内圧300気圧の慈悲
鋼鉄のドアを叩く音は、男の世界を物理的に削り取る振動だった。
外界と室内を隔てる十センチ厚の複合装甲板。
それが悲鳴を上げるたび、天井から微細な埃が舞い落ち、完璧に磨き上げられた廊下の表面を汚していく。
皿の上で湯気を立てるポトフが、一秒ごとにその理想的な温度を失っていく。
男は無言でスプーンを置いた。
静寂という名の調味料を奪われた食事は、男にとって、もはや砂を噛む作業と変わらない。
拳を握る。
この「完璧な孤立」を維持するために、どれほどの魔石と、どれほどの時間を費やしてきたかを思い返していた。
男は重い腰を上げ、作業台の端にあるモニターをタップした。
画面が砂嵐のようなノイズと共に立ち上がる。
外壁に設置されたカメラが捉えているのは、吹き荒ぶ雪の中に浮かび上がる、二つの歪な影だった。
一人は、返り血と凍てついた雪で塗り潰された重装騎士だ。
鎧の隙間から漏れ出す吐息が、白く、激しく乱れている。
彼は鉄の箱の「売切」を告げる赤ランプを背に、祈るように、あるいは呪うように拳を扉に叩きつけていた。
その腕の中には、力なく首を垂らした少年がいた。
少年の右肩から脇腹にかけて、肉が大きく削ぎ落とされている。
カメラの解像度が低くとも、その傷口が「致命的」であることは、流れ出した血が雪を黒く染めている範囲を見れば明白だった。
だが、男の目を引いたのは傷の深さではない。
モニター越しに映る少年の、狂気を孕んだ口角だ。
少年は、笑っていた。
血を吐きながら、焦点の定まらない瞳で、鉄の箱のボタンの灯りだけを熱烈に追いかけている。
その壊れた笑顔は、死の恐怖を恍惚で塗り潰している中毒者のそれだった。
「……あは、……ははっ。補充、……まだかなぁ……。金なら、あるんだよ……。温かいのが、飲みたいんだ……」
入り込んできたのは、吹雪の咆哮と、ひび割れた少年の声。
男は眉間を深く寄せた。
理解不能な人種の、理解不能な生命への冒涜。
「本日分の補充は終了した。その拳を扉から離せ」
男がマイクに向かって放った声は、一切の温度を排除した警告音となって吹雪の夜へ突き刺さった。
重装騎士の動きが止まる。彼はカメラのレンズが埋め込まれた一点を、正確に射抜くような視線で見据えた。
その瞳には、騎士道とは無縁の、獲物を追い詰めた野獣に近い執念が宿っていた。
「鉄の箱の主人よ。本日分がないのは、承知している。だが治療薬を売って頂けないか。そして、一夜の暖を頂けないか」
重装騎士は雪の中に膝をつき、少年を抱えたまま深々と頭を垂れた。
その姿勢は屈服ではなく、目的を達成するための最短距離を選んだ男の合理性に基づいていた。
「我々は全てを失った。素材も、金も、他の商人に差し出した。だが、我々の『命の負債』だけは、まだ手元に残っている」
男は冷めゆくポトフに目をやった。
表面からは既に、湯気が消えていた。
このまま放置すれば、数時間後、ドアの前には二つの凍死体が出来上がる。
それはやがて衛兵やギルドの役人をこの「ワンルーム」へ呼び寄せることになるだろう。
男にとって、それは何よりも耐え難い「清潔な孤独」への侵害を意味していた。
二人の命を救うコストと、二人の死体を処理するコスト。
男はその天秤を、瞬時に傾けた。
男は椅子を蹴るように立ち上がり、作業台の奥の棚へ向かった。
そこには、特別な職人の老人が打った、高耐圧の「空の瓶」が並んでいる。
男はその中から、内圧300気圧に耐える重厚な一本を選び取った。
