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資源の無駄遣い

約束の前日。

「静寂の湖畔」を覆う朝靄は、男が愛するワンルームの無機質な肌を、しっとりと濡らしていた。


男は作業台に向かい、これまで数年をかけて備蓄してきた希少素材を、惜しげもなく投資した。

それはワンルームの外壁へと直に取り付けられる、異形の装置だった。


強靭な装甲に打ち付けられ、唯一、水圧という名の暴力を直接受け止めるための中枢。

内部に送り込まれた膨大な食材を、圧縮された空間ごと叩き潰すための「外殻圧力釜」を、男は冷徹な手つきで組み上げていく。

水圧が既定の量に達した瞬間に、完成したスープが「缶詰」となって返却される一方通行のシステムだ。


「深海の調理器具」が完成した。


男は丸一日かけて外壁の一枚一枚に、水属性の廃材の下地を塗り込んでいった。

刷毛が金属の表面を滑るたび、銀の外壁が潤いを得たように輝き、周囲の魔力を貪欲に吸い込み始める。


それは単なる防錆剤ではない。

魔術師たちが後から付与する術式と共振させるための、「魔導装甲」としての受容体だった。


翌日。

約束の刻限と共に、湖畔の静寂を乱す蹄の音が響いた。

現れたのは、王立最高魔術院の紋章を纏った、十数名の精鋭魔術師たちだ。


重厚な馬車を降り、主を探す彼らの前に、それは剥き出しの姿を晒していた。

カモフラージュを剥がされた「ワンルーム」――鋼鉄製の、あまりに無機質な平屋。

静かな湖畔において、その鉄の塊だけが、異質な沈黙を放っていた。


「……待て。三百名の兵士を守護する規模の術式と聞いたが、……そ、それにかけろというのか?」


魔術師団のリーダーらしき魔術師が、困惑を隠さずに問いかけてきた。

彼らが想定していたのは、王国の秘密兵器である重装歩兵部隊の鎧や、国境を守る巨大な盾の列だったはずだ。


「そうだ。すべての外壁に。重ね掛けで頼む」


男はワンルームの入口に立ち、冷淡に言い放った。


「馬鹿な。これほどの術式を、たかが個人の住居に付与するなど、無駄遣いどころの騒ぎではない。

何を沈めるつもりだ? 禁忌の呪物か、それとも――」


「早く始めろ」


男は冷たく言葉を遮り、そのまま扉を閉めた。

内側から幾重ものロックがかかる音が、外界との対話を完全にシャットアウトしたことを告げていた。

魔術師たちは困惑げに顔を見合わせたが、すでに頭金として受け取った金貨の重みと、魔術院の署名が入った契約書の絶対的な命令が彼らの口を封じた。


作業が始まった。


モニター越しに、男は外界の儀式を観察する。

十数名の魔術師が円陣を組み、ワンルームを囲んで詠唱を開始した。

大気が震え、湖畔の平穏な水面が、術式の干渉によって激しく波立ち始める。


空中に、複雑怪奇な幾何学模様の「魔法陣」が重層的に展開されていく。

それはまるで、光り輝く青い蜘蛛の巣が、ワンルームを包み込む繭のように紡がれていく光景だった。


男が昨日塗り込んだ深海の銀のコーティングが、その光に応えた。

付与された術式が、外壁に吸い込まれるように定着していく。

銀色は次第に、深海を思わせる漆黒に近い紺碧へと変色し、ワンルーム全体が「超高圧に耐えうる物理的・魔導的シェル」へと再構築されていった。


魔術師たちは、その「定着率」の異常さにさらに驚愕した。


「……信じられん。反発が一切ない。この外壁そのものの意志であるかのように馴染んでいく……。この下地は何だ?」


彼らがどれほど驚こうと、男には関係なかった。


夕刻。

すべての術式が完了した。

ワンルームは、もはや「部屋」の形をした、要塞と化していた。

男は操舵輪を静かに回し、ワンルームをゆっくりと湖へと滑らせた。


水面に触れた瞬間、波紋すら立てず、鋼鉄のワンルームは静かに、深淵へとその姿を消した。


湖底。

水深五メートル。

水深十メートル。

水深二十メートル。


湖の底は、夕刻の光が幽かに届く、泥と沈黙の世界だ。

窓のないワンルームにとって、そこは外界の光も、不快な視線も、騒々しい通知も届かない、完璧な孤独の深淵だった。


モニターが、外の世界を「熱源探査」と「魔力探知」で描き出した。

暗い水の中を、巨大な魚影が静かに通り抜けていく。

外壁には、水圧が容赦なく襲いかかっていた。

本来ならワンルームを軋ませるその圧力は、最高峰の防護魔法と男の下地に屈服する。


男は作業台のレバーを引いた。

ワンルーム全体が、極小の振動を開始する。

外壁が受け止めた水圧が、外殻の特製調理器――「深海スープ釜」へと一点集中される。

釜の中では、昨日調達した猪肉や根菜が、高圧の中で激しくぶつかり合い、融解を始めていた。


――ガコンッ!


鈍い金属音と共に、回収口から熱を帯びた「缶詰」が吐き出された。

完璧だ。

魔術師たちが戦場を守るために作り上げた国家級の術式が、今、この男のスープを美味しくするためだけに、贅沢に浪費されている。


男は、湯気を放つ缶詰を慎重に開封する。

真夏の野菜畑を何重にも濃縮し、それを深海の冷徹な重圧で炊き上げたような、圧倒的な芳香が室内に雪崩れ込んだ。

男は確信した。


「……これだ。これを深淵で作る」


ワンルームは静かに湖面へと浮上し、岸辺へと着陸した。

室内の気圧が正常に戻る。

男は椅子から立ち上がると、玄関の二重ロックを解除し、外へと足を踏み出した。


そこには、精根尽き果て、膝を突いている魔術師たちがいた。

彼らは、水没から戻ってきたワンルームが、塵ひとつついていない美しさを保っていることに、不本意な誇らしさを感じていた。


「……我々が展開した多重術式は、本来、王都を焦土に変える炎にすら耐えるものだ。だが、これは……」


魔術師は、湖面から音もなく浮上する鋼鉄のワンルームを、神の遺物でも見るかのような目で見つめていた。


男は、彼らの問いには答えなかった。

ただ、硬貨が詰まったずた袋を、無造作に魔術師の足元へ放り投げた。


「報酬だ。契約完了だ、帰れ」


それだけ言うと、彼らが袋を開ける暇も与えず、鋼鉄の扉を閉ざした。

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