80、姫と魔法使いの永遠
牧場を抜けて葡萄畑の間を進み、小高い丘に登る。足元には、桜草の花が今を盛りと咲き乱れている。ピンクも黄色も濃淡様々に、白も混じえて丘の表情を豊かに見せている。まばらに生えた木々の間から、崩れたお城の壁が見える。
丘の頂上まで来ると、壁はほんの僅かに残るだけだと判る。微睡むような春の日に、ふわふわと雲は流れてゆく。かつてはここに、この雲のように白い小さなお城が建っていたという。今に残された残骸は、白さを失いすっかり黒ずんでいる。
さくさくと下草を踏み、若い男女が丘の頂を歩き回る。なだらかな丘の上はそれなりに広く、城址だと言われて納得出来る場所だった。丘の麓には、葡萄畑に点在する家々が村を作っている。かつて栄えた城下町の面影はどこにもなかった。
「もう何年経つかしら」
ゴージャスな金色の巻き毛を颯爽となびかせる乙女が言った。緑色の瞳にはぼんやりと哀しみの影が宿る。
「さてなあ」
華やかな銀髪を適当に整えた少年が応える。少年は、今時見かけないような古風な髪紐で、肩まで伸びた銀髪を束ねていた。
「いつから数えてねぇのかなあ」
「忘れちゃったわ」
「ウッズに聞いてみるか」
「いいわよ。聞けば分かるでしょうけど」
金髪の乙女はくすりと笑う。春風に揺れる桜草の如き可憐な笑みだった。
「そうだな」
少年は乙女を抱き寄せて、優しく唇を重ねる。節の目立つ長い指は、金色の巻き毛を掻き分けて泳ぐ。少年はその感触が好きだった。乙女も少年に髪を手櫛で梳かれて心地良さげに目を瞑る。
「わたくしたちが出会ったのは、あの辺りかしら」
金髪の少女は葡萄畑の一角を指す。
「そうだな」
「雨だったわね」
「今日は晴れてるな」
「レシィが助けてくれなかったら、わたくしは命を落としていたわ」
「リムは、ぼろ布みてぇにずぶ濡れだったな」
「レシィが乾かしてくれたわね」
「そうだったな」
2人は懐かしそうに丘の麓を眺める。かつてはそこに、フォレストと呼ばれる少年の家があったのだ。そこで2人は運命の出会いを果たしたのである。
銀髪に菫色の瞳を持つ粗暴な大魔法使いの少年フォレストは、あの頃と変わらぬ見た目である。今も、三段ベルトバックルの濃紺に染めた革ブーツを踏み鳴らして歩き回っている。
金の巻き毛に太陽を反射する、緑色の瞳をしたプリムローズは、今もいきいきと跳ね回る。大好きなフォレストを師と仰ぐ、8番目の大魔法使いである。
「ストーンはまだ苔桃谷にいるかしら」
「さあなぁ。どうでもいいさ」
「ふふふっ、そうね」
プリムローズはおかしそうに肩をすくめる。
「でも、あのひとがわたくしを仔猫に変えなかったら、わたくしレシィと会えなかったのね」
「そりゃまあ」
「そう考えたら、恩人ね?ふふっ可笑しいのね」
緑の瞳から翳りが消えて、悪戯そうな輝きが顔を出す。フォレストはプリムローズが可愛くてたまらない。数えきれない時を共に過ごしてきた妻だ。子供たちも孫たちも、もっと遠い子孫もいる。それでも益々好きになる。
「チッ!ストーンが恩人かよっ」
フォレストは苦笑いで舌打ちを響かせる。
2人はお揃いのマントを春風に揺らして、またひとつキスを交わす。藍色の綾織絹に銀の刺繍で、大木や鳥たちが躍動的に描かれている。2人の大きな尖った襟は胸まで届く。片方の襟先に、虹色に輝くアーモンドの花を象るブローチが飾られていた。
「ねえ、精霊湖に降りてみましょうよ」
