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六 足跡

 空気に突き刺されるような喉の痛みと、小さな左手を力いっぱい握りしめる右手が汗ばむ。胸や脇腹の引き攣れるような痛みに汗が吹き出る。後ろへ流れる、色の抜けた景色が滲む。アスファルトに着地するたび、全身を叩くような衝撃に揺れる鼓膜が痛い。友達と鬼ごっこをする時よりもはるかに速い足に戸惑いながら、万尋は後ろを振り返る余裕もなく、ただただ、妹の手を引き寄せて走るしかできなかった。


「おにいちゃん、どこにいくの……?」


「警察! 母さんを助けてもらうんだ……っ」


 不安そうな千聡の問いかけに、万尋は息を切らせて答えた。どこからか聞こえてくるパトカーのサイレンに近くを通ってくれないかと願うも、遠ざかっていくのがわかる度に心が折れそうだったが、耳に残った爆発音と母親の叫び声が足を突き動かしていた。


(だいじょぶ、大丈夫……っ)


 そう、呪いのように唱えながら、やけに遠く感じる駅への道をめくるように無我夢中でアスファルトを全力で蹴り上げた。


(あの角を曲がれば……)


 大通りに面するコンビニの看板の奥で、不自然な夕闇の迫る曇り空を映したビルの窓硝子に赤い光がちらちらと反射している。そして、耳をつんざくようなけたたましいサイレンを響かせ、救急車や消防車が目の前を横切っていった。

 やっとの思いでたどり着いた駅前の広場は、物々しい雰囲気に包まれていた。改札の周りはブルーシートで覆われ、赤い光を点滅させた緊急車両が道路を塞ぐように停車し、大人たちの迫力ある怒号が飛び交う。そして、広場を囲む黄色のテープの外側では警戒態勢の警察官が制止を呼びかけるも、緊急事態に好奇心を躍らせた人だかりがスマートフォンを掲げている。


「あ、あの……っ!!」


「ここは危ないよ!! 君、保護者は?」


「あの、母さんを助けてください!」


 乾いて張り付いた喉から絞り出した万尋の言葉に、警察官は屈んで目線を合わせた。額に汗を浮かべた万尋の乱れた呼吸を宥めるように肩に触れ、落ち着くように促した。


「君のお母さん駅の中にいるの?」


「ちがっ、家が爆発したんだよ!! それで母さんが逃げろって……っ、俺達誰かに追われてるんだよ!!」


 警察官は首を傾げた。焦燥感にかられる子供の必死な訴えは支離滅裂な風に聴こえるのだ。よく見れば、靴も履いていないような子供が大人を騙して遊んでいるようには思えないが、万尋の言葉が目の前の状況とどうにも結びつかない。そんな困惑した表情をする警察官にやきもきする万尋は何度も同じ説明をしたが、やはり核心的なところが伝わらない。


(くそ……っ、どうしたら……)


 頭を悩ませていると、背後の野次馬のざわめきに紛れ、小さなやり取りが耳に届いた。


「いたぞ、警察と話している。今なら……」


 男の声だった。


「千聡、逃げろ!!」


 誰かと会話しているようだが、受け答えの声は聞こえなかった。電話越しに誰かと話しているのだろうと直感した万尋は、千聡の手を力任せに引っ張り、警察官の制止の声も聞かずに走り出した。人込みを掻き分け、交通規制の張られた踏切を突っ切る。


(どうしよう、どうしよう……どこに逃げれば……)


 耳の後ろが火照り、全身が脈打ち、思考が異常なほど加速する。渋滞している車の間を走り抜け、歩き慣れた通学路の閑散とした住宅街を辿った。この先に交番はない。消防署もないし、コンビニもスーパーもないし、学童は学校の先でもっと遠い。


(いや、学校なら、先生たちが助けてくれるかもしれない……っ)


「わっ……!」


 その瞬間、後ろで鈍い音が聞こえた。汗で滑り、千聡の手がすり抜けたのだ。振り返ると千聡が小さな背中を丸めて蹲っていた。駆け寄り、起こしてやると膝から鮮やかな血が滲んでいる。大きな傷ではないが、千聡の瞳には大粒の涙がたまり、眉間に皺を寄せて唇を引き結んでいた。


「……千聡、乗れ」

 

「……だいじょぶ、はしれるよ」


「いいから!!」


 しゃがんで背中越しに手を差し伸べる万尋に、今にも零れそうな涙を拭って千聡は遠慮がちに言った。しかし、万尋の焦りは募る。その気迫に押し負けた千聡は、万尋の服に血がつかないように


(だめだ。千聡をおんぶしてじゃ、そんなに走れない……)


 すでに、ただ走るだけでも体力的に厳しさを覚えていた。そこへ、千聡を背負って学校まで走りきるのは到底無理だろう。


(公園の、すべり台の裏なら……っ)


