第一話:演習場からの跳躍、あるいは第六天魔王との遭遇
「おい近衛、お前またそんなもん読んでんのか。業務外の私物持ち込みは厳禁だって、教育隊の時から耳にタコができるほど言われてるだろ」
初夏の蒸し暑さが残る東富士演習場の茫々たる草むらの中、三宅輝三等陸尉は、呆れたようにため息をついた。
陸上自衛隊第1師団所属、陸曹候補生課程の演習の合間。木々の木漏れ日を浴びながら、頭に偽装用の草を盛った一人の女性自衛官が、戦闘服のポケットから文庫本を取り出して貪り読んでいた。
近衛聡子二等陸士、21歳。
自衛隊に入隊した理由はただ一つ、「本物の兵器と軍隊の戦術を間近で拝むため」という筋金入りのミリタリーオタクであり、自他ともに認める「戦争大好き・戦略的脳筋」である。小柄な体躯と可愛らしい顔立ちに騙されると痛い目を見る。その頭脳に詰まっているのは、古今東西の合戦史、現代戦術論、そして兵器のスペックデータのみだ。
「いいじゃないですか三宅班長! これは読書という名の『戦術予習』です! カンナエの戦いにおけるハンニバルの包囲殲滅陣、何度読んでも最高ですね。あ〜、私も一度でいいから、圧倒的兵力差を純粋な戦術眼だけで覆すような、史上に残る大殲滅戦を指揮してみたいですよ!」
「お前なぁ……目の前でそんな物騒な目をギラつかせるな。俺はな、無事に全員を生きて基地へ連れて帰るのが仕事なんだよ」
三宅は額の汗を拭いながら、自身の胸元に光る『レンジャー章』のバッジを愛おしそうになでた。27歳にして陸上自衛隊最難関のレンジャー養成教育を修了した凄腕のサバイバー。極限状態での生存術と特殊作戦においては右に出る者がいない男だが、根本的には異常なほど危険回避能力が高い。
「まあまあ三宅班長、聡子ちゃんの『戦争愛』は今に始まったことじゃないですし」
二人から少し離れた木陰で、救急品袋の薬品や包帯の検品を几帳面に繰り返していた男が笑いかけた。安藤一馬二等陸曹、25歳。自衛隊病院勤務の衛生隊員でありながら、暇さえあれば歴史書と最新の医療論文を読み漁っている「医療研究馬鹿兼歴史オタク」だ。
「しかし聡子ちゃん、歴史上の大殲滅戦と言ったら、日本ならやっぱり『桶狭間の戦い』か『長篠の戦い』でしょう。特に織田信長の兵糧攻めや情報戦、そして衛生概念の導入なんかは——」
「はいはい、安藤二曹の信長語りが始まると長くなるからストップです」
聡子が文庫本を閉じようとした、その時だった。
不意に、周囲の空気が重く沈み込んだ。
「……ん?」
三宅の鋭い野性が、即座に異常を察知した。風が止んだ。セミの鳴き声も、遠くで聞こえていた他の班の足音も、すべてが嘘のように消え去っている。
「班長、なんですかこれ……? 気圧が急激に下がって……」
安藤が手元の高度計を二度見する。針が狂ったようにグルグルと回転していた。
「全員、伏せろッ! 何かが来る!」
三宅の叫びと同時に、空間そのものが濡れた雑巾のように歪んだ。視界全体が強烈な紫色の光に包まれ、強烈な浮遊感が二人と一人を襲う。耳を劈くような高周波の音。現代のあらゆる物理法則を無視したその現象に、聡子は恐怖を感じるどころか、興奮で瞳を輝かせていた。
(何これ……時空間の歪み!? まさか、超自然的な事態に巻き込まれてる!?)