瓶の底には、男が自分用にストックしていた高純度の治癒触媒がわずかに沈んでいる。
本来なら、自身の火傷や切り傷を癒すために、数ヶ月かけて精製した貴重な「予備」だ。
男はピンセットを手に取ると、瓶の口から極小の「圧縮弁」を滑り込ませた。
髪の毛よりも細い銀の糸を、真空の空間で編み上げていく精密作業。
瓶の中に閉じ込められた空間が、男の魔力によって数万分の一にまで「縮小」されていく。
少年の体内で止まりかけている「生」という物理現象を、強引に継続させるための「偽りの心臓」を構築する作業だ。
「条件は三つだ」
マイクを通した男の声に、一切の慈悲はない。
「一、話しかけるな」
「二、廊下までだ」
「三、これから言うことを正確に実行しろ。不服があるなら、その場で死ね」
モニター越しに、重装騎士が顔を上げた。
「……承知した」
男はレバーを操作し、完成したばかりの瓶と治療薬を排出した。
――ガタンッ。
――ガタンッ。
厚い氷の層を叩くような、硬質な金属音。
「それを拾え。30秒数えたら静かに入れ。治療薬を飲ませたら、瓶を開けろ。後は朝を待て」
男は返事も待たず、モニターのスイッチを切った。
遮断。
清潔な、何も聞こえない、何者にも侵されないワンルーム。
玄関に繋がる廊下と居住区は、独立した換気システムを備えた重厚な鋼鉄の扉で分断されている。
男は正確に秒を刻む壁時計の音だけを聴いた。
外界から持ち込まれる「汚濁」を、精神のフィルターで濾過するように。
――2、1、0。
玄関の重厚な鋼鉄の扉が、錆びついた呻きを上げて開く。
ワンルームの玄関、吹雪と生々しい血の臭気がなだれ込んできた。
玄関マットの上に、巨大な影が滑り込んできた。
重装騎士は男の警告を忠実に守り、自らの厚手のマントを廊下に敷き詰め、少年の血をその布の中に閉じ込めるようにして座り込んだ。
それは、主君を守るための盾ではなく、この家の主を怒らせないための「防汚の盾」だった。
重装騎士は少年に治療薬を飲み干させると、偽りの心臓の栓を抜く。
――シュウゥゥ……。
瓶の中に閉じ込められていた「高圧縮された治癒触媒」が、霧となって狭い廊下に充満した。
少年の抉れた腹部で、肉が、血管が、神経が、崩壊を止め、少しずつ、ゆっくりと結合を始める。
奇跡とは異なる、あまりにも事務的で、感情の無い「強制修復」。
断裂した組織が強引に引き寄せられ、縫い合わされるたび、少年の骨がミシミシと悲鳴を上げる。
「……あは、……あったかい……や。……ああ、これ、ポトフの……匂いだ……」
再生の激痛に悶えるはずの少年は、ただ、霧の中に混じった「炊き立てのパン」と「煮詰まった野菜」の微かな余熱に、うっとりと目を細めていた。
男が触媒を作った際に混入した、生活の残滓。
それが、死の淵にいた少年には、何よりも贅沢なご馳走として機能していた。
男は居住区の扉の鍵を閉めた。
錠が噛み合うカチリという音が、男にとっての安全保障だった。
再び食卓に戻る。
ポトフは既に、冷たい粘土のような質感に変わっていた。
男は無表情なまま、その「冷めた時間」を一口、胃の中に流し込んだ。
舌の上で冷え固まった脂の不快感。
それは、鼻腔に残る血の匂いと混ざり合い、男の気分を最底辺まで叩き落とした。
これが、外界というノイズを受け入れたことに対する代償だった。
廊下からは、治療中の少年の、微かな、しかし癪に障るほど元気な笑い声が聞こえてくる。
男は冷え切ったスープを、薬のように飲み込み続けた。
今日という一日が、一刻も早く過ぎ去るのを待ちながら。