精霊湖は埋め立てられることもなく、変わらず丘の向こうにあった。湖を取り巻く精霊の森は、2人が出会った頃より狭くなっている。星乙女の伝説は失われ、始源祭もいまは消えてしまった。
「そうだな。行くか」
ふたりは仲良く手を繋ぎ、のんびり丘を降って行った。滅多に人が来ないのだろう。踏み折られた草もなく、歩くたびにバッタや羽虫が逃げ惑う。
丘の麓に残る小さな森に足を踏み入れると、哀愁を帯びた弦楽器の音が聞こえてくる。啜り泣きにも似た音が、2人の胸を甘く締め付ける。やがて歌声も聞こえてきた。ひとりの若者が弾き語りをしているようだ。
声は明るくよく通る。しかしその響きは深く、囁くように涙を誘う。歌は切なく魂を揺さぶる。遠い昔の星空の下で、亡き恋人を慕う歌のようだった。
「ねぇ、何だかティムを思い出すわ」
「そうだな」
「不思議ね。ティムはいつでも穏やかで明るかったのに」
「悲しい歌だな」
「ええ。でも、何処か心が休まる歌だわ」
「ティムみてぇだな」
「ふふっ、そうね」
何百年も前に失った、フォレストの親友ティムは、愛嬌のある陽気な男であった。言いたいことはズバズバ言うが、どこか気の抜けた雰囲気があり、嫌な感じはしないのだった。
若者の声は、亡き親友とは似ていない。だが2人には、魂の深いところで繋がっているような、そんな気がした。
生い茂った木々の間に、精霊湖の反射する光がちらちらと見え隠れし始めた。時折、精霊柳の青い綿毛が銀を宿して揺れるのが見えた。歌も次第にはっきりと聞こえてくる。
君は憶えているのだろうか
遠い昔の月影を
君は夢見ているのだろうか
遥かに仰ぐ星影を
僕は今
ひとりブナの老い木にもたれ
君想う
君は愛してくれるだろうか
今は昔の木漏れ日を
君は見つけてくれるだろうか
時の彼方の陽だまりを
僕は今
ひとりブナの老い木にもたれ
君想う
幸せ降らせ星降らせ
星の乙女の春の国
その精霊の森の中
ブナの木陰で交わした想い
魔法の月は時雨となって
魂を運ぶ月の波
星の涙も枯れ果てて
この精霊の森の中
憶えているよいつまでも
忘れはしない真心を
幸せ降らせ星降らせ
星の乙女の春の国
君は憶えているのだろうか
遠い昔の月影を
君は夢見ているのだろうか
遥かに仰ぐ星影を
僕は今
ひとりブナの老い木にもたれ
君想う
最後の音が余韻を残して梢高くに消えてゆく。ざわざわと葉擦れの音も騒がしく、湖では忙しなく魚が跳ねる。2人の大魔法使いは足を止めて辺りを見回す。降り注ぐ光が、どこか魔法の力を含む。
背後から枯れ葉を蹴って走る音が聞こえた。ハッとして振り向くと、魅せられたように歌声の元へと急ぐ乙女が見えた。真っ直ぐな赤毛を靡かせて、木の根や岩を飛び越えてゆく。木漏れ日を浴びて佇む2人を追い越して、一目散に精霊湖へと向かう。
「マーサ?」
プリムローズの呟きが、枝を渡る鳥の甲高い声に掻き消された。赤毛の乙女は空色の瞳で、むしろティムを思わせる。髪の色も栗色ではなかった。見た目もふくよかで、きりりとしたマーサとは違う。
「会えたのね」
「そうだな」
プリムローズとフォレストは、顔を見合わせて嬉しそうに頬を緩める。2人はとても幸せな気持ちになって、優しく抱きしめ合い、口付けを交わす。
「ねえ」
身を離すとプリムローズが言った。
「あのふたり、始まりの魔法使いなのかも知れないわ」
「森の精霊が人間に?」
「そうだったら素敵じゃない?」
「フッ、リムは可愛いなあ」
