二 東と西の果て
一部、造語が含まれます。
螺鈿の菖蒲が煌めく鞘から抜かれた、深緋色の刀身が輝く。それは生き生きと、妖しげに。少女は切先で豊かな弧を描き、右腕と打刀が一直線となるように静かに構え降ろす。そして、ふわりと空へ飛び込んだ。揺蕩うスカートと長い髪。二人の頭上を嫋やかに体を捻り、浜辺へとつながる数十段ある階段を真っ逆さまに落ちていく。視線は真っすぐ階段の下を捉えたまま、軽やかな一転から吸い付くように着地した。
地面を力強く蹴り飛ばした少女は、砂埃を巻き上げて地を這うように迫りくる海掌を躱し、流れるように回り込む。青い血管が透ける薄い皮膚に食い込むハイヒールで、鼻腔を突く腐敗した花の臭いを駆け抜けた。空間が張り裂けるような金切り声が響く。少女の頭上を覆う大きな影。獲物を捕食するように襲い掛かる海掌が彼女の間合いに入った途端、鮮やかな一閃が肉と骨を断ち斬った。空に放り出される長く細い指の先。断面から覗く赤黒い血液と肉からは生々しい蒸気が立ち上っている。間髪入れず、少女の頭上に降り注ぐ肉片を蹴り返し、親指のみが残ったそれらを薙ぎ払った。
「やだやだ、成長期ってこわいね~。そろそろ昇進の時期かな」
いつの間にか浜辺まで下りてきていた緒方は、グリップに桜と蓮が彫られた二丁のピストルを得意げに弄びながらその光景を眺めていた。袖の襠を広げ、どっしりと構えたピストルのトリガーを引く。弾かれるような反動。真っ赤な光の美しい軌道を描き、少女の動向をぎこちなく探るようにしている海掌の小指、関節一つ一つを撃ち抜いた。爆ぜて飛び散る血飛沫に、焦げ付くような匂いと無数の空薬莢が舞い上がる。
「さて、再生するほどの根性があるかい?」
焼け落ちた小指の残骸が血溜まりに落ち、不快な音を立てて芋虫のように蠢いている。長い間見ている気にはなれないそれを、緒方は容赦なく踏みつけた。潰れた蛙のようにへばりつく。ねちゃり、と粘度のある肉が糸を引く靴底に、緒方は苦虫を潰したように酷く顔を歪めた。しかしどうだ、崩れた肉に混じり、骨が細かく砕けている。大人の一蹴りで容易にその機能を停止する程度ではないか。
「カガトモ~、再生しないっぽいから援護よろしく~!」
「まったく……怒られても俺は知らないからな……」
鳥居を囲むように植わっている高い松の木の上から、烏のように身を低くして全体の様子を窺っている加賀は、意外にも大きく骨ばった両手で小さなお手玉を十数個を握っている。その内のいくつかを余裕たっぷりに転がしながら、無邪気に大きく手を振って合図する緒方に深い溜息を一つ吐いた。
四つの涛腕が爪を突き出し、少女に掴みかかるが、少女は一つも取りこぼさず刀で弾き返す。空中で連続する金属音。明確な殺意を用いて命を狙う鋭い爪をいなし、斬りつけ、淡々とその勢いを削いでいく。しかし、猛攻は止むことを知らず、涛腕は少女を叩き落とすべく、絶命するように振り下ろされた。その瞬間――、響き渡る筒音と地鳴りにも似た衝撃が辺りを揺らした。濛々《もうもう》と上がる砂塵と黒煙。湿った空気と共に走る緊張感に混じり、燦然と輝く緋色の光が散っていく。緒方の指示通り、加賀が投げつけたお手玉を緒方が正確に撃ち抜き、お手玉の中に詰められた火薬を誘爆したのだ。激しい爆風に晒された少女が停滞する煙を切り裂くと、目の前には悲痛な絶叫と共に爛れ落ちていく皮膚。
「余計なことしないでください……っ!」
「ごめんね、おじさん今日は早く帰りたいんだよね~……」
(白々しい……っ)
少女は海掌を制圧しながら中央の座がある海上ま移動し、その中心の様子を見てその後の行動を決める算段だったのだが、先程の攻撃により手近な海掌は浜へ叩きつけられ機能しなくなってしまった。おかげで丸つぶれである。文句をつけようと緒方を振り返れば、へらへらと悪びれないところを見るに、彼は少女に少々無茶を求めるつもりらしい。その思惑を読み取った少女は呆れたように顔を顰めて波打ち際へ降り立った。
左の手甲からアンカーを抜き取り、中央の座に一番近い海腕に狙いを定め、手首の内側から引き金を引く。勢いよく伸びていくワイヤー。狙い通り、アンカーは掌の中心に打ち付けられた。飛散する血糊が水面を汚していく。骨に引っかかったアンカーの強度は心許ないが、仕方がない。
深く抉れた砂地を残して少女は跳び上がり、左腕を力強く引いた。かちり、と無機質な音で急回転し始めるモーターリールは、唸りを上げてワイヤーを巻き取り始める。少女は加速する勢いで飛沫を上げて海面を滑り、差し伸べるように開かれた掌に凄まじい速度で着地した。ぐらりと大きく揺れ、大波を立てる海掌から素早くアンカーを引き抜き、中央の座へ飛び込みんだ少女は、体勢を立て直しながら違和感を覚えた。
(……なんだ、年老いている?)
