四 放課後
茹るような暑さ。じりじりと焼くような、もはや耳鳴りのそれと変わらない、絶え間ない蝉噪。身を投げ出すように池へ沈むと、足の先から耳の後ろまで、水温が熱を奪い取っていく。生い茂る木々の隙間から差し込む陽光が、燦爛とした光の帯を作り、何匹もの鯉が空を泳いでいる。朱や黄金の鱗が時折、煌めく。呼吸を忘れ、白昼夢のようなゆったりと流れる時間に目を閉じた。
瞼の裏に思い出すのは昨日のこと。蛙声の響く月下で表現に迷う報告書を書きながら、既に何度も否定した兄の存在。この組織に入っているうちは、世間一般的な環境の変化がほとんどない。他人が生活に押し入るストレスに慣れていない彼女は、軽率に授業をサボるほど憂鬱な気分に見舞われていた。脳内で鮮明に再現される、あの廊下での会話。まるで、自信のない自分を客観視しているような違和感が喉を締める。瞬間、脈が鼓膜を強く打った。
大袈裟な水音を立て、水飛沫が高く上がる。脳が酸素を求め、呼吸が乱れる。それほど長い間潜ってはいないはずだが、今までにない焦燥感に肺が収縮と膨張を繰り返す。掬い上げた小さな水面が震え、指の隙間から零れる水滴が神経を逆撫でていく。
「……っはぁ、は……っ」
(なんだ、なにがそれほど恐ろしい……?)
穏やかな昼下がり、得体の知れない感覚がこみ上げてくる。水がやけに冷たい。馬鹿みたいな孤独に圧し潰されそうな、そんな感覚に握りしめた拳で水面を叩きつけたが、震えは収まるどころか、体全体に広がっているようにも思えた。
『あら、ずぶ濡れね……』
人の気配のない静かな屋敷から聞こえた女の声が、瞬く間にトウカを現実に引き戻した。見れば、縁側の硝子障子一面の真実がトウカを見つめていた。癪に障るすまし顔でいつから観察していたのか、トウカは渋い顔で顔から背中にかけて張り付いた髪を払いのける。
『任務よ、トウカ。早く準備なさい』
通常、任務通知は通信部を通して行われる。にもかかわらず、代表理事長様直々の申し付けなど。返事も待たずして、一方的な画面通話をぷつりと切られたトウカは、足元を泳ぐ鯉を懐疑の目で追うしかできなかった。頭上を厚い雲が覆い始める夏の天気が、彼女を池の底へ引きずり込んだ。
放課後、トウカにとってこの時間はなによりも苦痛だ。生活連絡通路は任務の待ち合わせや装備品の補充、隊服のクリーニングと武器の調整受付、宅配の受け取りの他、スーパーやコンビニ、薬局にカフェなどが二十四時間営業しており、所属隊員の福利厚生施設として会計はすべて組織が負担している。そのため、教育部の放課後は任務がない隊員でも、ほとんどがここで交流するので賑やかなのだ。そんな人込みでも、トウカの赤髪は否応なしによく目立つ。特に規則などはないが、派手な髪色の隊員は多くないため、すれ違う雑踏の視線が注がれる煩わしさにはとうに辟易していた。
「トウカちゃーん!」
任務の集合場所となる解放された門の前。ブロンドのツインテールを大きく揺らし、満面の笑みで手を振る少女と、黒いショートボブの少女が壁に背中を預け、トウカに手招きしている。自分を呼び止める見知った二人の元へ向かおうとしたトウカの前を何者かが横切り、その直後、背中に衝撃が加わった。それは明らかに故意的な人の手のような感触。咄嗟に振り向くがそこには誰も居らず、行き交う隊員の波が過ぎるだけで犯人らしき姿はない。陰湿で中途半端な嫌がらせばかりで、根性もへったくれもないな。気に入らないのならリンチなり、正面からくるなりすればいい。と、トウカが涼し気な表情一つ崩さず乱れた髪を掻き上げ振り返ると、露骨に不機嫌そうな顔をした二人が、犯人が行ったであろう方向を睨んでいた。自分以上に憤っている二人にトウカは、「気にするな」と囁く。
「トウカちゃん、どうしてやり返さないの……?」
「やり返してもいいが、生憎、私は犯人の顔を見てない」
トウカは一度たりともやり返したことがない。つまらない人間は私がなにをしても変わりゃしない、と一向に関心を示さないのだ。当の本人がこんな調子なので、二人は納得できないながらも、それを受け入れるしかなかった。
「お前、授業サボったね?」
「まぁな……」
「職員室に行ったら欠席者にお前の名前があったんだ」と、中音域の繊細な声でくつくつと喉を鳴らし、柔和な笑み浮かべるのは、トウカより少し年上な印象を与える大人びた少女。襟足が長めの丸みを帯びたショートボブに、切れ長な目と薄い唇。トウカと同じセーラーカラーに、細く華奢な体を覆い隠すようなジャンパースカート。黒のストッキングにクラシカルなストラップシューズを履き、トウカと変わらない身長だ。