フォレストはプリムローズを抱き上げて、ぐるりと一回転した。2人のマントがふわりと持ち上がり、春の陽射しを反射する。
「あら?また歌だわ」
「今度は陽気だな」
精霊湖の方から、速いテンポの舞曲が聞こえる。とうの昔に失われた魔法使いの祭りで踊られる曲だった。元は歌詞がない筈なのだが、若者は一節歌う。続いて若者の美声に、辿々しい乙女の声が楽しそうに唱和する。
幸運 7、永遠 8、魔法の 9、シャラララ
魔法の数が巡るよ巡る
幸運 7、永遠 8、魔法の 9、シャラララ
精霊の森に踊るよ踊る
星、月、空、森へ
踵を鳴らして回るよ回るよ
星、月、空、森へ
シャラララシャラララ、シャリララルールー
プリムローズとフォレストは、踵を鳴らして踊り始める。
「懐かしいわね」
「歌詞は初めて聞くな」
「そうね、なんだか愉快な言葉だわ」
「今時、魔法楽師たぁ珍しいな」
フォレストとプリムローズは、左手を高く上げて打ち合わせる。心地よい音が森の木々に反響する。落ち葉は踏まれて砕け散り、芳ばしい香りで木陰を満たす。
打ち合わせた手を下ろしながら肘を曲げて組む。荒々しいステップを踏んで、金と銀との髪が円を描く。
「7!8!9!シャラララ!」
2人は音楽に合わせてレスポンスを叫ぶ。手拍子で合いの手も入れる。踊りながら段々に精霊湖へと近付いて行く。
曲のスピードが上がる。笛や太鼓が加わった。
「ウッズね!」
「来たな」
2人は踊りで組んだ手を解き、指を絡め合わせて走り出す。朗らかな笑い声が、長閑な森に木霊する。苔むして剥がれかけた樹皮を晒す老木の間を抜け、ふたりの大魔法使いは湖畔へと走り込む。
楽師たちがニカッと笑って視線を寄越す。ブナの木陰にはリュート弾きと習いたての歌い手、精霊湖の空にはウッズが作り出す幻影の妖精楽団がいる。その魔法の調べに惹かれて、本物の妖精や魔法生物も集まっていた。
ウッズは、昔と変わらず黒く真っ直ぐな杖を大きな動作で天に突き上げる。風と光が虹色に渦巻き、幻影芝居が始まった。
「観て!レシィ!みんながいるわ!!」
「俺たちの結婚式だな」
「ええ!懐かしいわね」
「ああ、楽しかったな」
2人が寄り添いあって観ていると、今は壁の一部しか残らないエイプリルヒル王城が現れた。王城でのお披露目だ。ウッズは魔法省の記録官として公式に呼ばれていたのである。
「ああ、お父様、お母様、お兄様方、お兄様の犬も」
次兄が猟犬のショーをプレゼントしてくれたのだ。
「料理長のおご馳走が運ばれてきたわ」
「美味かったなぁ」
「ええ。わたくし、料理長より美味しいお料理をつくる方、知らないわ」
涙を滲ませながら、プリムローズは眼を輝かせる。動物の形に切られた野菜や、花を閉じ込めたお菓子、爽やかな飲み物からは香りまで漂ってくる。
幻影芝居は、エイプリルヒルの魔法使い達を次々に映し出す。
お城でまた、仔猫騒動があった。フォレストとプリムローズの子供達が持ち込んだのだ。王様が叫び声をあげ、驚いたお妃様はぎっくり腰になってしまった。そんなことが繰り返されて、兄の代でプリムローズ一家はお城を出入り禁止になってしまったのだ。
ふたりの子供とティムとマーサの子供が、月時雨を口で受けようとして駆け回っている。プリムローズたちの初孫が、ティムたちの遅くできた末息子と、結婚の挨拶に来た。
ティムの工房からお弟子さんが旅立つ。怪魚の丘に、数100年ぶりの魔法商人がやってきた。ティムたちの長男がジルーシャさんの晩年の弟子となる。
