71、魔法使いの婚約
銀髪の大男が、頭を垂れて膝をつく。金の巻き毛を真珠と菫のネットで包む小柄な姫は、その背後に誇り高く顎を上げて立っている。
春の空は晴れ渡り、雲雀が雲を目指して高く囀る。青の目立つ大きな蝶と、柔らかな白に灰色の斑点を持つ小ぶりな蝶とが、薔薇の繁みに遊ぶ。蜜蜂の羽音が響き、桜草は微風に揺れている。
王様は深いため息をつく。尚も怒りを湛えた緑色の美しい瞳を悲しげに見遣ると、ゆっくりと頷いた。
「どうやらわしらは、魔法使いというものについて、ひいては魔法について、解らぬことが多いようだなあ」
「謝って?お父様!謝んなさいよっ」
「こら、リム、やめろ」
プリムローズは、まだ気が治らないようだ。
「形式だけって、お互いの国の対面を保つためだって、そう仰るから、発表を遅らせたのに!」
王様は、慌てて口を開く。
「婚約者を選ぶ為に各地からお集まりいただいたのだぞ。求婚のチャンスすらなくお帰りいただくわけには」
「もう決まっているのに?」
プリムローズの抗議に対して、王様は疲れ果てたように告げる。
「決定はまだだと申したろう?」
「あなた。ご家族は?」
お妃様が、急に発言した。王族籍どころか人間の枠すら外れた姫だが、やはり娘なのだ。可愛い末娘なのである。母親としては、心配するのも無理はない。
もしもフォレストの家族が王家に仇なす一族であったとしたら、この縁組は承知できない。生活苦も推奨できない。プリムローズの家族としては、やはり王侯貴族に嫁いで欲しいのだ。
苛立つプリムローズを制して、フォレストはきちんと答える。
「普通の村の普通の一家で、今は月の国に居ります」
「月の国」
王様は恐ろしそうに身震いし、王妃さまは眼をすがめる。プリムローズはその様子を見て、キュッと唇を引き結ぶ。
「あ、リム、待て」
フォレストの制止が、今度は効かなかった。
「ぎゃあっ」
王様は恐怖の叫びを轟かせた。
「チッ、やめとけよ、リム」
爪を立ててフォレストの豪華なマントをよじ登るのは、仔猫の姿に変化したプリムローズ姫その人である。猫が嫌いな王家の人々は、それまで保ってきた平静を失う。
しかも、そのマーマレード色をした毛の長い猫がプリムローズであることは、いま衆目の事実である。衛兵たちも捕らえに駆けつけるわけにはゆかず、ただ遠くから見守るしかない。
銀刺繍が施された豪奢なマントの肩口まで登り切ると、プリムローズは人語を発する。
「レシィ、なんで止めるのよ」
「チッ、収集がつかなくなるだろ!」
目の前で、エイプリルヒル王城ご禁制の猫になり、さらに猫の姿で人間の言葉を話す姫。魔法に慣れていない客人たちはまたパニックに陥る。普通レベルの魔法には親しんでいるエイプリルヒル国民でも、動物の姿のまま言葉を話すのは初めて見た。
それが姫だと解っていても、やはりおぞましく感じる人が多く、中には手にした扇子を投げつけようとする婦人すらいた。
「あれはもう、王族籍をぬけたんだよな?」
「早く退席すれば良い」
「もう帰りたいわ」
「全く馬鹿にしている」
枝葉を渡る風のように、恐怖は嫌悪となって会場を走る。しかし、思いががけない所から擁護が巻き起こる。
桜草の造花を襟につけた幾人かの貴族たちが、小走りに会場係の元を走り回っている。対応する会場係も、よく見るとお仕着せの見えにくいところにピンクも可憐な桜草の造花を飾っていた。
「姫さまを守れ」
「このおめでたい日に」
「今こそ我等の出番」
「会員を出来るだけ集めろ」
こそこそと話す声を、フォレストの耳が拾う。銀の眉はやや和らいで、鋭角に下がっていた口の端も上がった。マントにしがみついて不思議そうに見つめるマーマレード色のふさふさ猫を、フォレストはひょいと持ち上げて抱っこする。
王様が顔を顰める。お妃様が半歩踏み出す。
「姫や、機嫌を直して人の姿に戻るのだ」
「穢らわしい!王家の姫を抱き上げるなど!」
プリムローズが毛を逆立てる。
「お母様、本当に恥知らずだわ」
お妃様は、黙って扇を広げて顔半分を隠した。プリムローズは風にそよぐ扇の房を眺めて眼を細める。
「ふふっ」
「リム、いいから大人しくしてろ」
気が休まらないフォレストは、姫の悪戯を止めようと抱きしめる。だが、身を捩ったプリムローズは、くるりと回転して再び薔薇色のステージに飛び乗った。
立った姿は人間ではない。二本足で立ってはいるが、全く猫の姿のままだ。マーマレード色の巻き毛を靡かせ、古めかしいドレスを着ている。円錐形に高く尖った、絵本のお姫様みたいな帽子を被り、長い裳裾を引いている。
「姫なる猫より申し上げます」
朗らかな声は、プリムローズそのものだ。もう怒りは忘れたのだろうか。悪戯を思いついてご機嫌である。姫の魔法は、またもや妖精楽団を呼び出した。だが、今度は少し様子が違う。
「わぁぁ」
「やめろぉ」
「ぎゃあぁ」
王家の人々が身を寄せ合って後ずさる。
透き通った羽を背中に生やした楽団員は、みな親指ほどの大きさだ。楽器を持つ手は毛深くて、歌う口元にはピンと突き出た髭がある。小さいながらに猫目を光らせ、頭には三角形の耳がふたつずつ。
