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婚約破棄を承知いたしました。では、王家への立て替えは本日で終了です

掲載日:2026/04/13

「婚約破棄を承知いたしました。

 では、王家への立て替えは本日で終了です」



 春の夜会は、その一言で静まり返った。



 王太子アルノルト殿下は、私を見下ろしたまま眉をひそめる。


 その隣には、最近になって《《癒やしの聖女》》と持て囃されている伯爵令嬢ミレイアが、勝ち誇ったように寄り添っていた。

 彼女の胸元で揺れる大粒の首飾りに、私は見覚えがあった。


 王都結界の補修予算から消えた額と、ほぼ同じだけの価値がある石だったからだ。



「……何だと?」



 殿下の声は、見事なくらい意味を理解していない響きだった。



「立て替え、でございます」



 私は静かに頭を上げる。



「王太子府の不足金。

 結界院への仮払金。

 殿下の名でなさった寄付や贈答の未決済分。

 婚約者として私が一時的に埋めておりましたので、本日をもって停止いたします」


「何を馬鹿なことを言っている」



 殿下は鼻で笑った。



「婚約がなくなった腹いせに、そのような虚勢を張るな」


「虚勢ではございません」



 私は微笑んだまま答える。


 ここで怒ってはいけない。

 泣いてもいけない。


 前世の私は、この場で取り乱し、嫉妬に狂った悪役令嬢として断罪された。


 だから今世では、絶対に感情を見せないと決めていた。



「そもそも、お前は王妃教育を受けていただけだろう」



 殿下は続ける。



「王家の支払いに関わる権限などあるはずがない」


「権限ではなく、保証です」



 私はそう訂正した。



「殿下の私的裁量で不足した分を、私の持参金とヴァルテール公爵家の信用で一時的に通していただけでございます。

 婚約が解消された以上、もう私の名で通すわけにはまいりません」



 場のあちこちで、小さく息を呑む気配がした。


 殿下の側近たちの何人かは、今の一言でようやく事態の輪郭を理解したらしい。

 けれど当の本人だけは、まだ分かっていない顔をしていた。



「好きにしろ」



 殿下は吐き捨てるように言った。



「どうせ大した額ではない」


「かしこまりました」



 私はもう一度、丁寧に礼をした。


 それから、壁際に控えていた老執事へ小さな封箱を差し出す。

 赤い封蝋を三つ重ねた、私印入りの箱だった。



「こちらを、明朝一番で陛下と監査卿殿下へ」


「……承知いたしました」



 老執事は一瞬だけ私を見たが、何も訊かなかった。

 長年王宮で勤める人は、余計な場面で余計な口を利かない。



「では、失礼いたします」



 私は優雅に一礼し、そのまま夜会場を後にした。


 背後でアルノルト殿下が私の名を呼んだ気がしたけれど、振り返らない。

 もう、この人の赤字を私が隠す必要はないのだから。


 王都の屋敷へ戻ったのは、夜会が終わって間もなくのことだった。



「お嬢様」



 侍女のマリーが、外套を受け取りながら低く問う。



「ご決断を?」


「ええ」



 私は頷く。


 もう、前世と同じ死に方を選ぶつもりはない。

 だったら、退路は最初から整えておくべきだった。


 だから私はこの半年、王太子府の数字をすべて別帳簿へ写し、誰がどこから何を持ち出したかまで整えてきた。



「契約停止の書状を」



 私は机へ向かいながら言う。



「王都結界用魔石の優先納入保証。

 王太子府名義の仮払保証。

 春の慈善舞踏会に関する公爵家の立替支援。

 全部、明朝から無効にしてちょうだい」


