75、月時雨
夏も近づくある夕方のことだった。子供の声が路地に響いて、鳥たちも巣に帰る。夕餉の支度をする匂いが家々の窓から流れてくる。プリムローズとフォレストは、エイプリルヒル城下町の魔法街路灯の点検を終えて万魔法相談所に戻って来た。
「何か食いたいもんあるか?」
フォレストは相談所の扉を閉めながら、プリムローズを見下ろした。菫色の瞳には、今日も優しい愛が浮かぶ。プリムローズは返答を忘れて、しばし素敵な菫色に見入るのだった。
「なんだよ」
フォレストは苦笑いして、婚約者の肩を抱き寄せる。プリムローズはにこっと笑う。フォレストがプリムローズの金色の巻き毛を長い指で梳いていると、相談所のドアが開く。
「今晩はー、レシィ、プリムちゃん」
「姫様、お変わりなく。フォレストさんもお元気そうで」
ティムとマーサがやってきた。ふたりは構わずキスをしてから出迎える。万魔法研究所にあるドアは、普通の鍵と魔法の鍵が二重にかかっている。だがティムは、魔法の鍵も自由に開けられる設定がされているので、遠慮なく入ってくる。
「ティム、マーサさん」
「あら、今晩は」
ティムはにこにこしながら、入り口に立ち止まる。
「月時雨、観にいこうー」
月時雨は、月の国で夏至の頃に見られる天然現象のことだ。ティムの故郷である月の国では、いつも月が出ている。昼の月という意味ではない。一日中夜空で、太陽は見えないのだ。
他の国々が夏至を迎える頃、月の国に浮かぶ魔法の月から降る光は、時雨のように見えるのだ。これが観光名物にもなり、月の国ではこの期間に夏至祭にあたる祭りが行われる。
プリムローズたちは、始源祭の時にティムと一緒に月時雨を観に行く約束をしていたのだ。
「もうそんな時期か」
「うん、今日あたり見ごろだねえ」
「レシィ、ウッズさんは?」
ウッズにも月時雨を観に行く誘いをかけていた。ウッズの仕事は夜にかかることがない。他に予定がなければ、扉の魔法を使ってすぐに来るだろう。
「今、連絡した」
程なくウッズがやってきた。気軽な毛織の上下を着ている。
「来たな」
「今晩は」
フォレストが迎えると、プリムローズも挨拶をする。マーサも頭を下げる。ウッズは和やかにお礼を述べた。
「お誘いありがとうございます」
「早く行こうー」
ティムが細工魔法のひとつを使って、一同を月の国へと連れてゆく。そこはティムが生まれたブルーウィードの町の広場だった。所々に手押し車の屋台が出ている。祭りの体裁は整えられていないが、なかなかの人出がある。
月の国の空を行く魔法の月は、銀青の光に金や緑や紫も僅かに混ぜていた。プリムローズが月の国を訪れたのは初めてのことである。魔法の月光は、ティムが魔法の苔を摂りに行った岩原でも経験した。だが、月時雨はその時とはかなり感じが違う。
プリムローズは思わず頭を手で覆う。たおやかな白い手は月時雨に染まって青白くゆらめく。金の髪は青緑に渦巻き、命なきものの風情を思わせる。
「フッ、濡れやしねぇよ」
「ほんとに雨みたいね」
フォレストはおかしそうにプリムローズのつむじに唇を寄せる。マーサは感嘆の吐息を漏らして空を仰ぐ。ティムはにこにことマーサを見ている。ウッズは手に馴染んだ黒く真っ直ぐな杖を掲げて、せっせと記録魔法を走らせている。
針のような光の雨を地上に注ぐ不思議の月は、ゆらりゆらりと夜空を歩む。空に向かって口を開けた子供たちが、笑いながらぶつかって尻餅をつく。
味がするのかと思って、マーサはそっと月時雨を指に乗せて舐める。ティムはくすりと笑うと月時雨を掴んで、その手をマーサの前に出す。
「こうするんだよー」
ぱっと開いた傷とタコのある職人の手を、マーサは顔を近づけて覗き込む。手の中には、青白く光る小さな粒がある。粒は、金や緑や紫が淡く渦巻く薄い膜に包まれている。
「ティモシーさん、これは?」
「月時雨だよ?摘んでみてよー」
マーサは、言われるままに粒を摘んで眺める。短く切った爪のあるしっかりした指は、上品な曲線を描いて、月時雨の粒を月光に晒す。
「食べられるよー」
ティムは言いながら、手に残った月の粒をぱくんと口に放り込む。マーサも指先の粒をそっと口に含む。
「あら!」
「どう?気に入ったあー?」
「はい!爽やかで美味しいですね、ティモシーさん!」
マーサが満面の笑みで素直に喜ぶ。ティムは全身に喜びの空気を纏って、マーサを見つめた。
「ティムだよ!ねえ、マーサ、僕、ティムって呼ばれてるんだ。ティミーでもいいよ」
マーサはくすくす笑い出す。
「おほほ。まあ、ティミーったら。でも、私はマーサって名前が好きだから、マーサって呼ばれたいわね」
「ハハハ、マーサらしいなあ」
愉快そうに笑いあうふたりの側で、フォレストもプリムローズに月時雨の食べ方を教えていた。ウッズも見よう見まねで食べてみる。どうやら好みに合うようで、口に入れると穏やかな微笑みを浮かべた。
広場には、始源祭でプリムローズが気に入った丸芋揚げの屋台もある。ティムとフォレストは、これが目当てなのだ。2人にとっては思い出の味である。
「ここでお芋食べたら、月の国の都ボスケルナリスの宮殿前にも行こうねー」
「親方んとこ顔出さねぇでいいのかよ」
