忘却の街と、記憶を売る店
どこでもない、どこかにある。
名もなき道を行き、名もなき海を越え、名もなき山を登る。
誰も知らない誰も語らない、でもそれは確かにそこにあるのだという。
私は目の前に広がる光景に心奪われていた。
乱雑に立ち、自由と言わんばかりに伸びる四角く長い建物が、理路整然と並んでいる。
誰かは青く丸い建物が並ぶと言っていた、誰かは黄色く三角の建物が並ぶと言っていた。
この世のどこにも存在したこともない人々がそう言っていた。
私はゆっくりと歩を進め、今までの長旅に思いを馳せたが、
何も思い出すことはできなかった。
ただただ、漠然と、曖昧で蒙昧な「大変な道のり」しか思い出すことができないのだ。
しかし、これだけはわかる。ここは忘却の街。
名前も顔も覚えていない、彼、彼女が教えてくれた。
「そこには記憶を売る店がある」
そこではどんな記憶も買い取ってもらえるのだと。
およそ道と呼べるようなものはなく、好き勝手に生える建物の間や複雑に絡み合う道程をただ歩いた。
記憶を売る店はこの先にある。
それは信じられないほどに確固たる確信からくるものであり、何の根拠もない無知蒙昧な妄想であった。
二日か、三日……いや、三時間程度であったか?
それとも半年だったのかもしれない。
ひどく足が重い日も、羽のように軽快な時も、私は歩き続けた。
不思議と天気は晴れ続け、いや雨が降っていたかもしれない。
雪が積もる日あったやも知れぬ。吹き飛ばされてしまいそうな嵐の日を耐えたのかもしれぬ。
真白の建物は続き、夜は訪れない。
いや、ここにきてから空を見たことがない。
いや、見たかもしれない。
でも、夜は来ていない。これだけは確信を持つことはできた。
どれほどの時を使って、どれほどの距離を歩いたのか、そもそも一瞬だったのか……
私は記憶を売る店を見つけた。
語るものもおらず、丁寧に看板が付いているわけでもなく、白い建物に穴を掘ったような出で立ちだったが
間違いなく「記憶を売る店」であるとわかっていた。
「ごめんください」
騒々しく静謐で、無音の世界に鳴り響く音。
それは自分の喉当たりから生じた音であった。
もう幾万年も人の声を、自分の声を聴いていない気がした。
店の奥に立つ人の形をした黒い物体が少しだけ揺らいだ。
いらっしゃいと伝えているようでもあり、帰れと言っているようでもある。
「頼む、私のつらい記憶を売りたい」
「ありがとうございます。それでは幸せな今生をお過ごしください」
ふと、私は目を覚ました。
白い部屋、アルコールの臭いが鼻孔を刺激する。
「あなた!あなた!」
私の体にしがみつき泣く“女性”がいる。
どうやら私に言っているようだが……
「誰ですか?」
END