「供給そのものは止めますか」


「いいえ。

 止める必要はないわ」



 私はペンを取った。



「現金前払いに戻すだけ。

 《《婚約者の名で通していた便宜》》をなくすの」



 それなら不当な妨害にはならない。


 単に、正規の手続きへ戻すだけだ。

 王家が払えるなら何も困らない。


 払えないなら、それは私のせいではない。



「お父様には?」


「朝一番で報告を。

 私は婚約解消を受け入れ、公爵家の信用供与を停止したと伝えて」


「かしこまりました」



 マリーは一礼し、迷いなく部屋を出ていく。


 こういうとき、彼女は本当に優秀だ。

 前世で処刑されたあと、彼女がどうなったのか私は知らない。


 それだけが、少しだけ心残りだった。

 だから今世では、彼女ごと守れる道を選ぶ。



 私は婚約指輪を外し、小箱へしまった。


 そして王太子府の別帳簿をもう一度開く。


 不足金。

 架空の慈善支出。

 王都結界補修費からの流用。

 ミレイアへ贈られた装飾品。

 王太子派の貴族を集めた宴席費。


 これらはすべて、《《なかったこと》》にされるはずだった数字だ。



「ようやく終わるわ」



 小さく呟く。


 恋が終わるのではない。

 赤字の穴埋めを、ようやくやめられるのだ。


 気分は、婚約破棄された令嬢というより、辞表を受理された会計係に近かった。


 翌朝、最初の使者が来たのは、まだ朝食の紅茶が冷めきらないうちだった。



「セシリア様!

 至急お戻りください!」



 王太子府の若い文官は、門のところでほとんど悲鳴のような声を上げた。



「結界院が、今日の定期補修用の高純度魔石を受け取れないと!

 保証印が無効になっていると申しておりまして!」


「そうでしょうね」



 私はジャムを塗ったパンを一口かじる。



「私の私印で保証しておりましたから」


「しかし、本日中に調整を行わねば王都外縁の結界出力が――」


「でしたら、王太子府から現金でお支払いください」



 文官の顔が引きつった。



「それが、今月分の裁量金はすでに……」


「使い切っていらっしゃるのですね」


「……」



 沈黙は何より雄弁だった。



「私はもう婚約者ではありませんので」



 私は穏やかに微笑む。



「本件は、殿下ご自身のご判断でお願いいたします」



 文官は何か言いたげだったが、結局そのまま青ざめて帰っていった。

 二人目の使者は、一時間後に来た。

 三人目は、そのさらに半時間後だった。


 王宮の会計係は今月の数字が合わないと言い、結界院の技師は魔石の搬入が止まったと言い、慈善施療院の事務官は寄付金が振り込まれていないと泣きそうな顔をした。


 私は全員に同じ答えを返した。



 私はもう婚約者ではないこと。

 私の立て替えは昨夜をもって終了したこと。

 必要なら、正規の支払い手続きを踏んでほしいこと。


 誰一人、それに反論はできなかった。

 できるなら、最初からそうしていればよかったのだ。




 昼過ぎには、アルノルト殿下本人が屋敷へやってきた。



「セシリア!」



 応接室へ入るなり、彼は怒鳴った。


 昨日までの余裕に満ちた王太子の顔はどこにもない。

 髪は乱れ、声は掠れ、苛立ちで目が血走っている。



「お前、何をした!」


「何も」



 私は紅茶を置き、静かに答えた。



「婚約を解消し、私名義の立て替えをやめただけです」


「それで王太子府が止まっているんだぞ!」


「《《止まった》》のではありません」



 私は訂正した。



「殿下が開けた穴が、見えるようになっただけです」



 殿下の顔が歪む。



「ふざけるな!