「ちょっとだけ覗きに行くけど、後でいいよ」
ティムたちが子供の頃には、丸芋揚げを売る屋台は、毎日のように街のあちこたちにやって来た。濁った緑に眼が痛くなるようなどぎつい青の斑点の芋を揚げた、シンプルなおやつだ。
味付けは、甘塩といわれるハーブソルトが人気だ。砂糖と塩と生の薬草が混ざっている。
「今日は違う味を試してみたいわ」
「いろいろあるぞ」
「みんなでそれぞれ違う味を買って分ける?」
「それはいい考えだね」
ティムの提案にウッズが頷く。
「そうですね」
マーサも乗り気だ。
「そうしよう」
フォレストが賛成する。
「せっかくだから、いろんな屋台のを試してみようかあ?」
「そうしましょう」
マーサが同意する。
「いいねえ」
ウッズは楽しそうだ。
「早く買いましょうよ」
プリムローズはウキウキとフォレストの手を引っ張る。フォレストは優しく目を細めて着いて行く。ティムとマーサも他の屋台へ向かい、ウッズも珍しそうに出店を覗く。
しばらくして元の場所に集まった一行は、月時雨を浴びながら様々な味の丸芋揚げを味わった。蜂蜜がけ、砂糖まぶし、辛いもの、シンプルな塩だけ、チーズがけ、チーズ塩、細かい花びらと塩、などなど。
「どれも美味しいわね!」
プリムローズは一欠片ずつフォレストに折って貰って、沢山の種類を味見した。食べ比べができて大満足のプリムローズであった。
「やっぱり甘塩が好きかな」
ウッズは全種類食べた後で、人気の味に戻った。ティムとマーサは物足りなそうに顔を見合わせる。
「なんだ?」
「食べ足りないのかしら?」
「味が気に入らない?」
3人に聞かれて、ティムはにこにこと答える。
「お酒欲しいよねー」
「ねえー」
呑兵衛ふたりは、揚げ芋とくればお酒なのだ。甘いのも辛いのも、丸芋揚げはお酒が欲しくなる食べ物なのである。
「じゃあ、ボスケルナリスにいこうかあー」
「宮殿広場の月時雨初めてだな」
「あれ?そうだっけー?」
「ブルーウィードでしか観たことねえ」
「そっかー」
「じゃあ、レシィも楽しみね」
プリムローズとフォレストは微笑み合った。
「あっちでも丸芋揚げ売ってるけど、それ食べちゃうと他のものが食べられなくなるからさー、これ持ったまま移動しよー」
ティムは、ブルーウィードで買った揚げ芋を残したまま手に持って、月時雨の町を歩き出す。
皆はティムの後ろについて、いつもより華やかな色の月光を浴びてゆく。のんびり、ゆっくり、散歩する。
「あら?」
プリムローズが不思議そうに足を止める。
「月の国の都、ボスケルナリスに着いたよー」
後ろを振り向くと、今まで歩いて来た路地はない。前を向けば、華やかな祭りの飾り付けをした広場の奥に、奇妙な門が見えている。
「お祭りじゃあないんだけどねぇー」
ティムはにこにこしながら広場に足を踏み入れる。
「毎年この時期には、自然に屋台が集まって来るんだよー」
話しながらティムは飲み物屋台に近づいて行く。屋台から離れてゆくお客の手には、金属のコップが握られている。コップの口には、こんもりとした帽子のような泡が盛り上がっている。泡にも月時雨が降り注ぎ、幻想的な色合いに染まっている。
マーサも当然のように同行する。ふたりとも無言でその屋台の列に並ぶ。数ある飲み物屋台の中でも人気らしく、ずいぶんと長い列ができている。
プリムローズは、綺麗な色のジュースを売る屋台へと向かう。フォレストはいそいそとプリムローズに付き添う。ウッズは少し考えてから、ちょうど列の途切れた果実酒屋台を訪れた。
月時雨は、宮殿前広場でも変わらず降り続ける。ここの広場は滑らかな肌の木々が囲み、中央にはすっきりとした顔立ちの石像がある。
「これは何?」
エイプリルヒルでは、人物の石像を飾る習慣がない。マーサは不思議に思ってティムに尋ねる。
「月の国を作った人ー。でも、ほんとに居たかは分かんないんだよー」
「伝説なの」
「そう。月の国は、すごく古くて、分かんないことがいっぱいあるんだー」
「向こうの門は?」
マーサは、広場の奥にある黒々とした門に顔を向ける。門を形造る細い棒が、月時雨を受けてくねくねと踊るように形を変えて行く。
「あれが宮殿だよー。奥に建物が見えるでしょう?」
「エイプリルヒルのお城とは違う造りですわ」
「うん、世の中にはいろんなお城があるよー。港や下町ばっかり食べ歩いてたけど、今度はいろんな国の城下町にも行こうよー」
「是非!」
プリムローズたちも石像の前にやって来た。
「あの門、動いてるのね?」
「魔法素材だからねー。月時雨に喜んでるんだよー」
ウッズは月の国名物の月光焼きを買ってきた。荒く削った鉄棒に巻き付けた薄い肉を、塩水に漬けて焼くお祭り料理だ。焼くうちに乾いた塩が月の光を宿して美しい。
「なんとも落ち着くお国だなあ」
「ウッズさん、変わってるねえ。レシィでさえちょっと警戒するのに」
「警戒?こんなに気の休まる風景はないよ。空気もとっても心地よい」
ウッズは平凡な茶色の瞳に魔法の月を映して、まるで生まれた時からそこに居たかのように寛いでいた。
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