必要経費
買い出しの終点、マルシェの出口に佇む怪しい露天商。
その棚の隅で、男の指は止まった。
乾燥し、紫色の火花のような産毛を蓄えた「雷鳴草」。
それは中枢神経を過剰に励起させ、知覚を数千倍に跳ね上げた末に、呼吸停止へと至らせる、毒だ。
だが、男の思考回路に毒という概念はない。
男が作ろうとしているスープは、普通ではない。
深海の圧力を宿した旨味の粒子は、あまりに細かく、あまりに鋭い。
人間の舌では、その全てを受容できないだろう。
スープを人間の舌に合わせるのではない。
舌を引き摺り出してでも、それをスープに合わせるのが、絶対に正しいのだ。
男は無言で雷鳴草を指さすと、銀貨を数枚、チャラチャラと音を立ててカウンターに置いた。
店主も何も聞かない。
ただ無機質な動作で、その「死の招待状」を古びた紙に包み、男へと差し出した。
男は手に入れた毒をコートのポケットへと沈めた。
買い出しを終えた男が向かったのは、首都の象徴とも言える白亜の巨塔――王立最高魔術院だった。
国内のあらゆる魔術師ギルドの頂点に君臨するその威容を前に、フォーマルな礼服がいっそう重く肩に食い込む。
広大なエントランスには龍殺しの武勲を携えた英雄や、天変地異を操る老賢者たちが当然のごとく闊歩している。
早くこの虚飾を脱ぎ捨て、――あの狭く、無機質な自室へと逃げ戻ることだけが、今の彼の唯一の願いだった。
魔術院の受付に用件を告げると、奥から現れたのは、絵に描いたような貫禄を纏ったギルドの幹部だった。
「深海の水圧にすら耐えうる多重の水属性防御術式……?
それも、三百名の重装歩兵を完全防護するに相当する規模だと?」
幹部は、男が提示した無茶な魔力計算書を二度見した。
「……この術式構成、どこの賢者の編纂だ? 水没した古代遺跡に大軍でも送り込むつもりか? 人の制御を超えている」
「お前の感想は求めていない。書かれた通りにやれ」
男は、吹雪の迷宮の対価、重いずた袋をテーブルに叩きつけた。
「頭金だ。残りは現地だ」
男にとって金は、黙らせるための道具に過ぎない。
幹部が金貨の重みに息を呑むのを見届け、男は背を向けた。
「十日後。場所は首都北西、『静寂の湖畔』だ」
魔術院を出た時、男の懐は文字通り空になっていた。
十日間で、契約を完了させるための莫大な残金を稼ぎ出さねばならない。
首都の空気を切り裂き、重厚な鋼鉄の扉の鍵を開けた瞬間、部屋自体が彼の帰還を喜ぶように微かに震えた気がした。
男だけが理解できるこの無機質な世界。
その秩序に触れ、男の強張っていた神経がようやく解けていく。
男は、忌々しい礼服のボタンを丁寧に外すと、そのままワンルームの操舵輪を握った。
目的地は、首都からほど近い場所に突如として出現した迷宮。
数千人の冒険者が群がり、死と富が交差する喧騒の最前線。
男にとって、これほど効率良く金貨を巻き上げる場所は他になかった。
迷宮の入り口、鋼鉄のワンルームが音もなく姿を現した瞬間、冒険者たちの間に戦慄が走った。
男が「境界の板」に商品の補充を告げた瞬間、その戦慄は狂乱へと変わった。
「自家製治療薬・銀の雫」――。
森で精製した奇跡の液体が、界隈の市場価格をわずかに下回る絶妙な価格で、次々と「鉄の箱」から吐き出されていく。
――ガタンッ。
――ガタンッ。
――ガタンッ。
補充口から溢れ出すのは、冒険者たちが命を削って手に入れた銀貨や金貨の山だ。
男はモニター越しに、商品を奪い合う群衆を見つめた。
彼らは治療薬を手に「これで明日も潜れる」と笑い合っている。
その一滴の雫にすら込められた、男の執念への敬意など微塵もない。
ただ、自分を安価に生かしてくれる「便利な鉄の箱」を崇めているだけだ。
「……早く、全部、吐き出せ」
男は商品が捌ける合間に、調達した素材を作業台に置いた。
すり鉢で丁寧に粉砕しては、瓶に加えていく。
全てすりつぶして油と混ぜると、完成したのは、深海の澱みをそのまま溶かし込んだような、青黒い輝きを放つ液体だ。
術式を定着させる「下地」としては最適だった。
男は一人、深夜の作業台で今日一日の成果に目を細めた。
硬貨を散々食い尽くしたずた袋は、丸々と太っていた。
一週間後。
作業台の上には、硬貨の詰まったずた袋の山が出来ていた。
男は迷宮を離れる直前、「境界の板」をチェックした。
【 総合評価:☆2.8 】
☆5 迷宮の亡霊
「ポーション神。マジで神。これのおかげで仲間全員生還した。補充のタイミングを教えてくれたら全財産投げ出すわ」
☆1 駆け出しの剣士
「補充した瞬間に売り切れ。並んでたのに。店主、裏で誰かと繋がってるだろ。マジで最悪、客を舐めてる」
☆1 腹ペコ戦士
「逃げても無駄だぞ。俺はもう、普通の飯じゃ満足できねえ身体にされたんだ。早く扉を開けろ、捕まえてやる」
男は無造作に画面をスワイプした。
繋がっているのは、冒険者の命であり、男ではなかった。
男はワンルームを浮遊させ、用済みの迷宮を離れた。
向かうのは、魔術院に指定した約束の地。
首都の近隣にある、鏡のように静かな「湖畔」だ。
男は航路を「静寂の湖畔」の中央に固定すると、バスルームへと向かった。
バスルームの扉を開けると、霧雨のようなミストと共に、森の奥深くにある秘湯のような、硫黄と清冽な土の香りが男を包み込んだ。
男が金磁器の蛇口を捻れば、圧縮空間に封じ込められた「名湯」が、一切の空気に触れることなく新鮮なまま溢れ出す。
シャワーで一日の「汚濁」を洗い流す。
黒い御影石の湯舟に波紋を広げ、縁から静かに「かけ流されて」いく。
「……ふぅ」
男は確信していた。
これから始まる、この湯舟よりはるか下の、魔境への旅路を。