 学校へ行く途中にある大きな中央公園。そこに設置されている石造りのすべり台の裏に、秘密基地と呼ぶには狭すぎる穴があり、子供が通るのもやっとな隙間から植木の中の小さな空間へ入れるのだ。そこなら身を隠せる上、植木自体に空いた穴から外に出られる。退路としても十分だ。


 見慣れた公園の時計台の裏を通り抜け、真っ白な石で彫られた象のすべり台と植木の隙間に体を滑り込ませる。足元の塀とすべり台に擦れ、腕と膝の横に擦り傷ができたが、万尋は気にする素振りもなく千聡を植木の中へと押しやった。

 靴下越しの冷たく湿った土の柔らかな感触が、固いアスファルトを蹴り飛ばしていた足の裏に沁みる。万尋は首筋を伝う汗をぬぐい、膝を抱えて呼吸を整える千聡を抱き寄せた。


「おかあさん、だいじょうぶかな……」


「……うん」


「つかれたね……」


「……うん」


 首元に顔を埋める千聡の囁きに万尋は息を呑んだ。


「ち、でちゃってる……」


「大丈夫、痛くないよ……」


「ほんと?」


「うん……。千聡は、痛いだろ……」


「ちさともいたくないよ。だいじょぶだいじょぶ」


「……強いな」


 くぐもった声で返事をする万尋の背中を擦る、小さな手。母親を真似た妹の温もりに緊張の糸が緩んだ万尋は、鼻の奥にじわりと広がる塩辛さと土の臭いを奥歯で噛み殺し、丁寧に結ばれた千聡の髪を崩さぬよう、優しく撫でた。


 その瞬間、砂利を踏みしめる乾いた音が体を支配した。音を立てないよう、息を潜めて入口とすべり台の隙間からそっと公園の門を覗く。子供のそれとはたしかに違う、質量の大きい足音が確実に距離を詰めて来ている。千聡を抱きしめる腕に力が入り、穴の奥へ少しずつ後退した。


(大人は入れない、大丈夫……大丈夫なはず……)


 そして、足音は滑り台の目の前で止まった。呼吸をしているフリを繰り返し、瞬きも忘れ、すべり台の奥にいるであろう男を見つめる。体は燃えるように熱いのに、指先は感覚がないほど冷えて、全身を鼓動が痛いほど叩く。


”逃げなさい”


 頭の中に響いた声。それは紛れもなく、母親の甲高い叫びだった。万尋は植木の穴から公園の外へと出るように千聡に促し、自身もそっと穴から這い出た。膝と掌についた砂を払い落とす千聡の手を掬い取り、学校への道のりを走り出す。


(……バレてる、よね)


 子供の行動が大人に読めないはずがない。千聡があの穴をくぐった時も、木々に引っかかって植木は揺れていた。だが、人が追ってくる気配はしない。相手の行動が読めない、漠然とした不安が背筋をなぞり、妙な胸騒ぎに腹の底を重く沈んでいく。――その時、地響きのような轟音が響いた。空気が地面を揺らしたその衝撃に思わず振り返れば、砂埃が舞い上がり、折れた枝が飛び散り、鉛色の空では烏の群れが円を描きながら騒ぎ立てている。


(あのまま、あそこにいたら……)


 ひらひらと落ちる、はぐれた葉が万尋の想像を掻き立てた。自分たちを捕まえたいのか殺したいのかはわからないが、捕まれば殺されるかもしれない。いや、そもそも相手は自分たちを殺したいのかもしれない。肌が粟立つ。


(爆弾を持ってるなら銃を持ってるかもしれないし、ナイフや包丁も持っているかもしれない……痛いの、やだな……)


 そんな最悪な状況が思考を支配した時、向かいから、ぬいぐるみのようなストラップをたくさん着けたスクールバッグを肩にかけた女子高校生が、手元のスマホに弄りながら歩いてきた。


「あ、あの、助けてください……っ!! 変な人に追いかけられてて……っ」


 女子高生は返事もせず、万尋をじっと見つめる。なにを考えているのか分からない、色の無い表情で。

女子高生は徐にストラップを撫でると、その中からひとつ選んで引っ張りあげた。ストラップの頭の先には黒く細い糸が繋がっている。

 頼る相手を間違ったかもしれないと、どこか不気味な女子高生を見つめ返す。万尋が千聡を庇いながら後退りすると、女子高生もそれに合わせてじりじりと少しずつ詰め寄った。


(なんだ、この人……こわい……)


 万尋が心のどこかで抱いた恐怖を認めた瞬間、女子高生は大きく腕を振ってストラップを投げつけた。


「うぐ……っ!!」


「おにいちゃん……っ」


 万尋の拳よりも大きいストラップは、万尋の左の肋に直撃した。重く、瞬きをするよりも速い。その勢いに住宅の塀へ打ち付けられた万尋は膝から崩れ落ちた。


(なんだ、なにがおこった……? いたい……、痛い……っ)


