二話 悠里、異世界に行く
西暦2023年5月3日(水)22時15分。コスプレ喫茶「カフネ」。
「お疲れさまです。お先に失礼します。」
悠里は更衣室で着替えを済ませ、アルバイトを終える挨拶をして店を出た。彼女は昨年からカフネで働いており、漫画やアニメが大好きだったため、コスプレに興味を持ち、このアルバイトを始めた。可愛い衣装を着て働くことは、次第に彼女の生活の一部となっていった。
アルバイト先への道のりは、自宅の最寄り駅である千駄木駅から東京メトロ千代田線を利用し、西日暮里駅でJR京浜東北・根岸線に乗り換えて秋葉原駅へ向かう。駅の電気街口までは徒歩五分ほどだ。悠里はホールとキッチンの両方を担当し、平日も休日も含めて週三日働いている。
今月は特にメイド衣装での接客が多く、メイドとしての役割を果たすためには、丁寧な言葉遣いや美しい所作が求められる。お客さまの笑顔を見ることで、彼女自身もやりがいを感じていた。
西暦2023年5月3日(水)22時20分。秋葉原駅電気街口前。
悠里はふと、何かの視線を感じた。周囲に見えない誰かに監視されているような不安が胸をざわつかせる。急いで改札口に向かおうとしたそのとき、突然、足が重く感じられた。まるで周囲の人々がゆっくりと動いているかのように思え、薄暗い夜の街で不安が募っていく。
悠里が周囲を見渡すと、進行方向とは逆の方に一人の怪しい人物がいた。明るいネイビーのデニムジャケットにナチュラルなグレーのパーカーを重ね、その下にはシックなストレートブルーのデニムパンツを履いている。星柄の黒白のレザースニーカーが目を引くが、フードを深く被っているため、その顔ははっきりと見えなかった。
その人物の背格好は、悠里とほぼ同じで、手には鋭利な刃物を握りしめていた。その堂々とした姿は、周囲の誰にも気づかれていないように見えた。悠里の心に恐怖が広がり、急いでその場から離れたいという強い衝動が押し寄せた。彼女の心の中では、今まさにその人物のターゲットにされてしまうのではないかという不安が押しつぶすように迫ってきた。
悠里は通り魔の存在に気づかないふりを決め込み、進行方向に向き直ろうとした。その瞬間、心臓が凍るような感覚が全身を駆け巡った。冷たい汗が背中を流れ、呼吸が一瞬止まりそうになる。何かが起こるのではないかという恐怖が、彼女を包み込んだ。
「グサッ。」
鋭い痛みが左胸を貫いた。通り魔が持つナイフが、悠里の体に深く刺さったのだ。彼女はその標的であったことがあっという間に明らかになった。刺された衝撃で、悠里はその場に仰向けに倒れ込んでしまった。幸いにも心臓はなんとか避けられたものの、ナイフが左肺を傷つけているのではないかという恐怖が一瞬で彼女を包み込んだ。通り魔は何事もなかったかのように、秋葉原の人混みの中へと姿を消していった。
悠里は、受ける痛みの恐ろしさを感じる余裕もなく、暗闇に沈んでいった。
「キャアアアアアッッ!!」
周囲から悲鳴が響く。その瞬間、悠里は自分の状況に気づいた。「グハッ……」肺から逆流してくる血の感覚が押し寄せ、体は拒絶反応を示すかのように吐血してしまった。赤い液体は地面に広がり、彼女の視界に鮮やかなコントラストを添えた。
「──ハァ……ハァ……ハァ……」
呼吸は次第に浅くなり、息苦しさが増していく。痛みは初めは鋭いものであったが、次第に鈍く、ずっしりとした圧迫感へと変わっていった。ショックと痛みにより思考がまとまらず、出血が止まらないことが脳に酸素を届けないのだろうか。視界は白くぼやけ、急激な眠気が彼女を襲い始めた。このままでは手遅れになるという危機感が募る中で、悠里は深い眠りへと沈んでいくのを感じた。
——
現在、死後の世界。
フレイバの発言を受けて、死ぬ間際の記憶が悠里の脳裏をよぎった。あの出来事が夢ではなく現実であったことを否定する余地はなかった。死という事実を受け入れることは非常に辛く、心の奥からは絶望感が湧き上がった。生前の生活には特に不満はなかったものの、やり残したことがたくさんあることに気づいた。悠里は、今の状況を打破する力や方法を持っていない無力感に苛まれた。
「わ、私は今後どうなりますか?」
声が震え、不安や恐怖が彼女の心を支配していた。動揺を隠せない悠里を見て、フレイバはその反応に応じた。
「悠里さんには二つの選択肢があります。」
天国か? それとも地獄か? もしそうなら、迷わず天国を選ぶだろうと、悠里は一瞬考えた。
「それは何ですか?教えてください。」
普段はせっかちな性格ではないが、この時だけは知りたくてたまらなかった。
「一つは、天国か地獄に行く選択です。」
それが一つの選択肢に過ぎないのなら、他にはどんな選択肢があるのか?