ウッズも結婚した。相手は魔法使いだ。残念ながらひとつの魔法しか使えなかったようだ。怪魚の丘にある鏡の迷宮には、遠い森の民や精霊たちが昔の王様を訪れるようになった。
「みんな、みんな幸せそうよ」
「笑ってるな」
大魔法使いの夫婦は幻影芝居に釘付けだ。ふたりは肩を寄せ、湖畔で頬をくっつける。ウッズの作る風の扉から、昔の王様がやってきた。
「まあ、昔の王様、お久しゅうございます」
「おお、遠い時の大魔法使いと姫よ、変わりはないかな?」
「王様もお元気そうで。ウッズとは今も?」
「うむ。仲良くしておるぞ」
ウッズも杖を下ろして会話に加わる。
「レシィ、姫様、久しぶりだね」
「今日はどうして?」
「そりゃ、久しぶりに新しい魔法使いが記録されたからさ!」
「あのふたり?」
「うん。あの青年は、森の精霊たちから歌を授かり、その歌に惹かれて歌姫が来た」
ウッズは一呼吸置いて、赤毛の娘を指す。
「あの娘さんは、月の民だよ」
「まあ、そうなの?」
「そんな雰囲気だな」
月の国への道も、今ではもう誰も知らない。魔法使い達は知っているが、魔法使いがそもそも殆ど死に絶えている。大魔法使いは全部で9人。今でも変わらず、あれから増えもせず。
「君たちは、大魔法使いになるのかい?」
ウッズは新たに生まれた魔法使いたちに、当然のように質問をした。2人は戸惑っている。惹かれ合う魂は、記憶を運ぶわけではないのだ。愛だけは変わらず、約束の再会を果たす。
「僕の魂に、そんなことが」
「私たちも、月の秘術で次の世で会うわ」
「そんな、僕はまだ解らないよ」
「何よ?あんな歌で呼んだくせに」
「知らないよ。森が教えてくれたから歌ったんだ」
プリムローズとフォレストは顔を見合わせる。
「あんなこと言って」
プリムローズがくすくす笑う。金色の巻き毛には、緑や黄色の斑らな光が飾られる。
「どうせまた、巡り合うさ」
眉間に皺を寄せる大男の銀髪にも、光のシャワーが降り注ぐ。
「ずっとずっと未来の、でもきっと、この精霊湖の畔でね」
ウッズが穏やかな笑顔を浮かべて湖に視線を向ける。プリムローズとフォレストは、静かな口付けを交わした。
エイプリルヒルはもうないけれど、星の乙女と森の精霊は、今もこの地に幸せを降らせている。ここに集まった3人の大魔法使いと昔の王様は、しみじみとそれを実感した。これから先もずっと、ずっと、ここには、「星の乙女の春の国」が存在し続けるのだ。
金色の姫と、銀色の大魔法使いが誓った永遠の愛が、森の祝福を強めている。精霊たちは姿こそ見せなかったが、幾重にも感謝と喜びを表しているようだ。
プリムローズは、いまは滅びた故郷の祝祭の歌を口ずさむ。フォレストとウッズも記憶を呼び起こして共に歌う。
森の精霊が星と呼ぶ
金の巻き毛の麗し乙女
その金の毛に星を受け
不思議の力を身に宿す
魔法使いの始祖として
星降らせ 幸せ降らせ
エイプリルヒルの村
乙女の故郷
幸せに溢れたその村は
豊かに栄え国となり
今に伝える不思議の力
魔法使いの始まりは
幸せ降らせ、星降らせ
緑の森の精霊の
愛し麗し星乙女
栄えあれ エイプリルヒル
誉れあれ 星乙女
不思議の乙女の幸せの国
星の乙女の春の国
星の乙女の春の国
ひととせ巡り、桜草の咲く頃にこの精霊湖で、また一組の魔法使いが夫婦となる。だが、それはまた別のお話。