 お前がいなくなった途端、結界院も会計も大混乱だ!」



「でしたら、それだけ私が必要だったということでしょう」


「なら戻れ!」



 反射的な命令口調だった。

 ああ、この人は本当に何も分かっていなかったのだと、そこで少しだけ哀れになる。



「婚約を解消した相手へ、最初にかける言葉がそれですか」



 殿下が詰まる。

 その隙に、私は机の上の薄い帳面を一冊押し出した。



「こちらは王太子府の私的裁量支出の抜粋です。

 見覚えのある品が多いのではありませんか」



 殿下は半ば乱暴に帳面を開き、すぐに顔色を変えた。


 そこには、贈答品と支出先と日付が並んでいる。

 ミレイアへ渡した首飾り。

 彼女のために開いた小宴。

 彼女の侍女へ配った口止め料。


 その財源の出所まで、全部書いてある。



「なぜ、これを」


「私が支払っていたからです」



 私は淡々と言った。



「少なくとも、不足分の一部は」


「……返せ」


「はい?」


「その帳簿をだ!」



 殿下は一歩詰め寄った。



「監査が入れば、俺は――」


「もう入っています」



 今度は、はっきりと言った。



「昨夜お預けした封箱には、抜粋ではなく全帳簿が入っています。

 今ごろは陛下と監査卿殿下がご覧になっている頃でしょう」



 殿下の顔から血の気が引いた。

 そこで初めて、事態の大きさを理解したらしい。



「お前……!」


「私は国を止めていません」



 彼の言葉を静かに遮る。



「殿下の浪費を、私費で隠すのをやめただけです」



 ちょうどそのとき、扉が叩かれた。



「王命です。

 セシリア嬢、アルノルト王太子殿下、ただちにご登城ください」



 現れたのは、王弟であり監査卿でもあるユリウス殿下の側近だった。


 灰色の制服は乱れひとつなく、声も平坦だった。

 けれどその平坦さが、むしろ逃げ道のなさを感じさせた。



「陛下がお待ちです」



 謁見の間は、昨夜の夜会よりずっと静かだった。


 玉座の前には国王陛下。

 左右には宰相、宮廷会計長、結界院長。

 そして、その少し下がった位置に、灰色の瞳を持つユリウス殿下が立っていた。


 卓上には、私が預けた封箱と、そこから出された帳簿の束が積み上げられている。



「セシリア嬢」



 国王陛下が口を開く。



「この帳簿にある《《仮払》》と《《一時保証》》は、すべてそなたの名か」


「はい」


「なぜ、ここまで黙っていた」


「婚約者としての体面を守るためです」



 私は膝を折ったまま答える。



「王太子殿下のご判断の誤りを、王家の恥として表へ出したくありませんでした」



 玉座の間の空気がわずかに重くなった。

 たぶん、本当に言い逃れできないと理解したのだろう。



「アルノルト」



 国王陛下の声は低かった。



「そなたは、自分の裁量で生じた不足を、婚約者の持参金で埋めさせていたのか」


「ち、違います!