遠くからではわからなかった。足元を見ると、先程まで交戦していた海掌などとは似ても似つかない、深いシワが刻まれているのだ。強く結ばれた両の細い指先。もしも迎撃されようものなら斬り刻んでやろうと構えていた、少女の刀を握る力が自然と緩んでいく。波の集まる中心で、穏やかな水音に包まれる。跪き、左手でひと撫ですると柔らかく、乾いた温度が伝う。
「……私たちはこの場を治めたいのだ」
物言わぬ語る者に、少女はそっと囁いた。鉛色の海が沈黙を貫くように凪いでいく。海面に空の低い雲がぼんやりと映され、どこまでも境界が広がっているようだった。その時――、静寂を切り裂くけたたましい轟音を上げる、鉄の鳥が頭上に現れた。少女の鋭い視線が、一瞬にして上空へ吸い寄せられる。無機質な腹を晒し、空気と水面を激しく揺らすそれに、少女は刀を強く握りなおした。
「ちょっとなになに……あれ北米の輸送機じゃないの」
『変ですね、予定の空路から大きく外れています。』
浜辺でピストルをくるくると弄びながら、少女の動向を観察していた緒方の指がぴたりと止まる。軽薄な笑みは消え失せ、輸送機を見上げる瞳には緊張が走っていた。
機体が鈍重な動きで少女に背を向けるように旋回する。重々しい金属の軋む音を立てながら、ゆっくりと後部のハッチが開かれた。その中央には十個の銃身が仰々しく束ねられた、大型の銃が少女を狙うように捉えている。
「何をする気だ……」
「戻れトウカ……っ!!」
その瞬間、突然、掌がぐわりと獣の口のように大きく開いた。その間から青白い小さな手が少女の腕をするりと絡め取り、悲鳴を上げる間もなく掌に喰われるように引きずり込まれ、少女と海掌の姿は泡沫を残して波の下へ消えた。加賀と緒方の声が届く間もない、その直後。
――鮮烈な緋色の一斉掃射が空を焦がす豪雨のように降り注いだ。
制圧などと安い言葉では到底追いつかない。美しい柳のような弾幕が容赦なく海面を蹂躙し、白波ばかりが絶え間なく、生まれては砕ける。苛烈なまでの衝撃に、緒方と加賀の双眸は釘付けになり、口は僅かに開いているが張り付いたのどでは声が出ない。腹の底を圧するような銃撃音。平衡感覚が失われ、肌が粟立ち、痛むような気さえする。
「やめろ……」
「今すぐ銃撃をやめさせろ!! トウカが射線の先にいるんだ……っ」
『輸送機との無線が、途絶えていて、コンタクトがとれません……』
絞り出したような加賀の声に、はっとした緒方が、やっと状況を呑みこめたのは少し後だった。時間を取り戻したい一心で、右耳に装着した無線機に怒号を飛ばした。だが、既に何度も努めたであろう、オペレーターの言葉に頭が真っ白になった。眼前で行われる圧倒的な暴力。自分ではどうすることもできない無力感を抱え、緒方と加賀は立ちすくむことしかできない。本能が訴えかける恐怖の心音が鼓膜を揺らす。茫然自失。これほどまでにこの状況を表す言葉はないだろう。
(まて、まってくれ……お願いだ……っ)
青ざめた顔に脂汗が滲む。薄く開かれたままの唇から浅い息だけが漏れる。指先が震えるのは、自らのエゴで差し向けてしまった少女の安否についての罪悪感からなのか、その暴力が己に向けられてしまうかもしれない、保身からの畏怖なのか、緒方は判然としなかった。脳内を過る後悔と、失望の反復。音になれない懇願だけが反芻する。
「トウ、カ……」
隣で腰を抜かし、砂に頽れる加賀は譫言のように呟く。夢や、どこか遠い世界で起きているような現実味のない有様に、ただ時間を失ったように呆然と、頼りない地面を力任せに握りしめる。砂粒が刺さるような痛みがあれど、下腕には一向に力が込められるばかりで開こうにも開けない。眩暈すら覚える混乱と焦燥が同時に押し寄せ、じっとりと濡れた額と首に髪が張り付き、耳鳴りが鳴っている。
耳鳴りが鳴っている。今の今まで全身を震わせていた空気の振動が、嘘のように鳴りやんでいる。彼らに寄り添うように漣が立ち、燃えるような夕焼けの力強い光が、鉛色だった海を照らす。その光景はまさに、鳥居の真下で見た景色と同じだ。強張っていた体が、僅かに弛緩する。
「止まっ、た……のか?」
空を支配するようなエンジン音がその余韻を残す輸送機が、後部のハッチをゆっくりと閉鎖する。そして二人の頭上でホバリングし始め、徐々に高度を下げた機体の側面のキャビンドアが開かれ、二つの人影が垂れ下げられた縄梯子を降りてきた。
「え……カゴメ……ちゃん?」
その人影の内、一人はよく見知った人物、海へと沈んだ少女と同じ顔をしていた。