Act9.「悪役の最期」
「う……ああっ、」
リリーは頭を抱え、地下の冷たい地面にうずくまる。
数多の死の経験と、忘れてはいけなかった愛しく悲しい思い出が押し寄せ、心が悲鳴を上げた。
「お姉様……」
苦しみに喘ぐリリーの肩に、サクラはそっと手を触れる。そこから流れ込む清らかな力に、リリーは落ち着きを取り戻した。
「サクラ、わたしは……っ」
「落ち着いて、お姉様。……思い出して、しまった、のね」
強い神力を持つ者同士が触れ合うと、共鳴することがある。リリーに神力は無いが、前の世界で悪魔と契約した際、手に入れた一時的な魔力が残っていたのだろう……と、サクラは推測した。
「――サクラ、早く、早く戻しましょう」
「え?」
リリーはサクラの手に縋った。この小さな手にずっと守られていたことを忘れて、何度も憎しみに支配され、たくさん傷付けてきた。今すぐ牢から彼女を出して抱き合いたかったが、リリーにその術はなく、サクラは既に呪いに浸食されている。このままでは死を待つばかりだ。
「回帰の術はまだ使えるわよね? 今度こそ、絶対に二人で、」
幸せになろう――その言葉を遮るように、サクラはゆっくりと首を横に振った。サクラから滲み出る諦めと死の気配に、リリーは息を呑む。焦りと恐怖で鼓動が早まった。
「もう、いいのよ、お姉様」
「なに……どういう意味? もしかして、牢の中では力が使えないってこと? だったら、頼み込んで開けてもらうから、」
「もう、いいの」
「だから、何が!」
「これはね、サクラの選んだ“最良の結末”なの」
サクラの微笑みが、リリーを残酷なまでに優しく突き放す。
「な……選んだって……どうして!? だって、このままじゃサクラは!」
声を荒げるリリーの口を、サクラの指がふわりと塞いだ。その指は頬へと滑り、リリーの顔を導くように引き寄せる。サクラはリリーの耳元で、小さく囁いた。
――お姉様を助ける“ヒーロー”にはなれなかったけれど、中々かっこいい悪役になれたでしょう?――
この世界にとって、“悪女は必要悪”。
物語を彩る、無くてはならない存在だ。
その役目を持って生まれたリリーは、憎悪に囚われ、皆から憎まれる悪役となる。そして物語を盛り上げた後、勧善懲悪の結末で命を落とす。それがこの世界の決まりだった。
サクラは数回目の世界でそれに気付き、何度も抜け道を探した。
リリーと周囲との関係修復に努め、リリーの幸せを妨げる者を幕裏で潰し――ありとあらゆる方法を試した。しかし、リリーの死の結末を変えることは出来なかった。サクラ自身も、何度も抗いようのない“恋”に呑まれ、ヒロインの座から逃れることは難しかった。
強制力の及ばない場所を探し、国から出ようとしても、いつもあと一歩という所で失敗する。まるで――外など存在しないと言われているように。
何十回、何百回と辛い結末を目の当たりにし、精神の限界を迎えかけていたサクラ。ボロボロの彼女が気が付いた時、そこは三年前の神殿の中庭だった。
サクラには、時間を戻す先は選べない。リリーと出会ったばかりの子供の頃であることもあれば、聖女として働き始めた頃、ユリウスとの婚約後であることもある。だが決して、リリーと出会う前に戻ることは出来なかった。
時間が戻り、再び動き出すまでの、僅かな静止の時間。
サクラは自分を池に突き飛ばしたリリーを見つめ、考えていた。
リリーを救おうとすることで、結果的に何度も彼女を殺してきた自分。リリーを一番苦しめているのは自分なのではないか、と。
(お姉様、ごめんなさい。お姉様……)
時間が、回り出す。辛く苦しい物語が、幕を開ける。
池に落ちていくサクラの目の前で、月の光みたいな白い髪が舞った。救いを求め伸ばしていたサクラの手を――リリーが掴んだ。
今回の世界では、これまでのどの世界でも起きなかったことが起きた。サクラが働きかけずとも、リリーは自ら憎悪を乗り越え、幸せな道を切り拓いていくのだ。そんなリリーを見て、サクラは一つの結論に辿り着いた。
この世界は、悪女に打ち勝ったヒロインとヒーローが結ばれる物語である。
それが覆らないのなら、幸せの席数が決まっているのなら。
自分が悪役となり、リリーをヒロインにすればいいのだと。
一人ぼっちの自分に花の名前をくれた、たった一人の大切な義姉。
サクラの幸せを感動的に演出するためだけに、物語の犠牲となった彼女。リリーを救うには、その他に道はない。
悪役に足るべく資格は、強い憎悪。
この世界に強い憎しみを抱いたサクラは、誰よりもその役割に相応しい存在となっていた。
世界は、この“逆転物語”を認めた。
「そんな……わたしの所為で」
「いいえ。お姉様を、守りたい、サクラのため、です」
サクラの想いを受け取ったリリーは泣き崩れる。嗚咽が彼女との残り少ない時間を浪費していった。サクラは幼い頃に自分がされたように、リリーの頭を撫でる。
「お姉様。どうか、お幸せに」
それが彼女の最期の言葉になった。
サクラは満ち足りた顔で、格子に凭れかかる。もう息は無かった。