そして、神秘的な翡翠の丸い瞳でトウカの顔を覗き込むのは、高い位置でツインテールにしたブロンドが特徴的な活発な少女。三人の中で一番可愛らしい顔立ちだが、身長は一番高い。隊員の中でも特殊で珍しいカスタムの隊服は、スパッツと赤いパニエが覗く膝上丈のスカートが彼女のはつらつとした幼さを際立たせている。
「ここへ来たってことは、この後任務?」
「まぁな……」
「そういえば聞いたよ、トウカちゃんお兄さんいたんだね?」
天真爛漫な彼女の質問に、トウカは凍り付いた顔を背けた。
「……いない、黙れ」
「でも、トウカちゃんそっくりの赤髪の男子が穂波ちゃんのクラスに編入してきたって……」
腕を組み、固く口を噤むトウカを不思議そうに見つめる少女。その後ろでは、穂波と呼ばれた少女がなにかを察したように苦笑いしている。
「あ、噂をすれば!」
影が差す、とはよく言ったものだ。トウカが恐る恐る振り向けば、散々、頭を悩ませられた顔が不安げに見つめていた。
「任務って聞いたんだけど……集合場所、ここであってる?」
「もしかして、トウカと?」
予感は的中。最悪な展開だ、とトウカは視線を逸らすように右手で顔を隠した。目の前の二人は興味津々。それどころか、男物の隊服を着た見慣れない赤髪の男子に興味のある野次馬が、少し離れたところに群れを成している。
(あの女、なに考えてるんだ……本当に、碌なことしないな)
澄ました笑顔が脳裏をよぎる。内心、今すぐにでも逃げ出したいトウカのぎこちない様子を見かねた二人は、トウカの手を引き、間に割って入った。
「初めまして、蕪島穂波です」
トウカはそのままこの場から去ろうと、そっと後退りする。
「わたしはルカ!」
だが、穂波はトウカの手を掴んだまま、離さなかった。無邪気なルカの挨拶の裏で繰り広げられる無言の攻防。細身の体に似合わぬ握力を持つ穂波の絶対的な意思を、トウカは甘んじて受け入れることにした。
「俺はトウヤ、よろしく」
「こちらこそよろしく。いくつ?」
「十八」
「じゃあ同い年だね。ルカは一つ上だけど」
「私のほうがお姉さん!」
気まずいと言えば、気まずい。というよりも、居心地が悪い。会話に混ぜられないよう、二人の一歩後ろで、静かに三人の会話をトウカは神妙な顔で傍観する。
「まだ襟に刺繍がないね。トウヤくんはどの位だろう?」
「位?」
「そう、任務の難易度の目安となる階位。女子はスカーフで、男子や大人はえりの刺繍の色を見れば階位がわかるようになってるんだ。私達は辰ノ位」
トウカは違和感を持った。スカーフを摘まんで見せる穂波の発言に。
「昇進したのか?」
「ついこの間の試験でね、さっき受け取ってきたんだ」
「やっと気づいてくれた」と、嬉しそうに笑う穂波の胸元には藍色のスカーフが結ばれていた。数日前まで着けていた爽やかで初々しさの残る若草色とは一転し、深みのある藍色は理知的な彼女によく合っている。
「ルカは?」
「落ちた~! 穂波ちゃんに追いつかれちゃったよ……」
「死ぬよりましだろ」
壁にもたれたルカの髪と一緒に、穂波と同じ色のスカーフが揺れる。項垂れて落ち込むルカに、トウカは迷いなく言い放った。
「なぁ、教えてほしいんだけど、昇進制度があるのか?」
「うん!」
「資格試験みたいなものだけどね。階位について、もう少し詳しく説明すると……」
穂波は懐から生徒手帳と端末を取り出した。昨日、東がトウカに放り投げた二枚の木の板と同じものだ。ある頁を開き、端末をかざすと文字が浮かび上がる。穂波は手帳をトウヤに見せながら説明し始めた。
「十二支と同じ十二段階に分けられていて、下から子、丑、寅、卯、辰、巳、午、未、申、酉、戌、亥と上がる。シンの音が二つあるけど、申ノ位を冠する隊員はまだいないから、大抵は辰ノ位を指すんだ。覚えておいてね」
トウヤは差し出された手帳の、各階位の色が示された項目を読み込む。子は鼠、丑は本紫、寅は山吹、卯は若草、辰は藍、巳は花緑青、午は茜、未は白、申は檜皮、酉は橙、戌は黒、亥は鉄紺と指定されているようだ。
「俺は巳ノ位、かな」
「じゃあ単独任務に出られるね。私達より上位だし、強いんだ?」
手帳を穂波に返しながら相槌を打つも、トウヤはいまいち想像できてないようだ。
「ちなみに、トウカちゃんは七番目の午ノ位だから、私達よりも偉いんだよ!」
「おい、余計な事教えるな」
窘めるように鋭く言うトウカに、ルカは物怖じせず反論した。
「余計なんかじゃないよ……たとえば、この三人で任務に出たら一番位が高いトウカちゃんが現場監督だから、私達は絶対に指示に従わなきゃいけないの」