「もう一つの選択肢は何ですか?」
「もう一つは、異世界に行く選択です。」
その提案に悠里は意外と驚かなかった。むしろ、異世界に行く道を選ぶことに反射的に決めた。何が待ち受けているのかはわからないが、その先に新しい可能性があるかもしれないと直感したからだ。生まれ変われるのなら、異世界に転生して可愛い美少女になりたいと、悠里は常に願っていた。この思いがついに現実のものとなるのだ。二度目の人生が与えられ、異世界ライフを楽しめる時が来るという事実は、感謝の念が込み上げるほどの奇跡だった。
「異世界に行く選択を選びます。」
「かしこまりました。それでは、次の話題に移らせていただきます。」
「どんな異世界に行きたいですか?」
悠里は、これまでに多くの異世界モノの漫画やアニメを楽しんできたが、実際に自分がその立場になると、どのような異世界を選ぶべきか迷ってしまった。
「おすすめの異世界はありますか?」
「シンプルに、剣と魔法の異世界はいかがでしょうか?」
シンプル・イズ・ザ・ベスト。中世ヨーロッパを舞台にした剣と魔法の知識や戦闘スタイルが豊富な異世界ファンタジーは、多くの人々に愛されるジャンルである。
「良いですね。それでお願いします。」
その後、悠里はフレイバとさまざまな対話を交わした。対話を通じて、フレイバは彼女に【意識の転生】の権利と『着せ替え』のスキルを授けてくれた。
異なる人物として異世界へ生まれ変わる【異世界転生】、何らかの形で異世界へ移動する【異世界転移】。悠里は早くコスプレがしたいと思っていたため、赤ん坊からの転生は考えなかった。
生前の姿のままで異世界に行けるのかとフレイバに尋ねると、亡くなった肉体では異世界に転生も転移もできないと教えられた。しかし、特定の人物を指名することはできないが、無作為にコスプレが似合う可愛い美少女の意識に転生する要望には応えてくれるとのことだった。
他人の意識に転生しても、記憶は保持されるという。次に、着せ替えのスキルを試してみることにした。このスキルは、自在にコスプレやコスチューム、仮装に変身できるが、使用回数には制限があるらしい。限度は五回。その回数が多いか少ないかは、個々の目の前に広がる可能性に依存するのだ。
生前、無能力者だった彼女にとって、このスキルの存在は驚くべきものであった。この世界には、ゲーム内のトレーニングモードのような空間があり、そこでのスキル発動は何度でも可能だという。
「ご満足いただけましたか?」
「はい、もう最高だなって感じです!」
コスプレ衣装に変身することに夢中になっているうちに、悠里はフレイバに姿見鏡を準備させてしまった。
「◎$♪×△¥○&#$◎△$♪×¥○&%#?」
フレイバが何やら呪文のような言葉を唱えると、何もない空間から扉が現れた。さすが女神様、よくわからないが凄い。
「今のは女神様の魔法ですか?」
「はい、この魔法は創造魔法で、あの扉は異世界へ通じる扉となっております。」
蝶番を軸にした片開きの扉は、真っ白な壁に対して鮮やかな存在感を放っていた。ブラスゴールドのドアノブは魅力的で、周囲の景色とも見事に調和していた。
「フレイバさんには大変お世話になりました。色々と懇切丁寧に教えていただき、ありがとうございました。」
「それでは、お気をつけて行ってらっしゃいませ。」
「本当にありがとうございました!行ってきます!」
そう言い残し、悠里は期待に胸を膨らませながら異世界への扉に足を踏み入れた。