一 蜃気楼の向こう側
鼻を掠める潮の香りとざわめく木々に混じり、遠くでは蜩が鳴いている。浮かぶ夕陽と煌めく水平線が美しい海を臨めるこの神社に民間人の気配はなく、異様な空気が漂う境内に少女がただ一人、静かに佇んでいるのみ。他では見ない、着物のように重ねられた衿が特徴的なデザインに、黒で統一されたセーラー服を身に纏い、黄昏時の空に長い髪を暈す少女が眉を顰めた視線の先、古びた鳥居に切り取られた風景の奥では薄い布のような蜃気楼が不穏に揺らめいている。
「籠目トウカ、現着」
腰に佩いた刀を左手で支え、光沢のある長めのスカートを翻す。長足袋に履いた高下駄をからん、ころん、と鳴らして鳥居の真下で足を止めた。階段を数段下りたところ、同じ黒い装束の見知った後姿が二つ。どうやら、今回は彼らとの任務らしい。
『お疲れ様です。今更ですが、インターフェースなどに異常はありませんか?』
右耳に装着した無線機から若い女性の軽快な声が聞こえると、少女はその言葉で思い出した。
(そういえば、今日はあのせいでまだ確認していなかったな)
幅の狭い帯のようなベルトからカラビナを後ろ手で外し、綿の入った厚手の巾着から赤い房飾りがついた、文庫本程の大きさの白い携帯端末を抜き取った。
傷だらけの端末を手帳のように開くと、左モニターの隅には十分な充電残量と時刻を表す数字が並び、その下には現在の気温、湿度、気圧と使用者本人の生体情報、正常な体温と脈拍が表示されている。
右のタッチディスプレイには、「白坂結衣」の見慣れた文字と細かに動く波形、録音のアイコンが浮かび、その下には位置情報が表示された地図が大きく映しだされている。
特に異常のない画面を閉じ、側面の一番下に配置されている沈み込んでいるボタンをなぞり、端末の右背面に挿入された透明な薄い板に取り付けられている梅結びの房飾りを引っ張ったが、挿入された個人IDの中で赤い液体が流動するだけでびくともしなかった。
「問題ない」
『了解です。なにかあればいつでもどうぞ』
「ちょっとちょっと、遅いんじゃない? おじさん食べ終わっちゃうよ」
任務前の確認を終えて巾着に端末を仕舞い、カラビナをつけなおす少女を中年の男が見上げた。頬骨の上に古い銃創が流れている、口元の無精髭にパンくずをつけた男だ。
少女の隊服と同じ糸で織られた光沢のある生地が使われているジャケットは、羽織衿に白糸で龍が刺繍されている。衿と同じ龍が彫られたネクタイピンが西日に輝くが、よれたシャツに締められた不格好なネクタイではいささか居心地が悪そうだ。
そして右手には食べかけのサンドウィッチ、黒のグローブをしたままの左手にはジュースのカップが握られている。階段のど真ん中で腹ごしらえとは、なんとも大変な素行である。
「うるさいな……ちゃんと集合の五分前じゃないですか」
「冗談じゃないの」
男は残りのサンドウィッチを大きな口で頬張り、ずるずると音を立てて吸ったジュースで流し込み、口元を拭った紙ナプキンを空になったカップに丸めて詰めて捨てるように置いた。行動の端々には少年のようなあどけなさを残すこの男、緒方は表情一つ変えない少女に肩を竦めて拗ねるように言う。
「なにかあったのか? いつもならもっと早いだろ」
緒方の隣では、魚の鱗のような変わった装飾がされた銀の煙管を蒸かす青年が、海辺を見つめたまま訊ねた。風に靡く重めの前髪の奥にある目元が見えることはないが、傍らに置かれた、蛍と撫子の螺鈿が施された三段の背負子箪笥と相まって、浮世離れしたような雰囲気を放っている。
「迎えが来なかったんで、自分で来ました」
「うっそ。とうとう簡単なお仕事もサボタージュかよ……尾の連中もケツの穴ちっさいのね。尾だけに、つって」
満足げな中年から目を逸らす少女と青年。一気に冷え込んだ夏の空気に、小声で「笑えばいいのに」やら、「結構自信あったのに」などと、呟く緒方は足元の砂利を弄っている。
彼らが任務に就く際に、龍尾隊と呼ばれるサポート専門の担当者が現地まで車で送迎する場合があるのだが、少女が言った通り、今回はその担当者が十五分待っても集合場所に現れない事態が発生したのだ。
