表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

7/8

必要経費

買い出しの終点、マルシェの出口に佇む怪しい露天商。

その棚の隅で、男の指は止まった。

乾燥し、紫色の火花のような産毛を蓄えた「雷鳴草」。


それは中枢神経を過剰に励起させ、知覚を数千倍に跳ね上げた末に、呼吸停止へと至らせる、毒だ。

だが、男の思考回路に毒という概念はない。


男が作ろうとしているスープは、普通ではない。

深海の圧力を宿した旨味の粒子は、あまりに細かく、あまりに鋭い。

人間の舌では、その全てを受容できないだろう。


スープを人間の舌に合わせるのではない。

舌を引き摺り出してでも、それをスープに合わせるのが、絶対に正しいのだ。


男は無言で雷鳴草を指さすと、銀貨を数枚、チャラチャラと音を立ててカウンターに置いた。

店主も何も聞かない。

ただ無機質な動作で、その「死の招待状」を古びた紙に包み、男へと差し出した。

男は手に入れた毒をコートのポケットへと沈めた。


買い出しを終えた男が向かったのは、首都の象徴とも言える白亜の巨塔――王立最高魔術院だった。

国内のあらゆる魔術師ギルドの頂点に君臨するその威容を前に、フォーマルな礼服がいっそう重く肩に食い込む。

広大なエントランスには龍殺しの武勲を携えた英雄や、天変地異を操る老賢者たちが当然のごとく闊歩している。


早くこの虚飾を脱ぎ捨て、――あの狭く、無機質な自室へと逃げ戻ることだけが、今の彼の唯一の願いだった。


魔術院の受付に用件を告げると、奥から現れたのは、絵に描いたような貫禄を纏ったギルドの幹部だった。


「深海の水圧にすら耐えうる多重の水属性防御術式……?

それも、三百名の重装歩兵を完全防護するに相当する規模だと?」


幹部は、男が提示した無茶な魔力計算書を二度見した。


「……この術式構成、どこの賢者の編纂だ? 水没した古代遺跡に大軍でも送り込むつもりか? 人の制御を超えている」


「お前の感想は求めていない。書かれた通りにやれ」


男は、吹雪の迷宮の対価、重いずた袋をテーブルに叩きつけた。


「頭金だ。残りは現地だ」


男にとって金は、黙らせるための道具に過ぎない。

幹部が金貨の重みに息を呑むのを見届け、男は背を向けた。


「十日後。場所は首都北西、『静寂の湖畔』だ」


魔術院を出た時、男の懐は文字通り空になっていた。

十日間で、契約を完了させるための莫大な残金を稼ぎ出さねばならない。


首都の空気を切り裂き、重厚な鋼鉄の扉の鍵を開けた瞬間、部屋自体が彼の帰還を喜ぶように微かに震えた気がした。

男だけが理解できるこの無機質な世界。

その秩序に触れ、男の強張っていた神経がようやく解けていく。


男は、忌々しい礼服のボタンを丁寧に外すと、そのままワンルームの操舵輪を握った。

目的地は、首都からほど近い場所に突如として出現した迷宮。

数千人の冒険者が群がり、死と富が交差する喧騒の最前線。


男にとって、これほど効率良く金貨を巻き上げる場所は他になかった。


迷宮の入り口、鋼鉄のワンルームが音もなく姿を現した瞬間、冒険者たちの間に戦慄が走った。

男が「境界のボード」に商品の補充を告げた瞬間、その戦慄は狂乱へと変わった。


「自家製治療薬・銀の雫」――。


森で精製した奇跡の液体が、界隈の市場価格をわずかに下回る絶妙な価格で、次々と「鉄の箱」から吐き出されていく。


――ガタンッ。

――ガタンッ。

――ガタンッ。


補充口から溢れ出すのは、冒険者たちが命を削って手に入れた銀貨や金貨の山だ。


男はモニター越しに、商品を奪い合う群衆を見つめた。

彼らは治療薬を手に「これで明日も潜れる」と笑い合っている。

その一滴の雫にすら込められた、男の執念への敬意など微塵もない。

ただ、自分を安価に生かしてくれる「便利な鉄の箱」を崇めているだけだ。


「……早く、全部、吐き出せ」


男は商品が捌ける合間に、調達した素材を作業台に置いた。

すり鉢で丁寧に粉砕しては、瓶に加えていく。

全てすりつぶして油と混ぜると、完成したのは、深海の澱みをそのまま溶かし込んだような、青黒い輝きを放つ液体だ。


術式を定着させる「下地」としては最適だった。

男は一人、深夜の作業台で今日一日の成果に目を細めた。

硬貨を散々食い尽くしたずた袋は、丸々と太っていた。


一週間後。

作業台の上には、硬貨の詰まったずた袋の山が出来ていた。

男は迷宮を離れる直前、「境界のボード」をチェックした。




【 総合評価:☆2.8 】


☆5 迷宮の亡霊

「ポーション神。マジで神。これのおかげで仲間全員生還した。補充のタイミングを教えてくれたら全財産投げ出すわ」


☆1 駆け出しの剣士

「補充した瞬間に売り切れ。並んでたのに。店主、裏で誰かと繋がってるだろ。マジで最悪、客を舐めてる」


☆1 腹ペコ戦士

「逃げても無駄だぞ。俺はもう、普通の飯じゃ満足できねえ身体にされたんだ。早く扉を開けろ、捕まえてやる」




男は無造作に画面をスワイプした。

繋がっているのは、冒険者の命であり、男ではなかった。


男はワンルームを浮遊させ、用済みの迷宮を離れた。

向かうのは、魔術院に指定した約束の地。

首都の近隣にある、鏡のように静かな「湖畔」だ。


男は航路を「静寂の湖畔」の中央に固定すると、バスルームへと向かった。


バスルームの扉を開けると、霧雨のようなミストと共に、森の奥深くにある秘湯のような、硫黄と清冽な土の香りが男を包み込んだ。

男が金磁器の蛇口を捻れば、圧縮空間に封じ込められた「名湯」が、一切の空気に触れることなく新鮮なまま溢れ出す。

シャワーで一日の「汚濁」を洗い流す。

黒い御影石の湯舟に波紋を広げ、縁から静かに「かけ流されて」いく。


「……ふぅ」


男は確信していた。

これから始まる、この湯舟よりはるか下の、魔境への旅路を。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