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世界のレプリカ

目覚めを告げたのは、心臓の鼓動よりも正確に秒を刻む、壁の機械式時計の音だった。

男は毛布を跳ね除け、数秒間だけ天井を見つめて肺の空気を入れ替える。

昨夜の侵略の残滓――血の匂いや、吹雪の冷気、そして何より「他人の気配」が、まだ肺の奥にこびりついているような気がしたからだ。


無言でベッドを抜け、居住区と玄関を隔てる重厚な鋼鉄の扉の前に立つ。

錠を解く「ガチリ」という無機質な音が、静寂の中に鋭く響いた。


扉を開けた先には、予想に反して、冷徹なまでの「無」が横たわっていた。


玄関マットの上には、血の一滴も、雪の一片も残っていない。

重装騎士が敷き詰めていた厚手のマントが、少年の傷口から溢れたすべてを吸い込み、そのまま物理的に持ち去ったのだ。

空気が驚くほど澄んでいるのは、去り際に何らかの魔法的な浄化、あるいは高度な消臭処理を行ったからだろう。

男の領域を侵したことに対する、武人なりの最大限の「原状復帰」という名の謝罪。


それを象徴するように、ドアノブに一枚の羊皮紙が掛けられていた。


男はそれを指先で摘み上げ、ワークベンチのランプの下で広げた。

冒険者ギルドの最高級割り印。

そして、重装騎士の署名。


『ヴァルター・フォン・レギール』


肝心の依頼内容は空白のままだ。

そこには受託者はあらゆる要求を拒めないという、冒険者にとっては命を預けるに等しい『白紙の指名依頼書』としての効力があった。


命を救った礼を、強固な「債権」に変えて返そうとする。

その律儀さが、独り身の職人には何よりも重苦しい「しがらみ」に感じられた。

男はその紙を、宛名のない請求書のように引き出しの奥へ放り込んだ。

今は、その鎖の重さを感じる必要はない。

この静寂こそが、今の自分にとっての唯一の正義だ。


しかし、在庫は尽きかけている。

治癒触媒の予備も昨夜で消費した。

拠点を動かす、潮時だった。


男はクローゼットを開けた。

そこは、このワンルームの心臓部である動力室だ。

収納されているのは、長年の偏執的な収集癖が生んだ、他人が見れば「価値あるゴミ」の群れ。

ひび割れた古代の魔剣、用途不明の遺跡の歯車、欠けた竜の鱗。

それらは、ミニマリストを自称しながら、本質的には「素材」に魂を売った男の、捨てられないエゴの集積だった。


男は、砂利の詰まった木箱を引き出した。

深海の静寂を閉じ込めたような、深い青を湛える砂利。

それは出力の安定化過程で削り捨てられた、魔石の「屑」だ。

だが、不純物さえ魔力の共振回路へと転用できる男の手にかかれば、それはいかなる低級魔石よりも鋭敏に、その役割を果たした。

男はそれを、床下で鈍い鼓動を刻む動力炉の炉心へ、静かに流し込んだ。


――ズゥゥン


腹の底に響くような重低音が床から突き上げ、ワンルーム全体が歓喜に震えるように身を震わせる。

男は動力炉の確認を終えるとモニターへ向かった。

年季の入った操舵輪を回すと、外装の「襤褸小屋のカモフラージュ」が光の屈折によって消失し、空間の断層へと滑り込んだ。

「迷宮」を後にしたワンルームは、物理法則をあざ笑うように、音もなく極寒の空へ飛行を開始した。


男の目的地は首都へ向かう方向、1日後。

年に一度、冬の終わりにだけ咲く薬草の、誰も知らない群生地。


ようやく、自分の時間が戻ってきた。

男は作業台の前に座り、動力室から運び出した「不良在庫」の山と向き合った。

昨夜、他人のために浪費した「時間」と「精神」を、物理的に埋め戻すための聖なる儀式だ。


目的は、ただ一つ。

人間がいない景色を、視たかった。


誰の足跡もなく、言葉もなく、人工物もない。

風が吹き、獣が睦み、植物が静かに呼吸を繰り返すだけの、純粋な世界。

この世界から彼らをすべて消し去るよりも、この部屋に「誰もいない世界」を再構築する方が、遥かに合理的だった。


モノクルを回す。

都会の輪郭を削り、手元の廃材だけを視界に収める。

そこには、あまりに純粋な、他者との繋がりが拘束にさえ見えてしまう「完結した欲求」だけがあった。


今夜の相手は折れた剣でも、依頼品でもない。

動力室から運び出した、彼が溜め込んだ「真のガラクタ」の山だ。

古代遺跡から掘り出された、用途不明な歯車。

襲撃された隊商の残骸に遺されていた、魔力を帯びて歪んだ珊瑚の化石。

かつて空を飛んでいたとされる、今は亡き文明のエンジンの残骸。


それらは、どれも単体では機能しない「死んだ部品」たちだった。

だが、男の目には違って見えていた。


男は、歯車を珊瑚の化石の隙間に強引に噛み合わせた。

本来交わるはずのない二つの物質が、一つの構造体として新たな意味を持った。

男が作り上げようとしているのは、直径十二センチのミニチュアの円卓状の構造物だ。


だが、それは食事をするためのテーブルではない。

天板には、大小様々な「窪み」が、奇妙な幾何学模様を描いて配置されていた。

その数、十二柱。


男は、歪んだ金属板をバーナーで炙り、それをハンマーで叩いて、一つの窪みの縁を丁寧に仕上げていく。

人間だけが居ない、計算された完璧なサイクルで呼吸し、繁栄し、そして静かに朽ちていく世界。

その世界の観測者は、自分一人でいい。


男の手が止まる。

視線は、円卓の中央、最も深くえぐれた窪みに注がれていた。


【根幹の四柱】

この箱庭を繋ぎ止めるための、絶対的な拘束具。

浮ついた大地を物理的に繋ぎ止め、中心点を固定する重力の起点。

それさえあれば、この世界は他人の干渉を許さず、世界の隅で永遠に独り回ることができる。


そして、その隣。


【循環の三柱】

男は空っぽの窪みを忌々しくなぞる。

耕作、屠殺、祈り、そして死体の処理。

そんな醜悪な生の時間など、この聖域には一秒たりとも必要ない。

淀まぬ風と、完璧な熱。ただ無機質な循環だけが、命ある者の身勝手な鼓動を上書きし、沈黙の中で回転し続けるのだ。


最後に二重の円卓を包む外円。


【世界の基本構造 五柱】

いつか、この世界で最も美しいとされる場所から切り取ってくる、原風景たち。

森林、草原、荒原、海洋、淡水。

それらは彼の箱庭の中で、つぎはぎの大地となり、完璧な調和をもって一つの世界を模るだろう。


男は、最後の一撃をハンマーで打ち込み、息を吐いた。

十二の窪みは、すべて空っぽだ。

その「完璧な欠落」が、かえって男の飢えを激しく煽り立てる。

ここを埋めるのは、他人の手垢がついた既製品ではない。

自分が認めた、混じりっ気なしの「世界の破片」だけだ。


――男が渇望したのは、人間だけが存在しない『世界のレプリカ』。


そして、自らの身もまた、その静寂のおりへと永遠に閉じ込めてしまいたかった。

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