陽気な色の衣装を身につけ、黒いブーツの踵を打ち鳴らす。踵のリズムは繰り返し、流れる音はプリムローズ姫の誕生日を祝う。
「さあさあ皆さん祝っておくれ」
「さてさて皆さん慶びなされ」
妖精猫の楽団が、会場狭しと飛び回る。逃げる者、はたき落とそうとする者、面白そうに眺める者。気さくな客人は手拍子を始め、型破りな王子様が、点在する円テーブルの間を縫って村祭りの踊りを披露する。
繰り返しの単純な歌詞に唱和する者も現れた。プリムローズも楽しそうに歌っている。フォレストは、呆れながらも愛しそうにステージの下から眺めている。
そこへ、城中から馳せ参じた桜草愛好家倶楽部の面々が、騒ぎに乗じて会場へと雪崩れ込む。散水係が操る水の踊り子は、春の陽射しを跳ね返す。魔法省の面々は、ウッズを担ぎ出して幻影楽団を呼び出す。
王城の医務室にいるメンバーは、具合の悪くなった人々に素早く対処する。夕陽の庭園担当者の巡回騎士は、爽やかで伸びやかな、素晴らしい喉を披露した。
会場から、恐怖の色が消えてゆく。真面目な王子様に同行していたやんちゃな姉姫が、弟の嫌そうな顔を尻目に踊り出す。両手を高く掲げて手拍子を打ち、型破りな王子様の相方を務める。
エイプリルヒルの楽団も、楽しそうに合奏を始めた。プリムローズの魔法が作った花びらの猫たちが、優雅な動きで村祭りの踊りに参加する。
花びらの猫が跳ねる度に、プリムローズの誕生日パーティー会場は馥郁たる香りに包まれる。猫が怖い王様は、へなへなと薔薇色のステージにへたりこむ。他の王族は嫌いなだけで、猫が怖いわけではないから、王様を気遣い背中をさする。
会場では、プリムローズを讃える歓声が上がっている。
「おめでとう!プリムローズ姫」
「おめでとう!我等の末姫!」
「お誕生日おめでとう!ご婚約おめでとう!」
「万歳!万歳!おめでとう!」
しばらくは姫を優しく見守っていたフォレストだが、やがて大きく舌打ちをした。
「リム、やり過ぎだ。陛下をみろ!」
プリムローズは歌を止め、マーマレード色の鼻に皺を寄せる。会場は次第に静まった。王様は薔薇色の床石に手をついて、弱々しく姫を見る。
「姫や、勘弁しておくれ。わしも悪かったがあんまり悪戯が過ぎるぞよ」
プリムローズもその様子を見て、流石にやり過ぎだと思う。とんがり帽子の姫猫さまは、妖精猫の楽団を呼び集め、厳かな曲でお辞儀をひとつ。
「お父様、皆々様、こんな形ではございますれど、お祝いくださりありがとうございます!」
悪びれないプリムローズに、王家の人々もフォレストも呆れ返って言葉を失う。ひと暴れして気が済んだのだろうか。プリムローズは晴れ晴れとした表情を猫面に浮かべる。
「ねえ、お腹空いちゃったわね!」
姫猫の言葉で伝令が走り、配膳人の行列が会場までやってくる。ご馳走が載った銀の大皿を頭上に高く掲げ、一糸乱れず入ってきた。桜草の棚の前に置かれた台に大皿が並べられ、取り分け係が位置につく。
次に来たのは、小ぶりの器に乗せた料理や小さな匙が添えられた柔らかな料理だ。これらはみな一口サイズである。丸盆を捧げた給仕達が、するすると会場を泳ぐ。
人々は手近な円テーブルに寄り、通りかかる配膳人を呼び止める。飲み物や食べ物がふんだんに揃えられ、みな先程までの騒ぎを忘れた。
料理はもちろん、プリムローズと仲良しの、エイプリルヒル王城で厨房を守る料理長が用意した。この日のために新しい火の魔法まで練習して、広い会場を歩き回って配る間も温かなまま保たれた。
まだ猫の姿を解かずにいるプリムローズに、フォレストが寄っていく。
「いい加減にしろよ?料理も無駄になるとこだったろ?」
「それはそうだけど」
「自由たって、限度があるぜ」
フォレストは猫のまま姫を抱き寄せて、ふかふかの手を取った。そのまま渦巻く猫毛にキスをして、顎の下をちょちょいとくすぐる。軽く喉を鳴らしたプリムローズは、とうとう諦めて人間に戻る。
「お父様、皆さま!お騒がせしてごめんなさい。お祝いくださり、もう一度、ありがとう!」
王様はようやく立ち上がり、会場はわっと沸き立った。
「さあ、心ゆくまでお御馳走を召し上がれ!」
会場の拍手と共に、ようやく会食が始まった。
「じゃあ、俺はこれで」
招かれざる客であったフォレストは、さっさと退出しようとする。
「待ってよ!」
プリムローズはマントをつかむ。
「ねえ、お父様、いいでしょう?婚約者のお披露目会も一緒にしても?」
会場には、どさくさに紛れて居残っている桜草愛好家倶楽部の面々もいる。騒ぎを収めることに尽力したフォレストが帰されるのは、おかしなことだ。
「ううむ、魔法便利屋には世話になったしのう」
王様は身繕いをしながら渋々受け入れる。
「しかし、それ以外の者どもは、一旦会場を出て招待状を確認しよう」
「あ、それなら」
フォレストは、さっと何事か呟いた。たちまち会場の人々は、招待客とそれ以外に分けられる。紛れ込んだ人々は、多少の摘み食いをちょろまかした後、それぞれのいるべき場所へと飛ばされてしまった。