さて、彼女は先程「自分で来た」と言った。普通であれば疑問に思う点がいくつかある。まず、車で送迎されるはずだった距離を、すでに予定から十五分も遅れている状況で、集合時間に間に合うように移動するなどできるだろうか。常人であれば無理難題な話である。だが、それどころか彼女は集合時間の五分前には到着した。どのようにして時間内に到着したのか、彼らが驚きもせず疑問にも思わないのは、言わずもがな、彼女が同年代の中でも群を抜いて優秀だからに他ならなかった。明々白々な差別も、彼女にとってはくだらない悪足掻きにしかならないのだ。
「じゃあ帰りはおじさんの車に乗せてあげよう」
「加賀さんの車に乗るんで大丈夫です」
「あら、冷たいわねぇ……じゃあおじさんもカガトモカーに乗ろうかな」
ある一定の流れを辿り、加賀と呼ばれた男が蒸かし続けている煙管から燻る、藤色の煙が蜃気楼へと吸い込まれている。否、厳密にいえば蜃気楼などではない。眼の奥を刺すような鋭い西日の光の帯がスッパリと切れ、水平線と平行に伸びている不自然な隙間に向かって風が吹いているのだ。
少女はゆっくりと右腕を掲げ、袂のついた袖wお手の甲へ乗せると、まるで何かを探るように袖の下から光の帯と水平線のその隙間を覗いた。
「なにが見える?」
緒方の問いかけに、少女は一言答える。
「……女の手」
少女の顔を染め上げていた橙色の光が失われていく。穏やかだった海は先程と打って変わり、暴風と荒波が轟轟と音をあげて怒り狂っている。そして文字通り、禍々しい怨念のような重い空気を纏う、蓮の花のようにいくつも重なった青白い女の手が、海に生えているのだ。あざだらけの、大きな人の手が。
大波にもまれている手は長い爪が食い込むほど、縋るようにして浜を這う手を掴んでいる。連なる手は、そうしてどこまでも海中に続いているのだろう。
「海神ノ御手とは、よく言ったものよね」
(……なるほど、たしかに)
今回の任務による被害予想は、地震の誘発、それに伴う津波による近辺への被害の恐れ。それに加え、海上の大気が不安定となっており、未曾有の豪雨や竜巻、台風などの発生も懸念されている。現に、風はあれを巻き上げるように吹いている。
少女の足元で呑気に携帯食のグミを貪っている緒方の言葉通り、陸に打ち上げられているだけでも、ざっと三十はある大きな不気味な手を表現するにはうってつけだ。
「加賀さん、それ、いつから焚いてます?」
「一時間くらい前。おかげであれ以上こちらに来る気配はないな」
一つ息を吐いた加賀が、箪笥の下段の取手を時計回りに捻ると、かちりと音が鳴る。引き出すと煙草盆が現れた。引き出しの角にぴったりとはまり、中で動かないよう誂えられた蓋のついた灰吹。その右隣りには布に包まれた火打石と火打ちが音が入った火入れ、赤、青、黄の小さな巾着が行儀よく並んでいる。
灰吹きの蓋を外してその淵で煙管の灰をかつん、と叩き落とし、端切れ布で雁首を拭う。慣れた手つきで煙管を分解し、専用の箱へ納めた加賀は引き出しをそっと閉じる。立ち上がり、たっぷりと布が使われたワイドパンツを叩いて砂埃を払い終えると、背に箪笥を担ぎ上げた。
「頃合いですね」
少女は卯月鳥の透かし模様の鍔を擡げ、静かに鯉口を切った。右手にグローブをはめながら最後に立ち上がった緒方は、少女の重みある一連の流れを気の抜けた顔で見届け、やる気なさげな溜息を吐いて気崩れたジャケットを羽織りなおした。
「始めますか」
東西の中心に聳える大樹、”龍神緋樹”を御神木とする宗教団体として知られているが、その教義や理念については一切不明である。御神木の根本に本部を構え、高い塀で囲まれたその内部は民間人の立ち入りを禁じている。一方で、”御足元ノ都”と呼ばれる本部周辺は、塀の特徴的な意匠を踏襲した建造物が建ち並び、他とは一線を画す、テーマパークのような雰囲気とアクセスの良さが重なり、観光地として人気を博している。
入信には選抜試験の合格が必須であり、難関を突破した信徒は全国各地の神社に配属され、生涯をそこで過ごすという。また、布教活動の禁止という、少々変わった掟が存在する話は有名であり、平時は信徒の姿を目撃することはあまりないため、願いの叶うジンクスや都市伝説の類として、民間人の間で語られることもしばしばある。
しかし、その実態は”神殺シ”と呼ばれる緋色の武器を手に、警察や軍隊ですら対処不能なほど甚大な被害を及ぼす現象、”祟リ”を討ち祓う政府直属の組織。たびたび現れる祟リの根絶をもって社会秩序の維持に寄与する、世界で唯一の対祟リ専門機関であり、その全貌は厳重に秘匿され、法的保護下に置かれている。
――それが、彼らが所属する”緋龍ノ御遣い”である。