人橋咲未は、未来の自分に嫉妬する。
「ねえねえ、杉田君。もしも未来に行けるなら行ってみたい?」
喧騒が支配する教室。突拍子もないことを言い出すのが隣に座る人橋咲未の常であった。今回も平生に倣って、机上の空論めいた質問を俺、杉田航佳にしてきた。
「うーん……行ってみたい、かな?」
「そっか! それなら話は早いね」
彼女はふふんと鼻高々に、ただでさえ強調されている胸を張った。桃色の頭髪を首までのところで切り揃え、つむじから生えたアホ毛は彼女の象徴といえる。
「実は私、人の意識を未来に飛ばせるんだよね」
「お前は何を言っているんだ」
突拍子もないことを言うのは彼女の通常運転だが、これに関しては蛇行運転、それどころではなく、車が大破してしまうほどのとち狂ったハンドル捌きとすら言える。友達として数ヶ月話してきたが、今日ほど肩透かしを食らったのは初めてだ。
しかし、俺の困惑を歯牙にも掛けず、彼女は俺に掌を向けて、何やら力を込め出す。
「言葉通りだよ。じゃあやってみるね! えい!」
「ちょま!?」
——瞬間、世界が稼働を停止した。環境を構成するあまねく歯車が凍りついて、俺はそれを眺めるしかできない。まさか、本当だったと言うのだろうか。
——た
誰かが呼ぶ声が聞こえる。やがて、ジグソーパズルをバラバラにするように、世界が崩れ落ちて暗闇が広がる。
——なた
なぜかその声の主を視認することができない。洞窟内に松明が灯っていくように、光が少しづつ世界に戻っていく。パズルはもう少しで完成する。
——
「——あなた! 大丈夫?」
「あ、え、ん?」
気がつくと、目の前には髪を伸ばして、一つ結びにした咲未の姿があった。アホ毛もあることから、間違いない。紺色を基調にした制服を脱いで、無地の白い半袖に下はジャージを着ている。なんだ。ただ変装して驚かすだけか……と思ったところで、俺は違和感を覚えた。
「こ、ここは……」
俺はさっきまで教室にいたはずだ。それがどうだ。見慣れないワンルームに立ちすくんでいるのだ。まさか、本当にここは未来だというのか。
カレンダーが目についた。日付は確かに、八年の時を経ていることを示していた。
「寝惚けてるの? 全く、昨日夜遅くまでしちゃったからかな……」
「あの……する、というのは」
「はあ? あんだけ出したくせに忘れたの?」
口ぶりから俺はそれを察した。あかん。これはやばいやつだ。というか、彼女は俺を未来に飛ばした記憶を忘れてしまったのか。忘れてしまったから、こんな話を普通にできるのだろう。
恐らく俺は未来で、咲未と付き合っている、或いは婚姻関係にある。故に様々なことを、この体は体験したのだ。あ、やばい想像したらまずい……。
「……いやまあ、妻だからいいんだけど、それを隠そうともしないのは流石に」
「ご、ごめん」
彼女は俺の生理現象を催した下半身をチラ見して、気まずそうに目を逸らして言った。
「……しゃーない。ほら、脱いで」
彼女の呆れたような物言いに、俺はこの後に起こるであろうことを予期した。まずい。非常に。
「え、あ、それは待って」
「? 昨日に比べて、やけに今日は及び腰じゃない。ほら、いいから。えい!」
「まああああああ!!!」
——
未来で俺は貞操を失った。いや、肉体的にはあの体はとっくに失っていたのだろうが、精神的に失ってしまったのだ。
ジグソーパズルを壊して再構築するように、過去へ戻っていく。暗闇の狭間で、十六年の光陰を連れ添った我が童貞に今生の別れを告げた。
「……はっ、はあ、はあ」
「うぇっ!? 鼻血出てるじゃん! 大丈夫?」
過去に戻って開口一番、まだ高校生の咲未は俺を案じてくれた。しかし、その顔を見るだけで先刻の濃密な時間を想起してしまい、逆効果である。
「ほら、ティッシュ。うーん、未来に飛ばした副作用かな……ごめんね」
「いや、俺も、その……ごめん」
「? なにが?」
鼻にティッシュを当てがいながら、なぜか謝罪の言葉が口をついて出た。きょとんとした顔に先ほどの光景を幻視して、局部が疼いてしまった。いかんいかん。
「それで、未来はどうだったの? 例えば……結婚、とか、してたり……?」
「うゔんっ!!! まあ、うん、そうだね」
「その相手は……?」
貴女です。でもそんなのを本人に面と向かって言えるはずもない。
「見たことない人だったから、多分これから出会う人かな……」
「そ、っか……」
咲未は俺の返答に表情を曇らせた。しかし次には頭を振って、笑顔になる。
「でも、未来は変わるかもだからね! まだ不確定なんだから!」
咲未は指を突きつけてそう言うが、きっとあの未来は変わらない。俺はきっと、どこかのタイミングで彼女に告白をするのだろう。或いは、彼女が俺に。
「……どこの誰だか知らないけど、負けないんだから」
ぶつぶつと、未来の自分自身に嫉妬する彼女を見て、俺はそう思ったのだった。