「階位によって、任務の難易度と制約が変わるんだ。一人で任務に出られるようになたり、外出に許可が必要なくなったり。もちろん、現場監督みたいに任務で求められることも増えるから手当も増えるよ」
「給料がもらえるのか」
トウヤの新鮮な反応に、穂波とルカは上機嫌に微笑んだ。
「実は私達も、トウカほどではないけどこの年にしては高給取りだよ。昇進する毎に額面が増えるから、みんな結構意欲的なんだ。まぁ……その分、危険な任務に就くわけだから、試験は難しいわけなんだけどね」
位が一つ上がれば、任務の難易度も格段に跳ね上がる。基準に満たない者の昇進による損害を最小限に抑えるため、その位が実際に担う任務よりも高難易度に設定されている昇進試験で篩にかけられる。不合格となってもペナルティなどはないが、現場監督や下位者の保護などが要求される午ノ位からは合格者が激減し、厳しい審査を通過した者のみが上位者となるのだ。
「私達よりトウカちゃんの方がお給金高いんだよ~」
「だから、余計なことは言わなくていいんだよ!」
「え、へへ……」
勝手に情報開示されていくトウカは、刀をちらつかせて凄んだ。あどけない愛想笑いで宥めようとするルカに悪気はないことはわかっているが、虫の居所が悪い彼女には好ましくない冗談だ。
「トウヤくんは初任務? トウカと?」
緊張の面持ちで穂波の言葉にトウヤが頷くと、トウカは弾かれたように踵を返した。すかさず、穂波がトウカの手を掴み、引き戻そうとする。
「そう邪険にしないの。人見知りも行き過ぎると印象が悪いよ」
「人見知りしているわけじゃない、私はこいつが嫌なんだ」
容赦のない返事は、端から見ればいつもの彼女の人見知りかもしれない。だが、きまり悪く視線を彷徨わせるトウヤに、昼間の胸騒ぎが瞼を掠めたトウカは、反射的に手を振り払った。嫌悪に満ちた疑念の瞳でトウヤを一瞥し、トウカは足早に去って行ってしまった。
「俺、なにかしたのかな……昨日会ってから、ずっとあの調子なんだ」
「あまり気にしないで。初対面の人にはいつもああだから」
「ここまでひどいこともあんまりないと思うけど……」
残されたトウヤに、穂波が申し訳なさげに言う。人見知りと言えど、トウカのあまりにも露骨な態度で人を遠ざけるような彼女ではないはず。そんな戸惑いと心配の滲む声で、ルカは小さく呟いた。
「そういえば、初任務なんだよね。端末と無線機は支給された?」
トウヤは少し傷のついた端末と白いイヤホンをベルトから取り出し、「ここにIDをいれて起動するんだよ」と指差しで教える穂波の言葉通りにすると、起動した端末は正常にトウヤのIDを認識した。
「任務中の通信部や他の隊員との連携はこれを通して行うの。端末と接続出来た無線は常に耳につけておいてね」
コネクト音が鳴ったイヤホンを耳に装着すると生体情報が認識され、空白のままだったアイコンに脈拍と体温が表示された。
「その無線はスピーカーだけじゃなくマイク機能もついていて、会話内容はすべて録音され、記録として通信部のサーバーに残るから注意してね」
「注意?」
トウヤの問いに、ルカがあどけなさの残る強めな語気で答える。
「規則違反すると即降格になるの! たとえば、上位者の指示を無視したり、反抗的な態度をとったり」
「なるほど、年功序列よりも実力主義だし当然か……じゃあ、年上の格下もいるものなのか? トウカみたいに若い上位者もいるんだろ?」
「ほどほどにね。損害を減らすための位だから仕方ないんだけど、それよりも若いトウカがそれなりの地位にいるからだろうね。中には親の七光りだとか言う人もいるけど、親の七光りだけじゃ現場監督は務まらないし、そもそも午ノ位昇格試験はそう簡単に合格できない上に不正のしようもないのだから、そんなわけないのにね……」
トウヤは、昼間の冠位測定を思い出した。赤外線センサーによる入退室ログの自動記録、設置位置が確認できない死角のない監視カメラ、受験者以外の立ち入りを禁じる無機質でだだっ広い試験場。基本的な読み書きの筆記試験に加え、祟リや人の動きを模した機械を用いて段階的に設定された実戦形式は、人工知能による行動、心理分析が行われる。あらゆる不正を排除するための厳重な管理は、過度とも思えるほどだった。
「たしかに、よっぽど熱心にならない限り、不正はできないな」
「でしょ? でも、トウカはただでさえ迫害の対象だから……」
「……そうだな」
彼女の警戒心は迫害からきているのか、それとも、自分に向けられる不信感にはなにか別の理由があるのか。トウカの境遇を慮る穂波の言葉に、トウヤは共感と不安の入り混じる指先で彼女と同じ赤髪を撫でた。