一度はマリアと一晩供にしてみようと考えたこともあったようだが、なんか嫌な予感がしたのでためらってよく見てみると、死んだドローレスが見えたような気がして、それ以来マリアにちょっかいを出すことはなかった。
だが、ある日マリアは突然襲われた。突然一人の男に羽交い絞めにされ、そして前からもう一人の男に棒で大きくなりかけた腹を何度も叩かれた。痛みの感覚など持ったこともなく、怒りなどという人間的な感情はを抱いたこともなかったマリアであるが、何か背中をぞわぞわと虫が這うようなものと、こめかみが締まっていくような現象、そして胃がよじれるような横隔膜の痙攣を感じ取っていた。
怒りである。
今まで人間の感情などもったこともなく、白昼夢のなかを彷徨うよう生きてきたマリアであるが、この一瞬だけは人間としての感性をもつことが出来たような気がする。そして、自分の身体の中から何かが出ていくのを感じた。思っていたよりも冷たい感触をしていて、思っていたよりもさらさらとしていた。そして、下腹部から太ももへと伝わり、下に滴り落ちていくと思っていたのだが、水分が床に落ちていく音も感覚もなかった。それはまるで太ももまで流れた後に、どこかへ消えてしまっているような感じがし、耳元でざわざわと笹がこすれるような音だけがし続けた。その中でホセの声は遠のき、かすれゆく意識の中、何かを見たような気がしたが、それは所詮以前からよく見ている幻覚に似ていた。だが、確認するにも身動きは出来ず、意識も朦朧としていて、視界もぼやけている、ただ何かが抜けて落ちていく感覚と、自分の中の鉄球が大きくなっていく感覚、この二つだけがマリアには残されていた。