意識がホワイトアウトする寸前、三宅の叫び声が響いた。
「小銃を絶対に離すな! 装備を保持しろ!!」
◆
「……う……ぐ……」
激しい頭痛とともに、聡子は目を覚ました。
頬に触れるのは、乾燥した土と焦げくさい草の匂い。富士の演習場に漂っていた濡れた土の匂いとは明らかに異なる。
「……二人とも、無事ですか!?」
ガバッと起き上がると、すぐ脇で三宅がすでに89式小銃を構え、周囲を警戒していた。その迅速な立ち上がりは流石レンジャーと言わざるを得ない。
「ああ、俺はなんとか無事だ。安藤も生きている」
「痛たた……頭が割れそうです。……って、ここはどこですか?」
安藤が頭を押さえながら体を起こす。
三人は即座に自分たちの装備を確認した。各自の89式小銃(弾薬は教練用の空砲ではなく、演習実砲弾が込められたマガジンが各自4基)、9mm拳銃、防弾チョッキ、鉄帽、救急品パック、サバイバルナイフ、そして安藤が持っていた大型の衛生バッグ。装備は完品だ。
しかし、周囲の景色がおかしかった。
富士の裾野にあったはずの広大な演習場はなく、目の前に広がっているのは、舗装もされていない荒れた街道と、見たこともない古風な木造建築が連なる小さな集落。そして、空を覆う黒煙だった。
「……火災? いや、あれは……」
三宅が単眼鏡を覗き込む。その顔が瞬時に引きつった。
「おい、冗談だろ……? 武者だ。鎧を着た奴らが、民家に火を放って人を斬り回ってる」
「はぁ!? 映画の撮影ですか!?」
「撮影なわけあるか! 首が飛んだぞ! 本物の殺し合いだ!」
安藤が顔を蒼白にして震え上がる。一方、聡子は素早く三宅から単眼鏡をひったくり、レンズを覗き込んだ。
「ほう……! 当世具足を身に纏った歩兵……いや、足軽ですね。旗印は……笹に雀? いや、あれは三ツ鱗……? ちょっと待ってください、あの兵たちの装備の統一感の無さ、野武士か流民の強盗集団です!」
「呑気に解説してる場合か! 巻き込まれたら終わりだ、撤退するぞ!」
三宅が指示を出そうとしたその時、集落の奥から一人の小さな少女が逃げてくるのが見えた。その後ろから、刀を振りかざした野武士が笑いながら追ってくる。
「ひぃっ、助けて……っ!」
「ケハハハ! 逃げられると思うなよ、ガキが!」
少女が転んだ。野武士が邪悪な笑みを浮かべ、刀を振り下ろす——。
「近衛、待てッ!」
三宅の制止を聞く前に、聡子の身体は動いていた。
「人道的に見過ごせません! それに……初陣(初戦闘)のチャンスです!」
聡子は背中の89式小銃を素早く構えると、一瞬で照準を野武士の足元に合わせた。距離およそ150メートル。自衛隊の射撃姿勢の手本のような、寸分のブレもない立ち射ち。
——タァン!
乾いた銃声が街道に響き渡った。
野武士の右膝が弾け飛び、男は悲鳴を上げて転倒した。少女の上に覆いかぶさるように倒れ込む。
「な、なんだ!? 雷か!?」
周囲にいた野武士たちが一斉に動きを止めた。彼らにとって、聞いたこともない「乾いた破裂音」と、目に見えない何かが仲間を穿った事象は、恐怖以外の何物でもなかった。
「安藤二曹、少女の保護を! 三宅班長、火力支援をお願いします!」
「くそっ、腹を括るしかないか! 安藤、行くぞ!」
「は、はいぃっ!」
三宅と安藤が走り出す。三宅はすぐさま物陰に滑り込み、残りの野武士たちへ向けて威嚇射撃を放った。
——タァン! タァン!
「ひぇっ!?」「な、腕が……腕が吹き飛んだ!?」
現代小銃の威力と、圧倒的な射撃精度。自衛官三人衆の放つ「目に見えぬ雷」に、野武士集団は完全にパニックに陥った。
「敵の数は約十五! 戦術的混乱状態に乗じ、包囲して無力化します!」
聡子は目をギラギラと輝かせ、木々の間を俊敏に駆け抜けた。長年培った(趣味と訓練の)戦術理論が脳内で高速回転する。
「左翼から三宅班長、右翼から私が挟み撃ち! 安藤二曹は少女の救護及び負傷者の検分!」
「了解!」
三宅はレンジャー仕込みの無音の動きで野武士の背後に忍び寄り、小銃のバット(銃床)で男の頸椎を的確に強打して絶倒させた。聡子は前進しながら、向かってくる野武士の刀を小銃のフレームで受け流し、そのまま足払いをかけてグラウンド状態へ持ち込むと、9mm拳銃のグリップで側頭部を殴りつけた。
わずか三分。
十五人の野武士集団は、死者数名、重軽傷者多数を出して、蜘蛛の子を散らすように逃げ去っていった。
◆
「はあ……はあ……。大丈夫ですか、お嬢さん」
安藤が泣きじゃくる少女の膝の手当てをしていた。救急品袋から取り出した消毒液を塗り、白い包帯を綺麗に巻いていく。
「痛くないでしょ? すぐ良くなるからね」
「あ、ありがとう……お兄ちゃん。……あんたら、神様……?」
少女は見たこともない緑色の迷彩服を着た三人組を、恐怖と感謝が混ざり合った目で見上げていた。
「神様じゃないよ、ただの自衛官……いや、旅の者だ」
三宅は小銃の安全装置をかけながら、深く溜息をついた。
「で、聡子。お前、状況をどう分析する?」
聡子は落ちていた野武士の刀を拾い上げ、刀身や柄の作りをまじまじと観察していた。