 視界が滲む。殴られた脇腹を両手で押さえるが、呼吸が止まり、じわじわと広がる鈍痛に脂汗が吹き出る。


「おにいちゃん、だいじょうぶ……? おにいちゃん……っ」


 肩を揺らす千聡に万尋はろくに返事もできず、痛みの波に耐えるたびに呻き声が漏れる。


(逃げなきゃなのに……言わなきゃなのに……っ)


「あらあら、大丈夫……?」


 体を捩り、不安そうに顔を覗き込む千聡に、万尋が震える唇を開いた途端、二人の背後に佇む小太りな中年の女性が言葉を投げかけた。その少し後ろからは、スーツを着た男性が心配そうに駆け寄ってくる。


「たすけてください!! おにいちゃんがへんなひとに……っ」


 千聡は万尋を守るようにしがみつき、先程の女子高生を指さした。当の女子高生はストラップを振り回し、退屈そうに千聡に注視している。


「そう、それは大変ねぇ……」


 カバンの中から水筒のようなものを取り出した女性が、そう呟きながら蓋の部分を捻るとカチリと音が鳴った。


「ひ……っう、ぅ……っ」


「ちさ、と……」


 音が頭の中で左右に揺れ、世界が傾く。鼓膜が外側に引っ張らられているような、耳から耳を串刺しされたみたいに頭が痛い。

 血の気が引いた。胃が何度か痙攣し、せり上がってきた麦茶の臭いが鼻を抜けると同時に、口内に粘り気のある胃液がなだれ込んだ。


「う゛……、お゛ぇ……っ」


 凌ぐ間もなく鳩尾が収縮した。びちゃびちゃと音を立ててアスファルトを濡らした吐瀉物の、酷い臭いに涙が溢れる。


(体がおかしい……)


 頭を両手で抱え、力なく凭れかかる千聡を引き寄せる。息も絶え絶えな千聡の口元からは唾液がこぼれ、体を揺らしても薄らとした反応をするだけだった。


「本当に効くのね、これ。なんにも聞こえないのに不思議。やっぱり最近の子は貧弱だからかしら?」


 声高らかに、突拍子もない話をしながら機械を手の中で転がす女性を、女子高生は冷めた目で睨みつけた。


「それ、切って」


「は? なんでよ。捕縛するまで浴びせておけばいいじゃない」


 その瞬間、塀の向こう側から弾けるような甲高い破裂音が鳴り、女性は小さく悲鳴を漏らし、驚いた拍子に機械を落とした。機械から発せらていた音の照準が住宅へ向けられ、窓硝子が割れたのだ。


「おばさんがそんなに偉いなら、驕ってないで任務に集中するべき」


 女子高生が機械を拾い上げて諭すように言うと、女性は顔を顰めて鼻を鳴らした。そんな二人を余所に、男はビジネスバッグの中から折り畳み傘を取り出した。


「アンタも、さっさと捕縛して。もたつくのが趣味なら私がやるけど」


 女子高生の鋭い眼光に、今度は男が顔を強張らせる。男は焦ったように傘の骨を伸ばし、先を万尋と千聡へ向けた。


「や、めろ……」


 留め具をそっと外し、布地がはらはらとほどける。息を呑み、男が傘の柄のトリガーへと指を掛けた瞬間、バサバサという音と共に黒いものが眼前に降ってきた。


「うわ……っ!! なんだ?!」


 女子高生が空を見上げると、空を覆うほどの烏の大群が自分たちを目掛けて猛然と急降下した。


「なに、なにが起こってるの……ぎゃっ!?」


 容赦なく体当たりし、硬い嘴で頭や体をついばみ、鋭い爪で腕に掴みかかり、ひっかく烏の総攻撃に女性は悲鳴を上げて縮こまり、男は追い払おうと傘を振り回す。


「傘を振り回すな!! くそ……っ」


 女子高生は複数のストラップを投げつけ、襲い掛かる烏を一羽一羽打ち落としながら男を突き飛ばし、奪い取った傘を黒い羽が舞う中、万尋達へ向けて迷いなくトリガーを引いた。発射された傘の骨組みがアンカーのようにアスファルトや塀に突き刺さる。ほどけた繊維が骨組みをするすると下り、咄嗟に千聡を庇った万尋の肌や服に張り付いた。


「あっつ……っ、熱い!! あつい!!」


 繊維から尋常じゃない熱が発し、肌を焼く。固く握りしめた拳が震え、のたうち回りたい衝動を必死でこらえた。シャツが縮れ、髪が焦げる。そして、柔らかさのあった繊維は、やがて発熱が収まり、硬化して万尋の身動きを封じた。


「……確保、完了」



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