 多少の便宜を受けただけで――」


「便宜?」



 ユリウス殿下が初めて口を開いた。


 静かな声だった。

 だが、彼の前で数字をごまかせる者はいないと噂されるだけあって、その一言には妙に重みがあった。



「結界院補修費から流れた金で、聖女殿の首飾りを買ったのも便宜か。

 慈善施療院名目で宴席費を処理したのも便宜か。

 公爵家の信用を無断で使い、翌月へ赤字を飛ばしたのも便宜か」



 アルノルト殿下は何も言えなかった。


 隣に控えていたミレイアが、今さら泣きそうな顔で首を振っている。

 でも、彼女の胸元にあの石はない。


 王宮へ入る前に差し押さえられたのだろう。



「王太子府は本来、今月の裁量金で結界院へ支払いを行うべきでした」



 ユリウス殿下は帳簿を一枚めくる。



「だが実際には、三か月連続で不足している。

 不足分はセシリア嬢の私費および公爵家保証で補填。

 しかも、その間に私的贈答が増えている」



 そこで、彼の灰色の目が私へ向いた。


 昨夜、封箱を預けたときに一度だけ見た目だった。

 値踏みではない。

 仕事をやり遂げた相手を見る目だと、今は分かる。



「よく整えられた帳簿です」



 その一言だけで、少しだけ息がしやすくなる。


 私はただ損失を埋めていただけではない。

 いつか必要になるかもしれないと思って、ずっと記録も残してきた。


 それを初めて、誰かが《《仕事》》として見てくれた気がした。



「アルノルト王太子」



 国王陛下が告げる。



「継承権を一時停止する。

 王太子府は監査下へ置く。

 関係帳簿をすべて提出せよ」


「陛下!」


「ミレイア嬢も王宮から退去。

 調査が終わるまで接触を禁ずる」



 ミレイアが泣き崩れる。


 アルノルト殿下は顔を真っ赤にして何か叫んでいたが、よく聞こえなかった。

 前世では、ここで泣いていたのは私のほうだった。


 それだけの違いなのに、景色はひどく違って見える。



「セシリア嬢」



 国王陛下が私を見る。



「迷惑をかけた。

 望みがあるなら聞こう」


「では三つ」



 私はまっすぐ顔を上げた。



「第一に、私名義で立て替えた分の全額返還を。

 第二に、今後私およびヴァルテール公爵家の私印を、王家の支払い保証へ無断で使用しないことを。

 第三に」



 一呼吸置く。



「婚約解消後の私へ、立て替えを当然の義務と見なさないことを」



 玉座の間のあちこちで、居心地の悪そうな気配が揺れた。


 でも、事実だ。

 むしろ今まで、よく黙っていたと思う。



「……もっともだ」



 国王陛下は重く息を吐いた。



「他には」


「しばらく静かに暮らしたいです」



 私は微笑んだ。



「数字の合わない場所からは、少し離れたく存じます」



 そこで、小さな笑い声が落ちた。


 驚いて見れば、ユリウス殿下がわずかに口元を緩めている。

 この人でも、こんな顔をするのかと思った。



「それは少し困る」



 彼は一歩進み出た。



「監査局は慢性的に人手不足でね。

 特に、感情ではなく帳簿で殴れる人材が不足している」



 思わず目を瞬く。

 殴る、という物騒な言い回しが、この場で一番しっくり来てしまった。



「セシリア嬢」



 ユリウス殿下は続ける。



「王家の婚約者としてではなく、正規の俸給を支払う職員として、私のもとで働く気はないか」


「監査局で、ですか」


「そうだ」



 短い返答だった。


 でも、その短さがありがたかった。

 妙な慰めや、哀れみではなく、ただ《《使える人材》》として声をかけられている。


 そのことが、思ったよりずっと嬉しい。



「……考えさせていただけますか」


「もちろん」



 ユリウス殿下は頷く。

 そのまま引くかと思ったのに、彼はそこでほんの一拍だけ間を置いた。



「ただし、個人的にはあまり長く待つ気はない」



 玉座の間が、今度は別の意味で静まった。

 私はしばらく、その言葉の意味を考えた。

 考えて、ようやく頬が熱くなる。



「監査卿殿下」


「王弟だ、今は」



 さらりと言われる。


 ますます困る。

 困るけれど、嫌ではない。



「職の話と、それ以外の話を同じ場でなさるのは、少し狡いと思います」


「そうかもしれない」



 ユリウス殿下はあっさり認めた。



「だが、会計だけ先に取られて、本人を逃すのも惜しい」



 今度こそ、玉座の間の空気が揺れた。


 宰相が咳払いをし、国王陛下がどこか疲れた顔で額を押さえる。

 でも私は、妙におかしくなって、少しだけ笑ってしまった。



 前世の悪役令嬢は、もういない。

 いるのは、婚約者の赤字を帳簿で暴いて、ようやく自分の人生の収支を取り戻した女だけだ。



「では、まずは監査局から」



 私は一礼した。



「それから先は、正当な俸給と、正当な言葉をいただいてから考えます」


「厳しいな」


「数字に厳しい女ですので」



 ユリウス殿下が、今度こそはっきり笑った。


 その笑い方を見て、ああ、この人の下なら働いてもいいかもしれないと思う。

 立て替えではなく、ちゃんと評価された仕事として。


 ついでに、その先にあるものも、少しだけ期待して。



 少なくとも、次に誰かの隣へ立つなら。

 私の名前ではなく、私の数字と仕事を見てくれる人がいい。


 それならきっと、前世よりずっとましな結末になる。

面白ければ、ブックマークや評価で応援いただけると嬉しいです。

2026/4/15より本作の連載版を開始しました!全8話の中編の予定です!

そちらもぜひぜひよろしくお願いします!


https://ncode.syosetu.com/n1394mb/


【4/18追記】

本作をお読み頂きありがとうございます。

本日、新連載を開始しました。


妹が「お姉様の代わりは務まります」と言うので、婚約者も役目も譲りました。ですが務まらなかったようです【連載版】

https://ncode.syosetu.com/n3418mb/


本作と同時期に投稿した同名の短編を連載化したものです。

光栄なことに、信じがたいほど多くの方々に読んで頂けた短編で(現時点で日間総合5位!)、この連載も少しでも多くの方々に楽しんでいただけるよう頑張ってまいります!

是非是非、皆様の応援をよろしくお願いいたします!

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― 新着の感想 ―
仮払だ一時保証だ監査だと、それっぽい単語が出てくるからそう思っちゃうのかもしれないけど、現代日本ならヒロインもしょっぴかれる案件では?特に監査の人間がこんな感想持つのはあり得ないというか、真逆の感想な…
この手の話見て思うことは粉飾決算で誤魔化してましたは同じ穴の狢でしかないと思うんよね 少なくとも最初から国王と王弟に話しとおしておかないとだめでしょ
何となく個人的に感じるだけなんだけど・・ストーリーは嫌いじゃないけどこういう趣旨のヒロインなのに最後結局恋愛対象が新たなヒーロー誕生で、何処まで行っても自立できない、能力で買われるのが恋愛込っていうの…
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