「刀の打ち方、目釘の構造、そして敵の服装……間違いないです。ここは現代の日本じゃありません。そして、安藤二曹の高度計の異常と太陽の位置から考えて……」
「僕たちの知る歴史の『戦国時代』……ですね」
安藤が言葉を継いだ。歴史オタクとしての彼の脳内データベースが弾き出した答えは、絶望的だが客観的な真実だった。
「演習場の時空間異常によって、僕たちは過去の日本にタイムスリップした。……笑えない話ですけど」
「タイムスリップ……マスコミが飛びつきそうなニュースだな。だが、現実問題として俺たちの補給はゼロだ。弾薬も、食料も、医薬品も限られている。ここでどう生き残る?」
三宅の冷徹な問いかけに、聡子が不敵な笑みを浮かべようとした——その時だった。
地響きが鳴り轟いた。
「……蹄の音! 騎兵隊です! 数が違う、数十……いや、百以上!」
三宅が即座に警告を発する。集落の街道の向こうから、立ち上る煙を割って、整然と隊列を組んだ騎馬武者の一群が現れた。
野武士たちの乱雑な集団とはまるで違う。赤や黒の漆塗りの武具、揃いの旗印、そして何より、発せられる圧倒的な覇気。
中央に立つ一匹の黒馬。その上に跨がる男を見た瞬間、安藤が息を飲んだ。
黒地にしだれ柳の文様をあしらった豪華な羽織。腰には二本の刀。そして、すべてを見透かすような、鋭く、狂気すら孕んだ眼光。
「あ、あれは……」
安藤の喉が鳴った。
騎兵隊が自衛官三人を遠巻きに包囲する。武者たちが一斉に弓や槍を構えた。絶体絶命の状況。しかし、三宅も聡子も、決して小銃を下げることはしなかった。
中央の男が馬を少し進め、三人を見下ろした。
「ほう……見たこともない奇妙な衣装。そして、遠くから聞こえた『雷の音』……。貴様らが、あの野伏どもを追い散らしたのか?」
低く、朗々と響く声。
聡子は一歩前に踏み出した。恐怖など微塵もなかった。彼女の脳内にある「歴史上の偉人スペックシート」が、目の前の男の正体を完璧に特定していたからだ。
「質問に答える前に、お名前を伺っても? 武士の礼儀でしょう」
聡子の物怖じしない物言いに、周囲の家臣たちが「無礼者!」と刀を抜きかけたが、男はそれを手で制した。そして、楽しそうにニヤリと笑った。
「面白い女だ。……織田上総介信長である」
その名を聞いた瞬間、安藤の膝がガクガクと震えた。
(本当に……本当に織田信長だ……! 本物の、第六天魔王……!)
しかし、聡子の反応は違っていた。
彼女の瞳に、爛々と妖しい光が宿った。ミリタリーオタクとして、戦略家として、そして戦争大好きな脳筋として、彼女はこの状況の「最適解」を瞬時に導き出していたのだ。
「織田信長様……。天下布武を掲げ、旧態依然とした戦国時代を破壊せんとする時代の寵児」
聡子は小銃を胸元で構え直し、綺麗な敬礼を捧げた。
「私は近衛聡子。こちらは安藤一馬、三宅輝。私たちは『未来』から来た兵士です」
「未来の……兵士だと?」
信長が眉をひそめる。普通なら「戯言」と切り捨てるところだが、三人の纏う異常な空気と、足元に転がる野武士たちの「不可解な死体」が、その言葉に説得力を与えていた。
「信長様。あなたに提案があります」
聡子は堂々と、信長の目を真っ直ぐに見つめて言い放った。
「私たちの持つ未来の知識、未来の衛生医療、そして未来の戦術技術——これら全てを、あなたに献上しましょう。その代わり、私たちをあなたの配下として雇い入れなさい!」
「なに……?」
「現代兵器の弾薬には限りがあります。ですが、私が持つ『戦略と兵器運用術』、安藤の持つ『病を打ち破る未来の医術』、三宅の持つ『どんな戦場からも生還する生存術』があれば、あなたの天下統一は十年早まります! いや……日本どころか、海の向こうの大陸すら、あなたの足元にひれ伏させましょう!」
静寂が支配した。
あまりにも不敬、あまりにも大言壮語。家臣たちが息を呑み、信長の決断を待った。
信長は数秒間、聡子をじっと見つめていた。そして——
「ハハハハハハハ! ハハハハハハハハハッ!!」
お腹を抱えて大笑いし始めた。
「ハハハ! 面白い! 実に面白い女だ! 未来の兵士だと? 天下統一を早め、世界を余に捧げると宣うか!」
信長は笑いを収めると、ギラリと光る目で三人を見据えた。
「良いぞ! その言葉、偽りであれば即座に首を撥ねる! だが、真であれば……余の軍略の全てを貴様らに委ねてやる! ついて参れ、未来の兵たちよ!」
「はっ! 謹んでお申し付けを果たします!」
聡子は力強く答えた。
後ろで三宅が「おい近衛、勝手に風呂敷を広げるな! 世界統一ってなんだよ!」と青ざめた顔で囁き、安藤が「ひいぃ、信長直属とか死亡フラグじゃ……」と泣きそうになっていたが、聡子の耳には届いていなかった。
(始まった……! 私の、私たちの『本当の戦い』が! 戦国時代を現代戦術で塗り替えて、信長と一緒に世界を獲る……! 最高じゃない!!)
富士の演習場から始まった突発的なタイムスリップ。
自衛官三人衆と、第六天魔王・織田信長。
歴史の潮流を根底から覆す、前代未聞の地球規模ドミネーションが、今ここに幕を開けたのだった。




