4、プリムローズ、人に戻る
プリムローズは、もっと外を見ようと首を伸ばす。
(テーブルに乗るのはお行儀が悪いし)
本物の猫なら遠慮なく乗っただろうが。
(殿方のベッドに乗るわけにもいかないわ)
本物の仔猫だったならば、迷いなく乗ってシーツに潜ったに違いない。だが、プリムローズはお城の末姫様なので、お行儀よく諦める。
(魔法の本が読めたらいいのに)
椅子の上で身体の向きを変えて棚を眺める。魔法使いの部屋だから、人間に戻る方法の手がかりがあるかもしれない。
(いろんなものがあるけど)
棚の上には、青っぽい金属の球、真鍮でできた天秤、分厚いノートとインク壺、金色の羽ペン、銀色の洋梨が成った紫色の石の木、緑色の糸でぐるぐる巻いた鎖。その他、何に使うのかわからない物が沢山ある。その間には、革表紙の立派な本が何冊か。
(触らないほうが良さそうね)
なにしろ魔法使いの持ち物である。何が起こるかわからない。素人は触らないほうが身のためである。
しばらくすると、また虹色の渦巻きが見えた。今度は逆回転である。渦からフォレストが血相を変えて飛び出して来た。
「お姫様が消えたって?」
フォレストは、質素な椅子の上にちょこんと座る仔猫を見据える。プリムローズは震え上がった。
「チッ」
(怒ってる訳じゃなさそうだけど)
銀髪の大男が口をへの字に曲げている。
「探して欲しいと頼まれた」
フォレストは、たいへん疑わしそうに目の前の仔猫を見下ろした。
(騙してないのに)
プリムローズ姫は少々不満である。伝えようとはしたのだ。全く通じなかっただけで。
(凄い魔法使いなのに、気づかないほうが悪いわよ)
しばし見つめ合った後、フォレストは小さく溜息をつく。そして、姫の部屋で起きたことを話し始めた。
「とにかく、消えたって言うお姫様の部屋を調べに行ったんだけどな」
フォレストはマントも脱がないままで、ドカドカとベッドに向かう。
「丸一日経っちまってるからさ」
フォレストは、バサリとマントを払ってベッドに腰を下ろした。
「魔法の気配は殆ど消えちまってた」
フォレストの眉間に縦皺が刻まれる。
「もっと早く知らせて来ればいいのによ」
(わたくしも同じ意見ですわ)
「チッ」
フォレストがまた、舌打ちをする。
「たぶん遠くから、部屋の窓を通って投げ込まれた魔法だ」
(魔法がどこから来たのか分かるのね!)
フォレストはそこでしばらく口をつぐんだ。
(何?)
銀色の太眉をくっつきそうなほど寄せて、菫色の瞳がプリムローズをひたと見る。
「魔法の残滓の中に見えた猫とそっくりなんだけど」
(そうよ!わたくしよ!)
「みゅうぅぅ」
「お前からは魔法の気配が全く感じられねぇんだよな」
(でもわたくしなのよ)
眉も眼も吊り上げて、フォレストの顔が益々恐ろしげになる。
「言葉がわかってるよな?」
(その通りよ)
「そうだなあ、これからいくつか訊くからよ、ハイは右手、イイエは左手を上げてくれ」
フォレストは立ち上がって棚から幾つかの物を取り出す。最初に箱から出したパンを見せ、
「これはパンだな?」
と訊いてきた。プリムローズは右の前脚を上げる。
(ハイ)
次にフォレストはハムの塊を見せる。
「これはチーズ」
(イイエ)
「これはハム」
(ハイ)
フォレストは頷くと、続けて部屋の中にある物を姫に示してゆく。
「これは笛」
(イイエ)
「これは本」
(ハイ)
「これは椅子」
(ハイ)
「これはコップ」
(イイエ)
「これはテーブル」
(ハイ)
「よし、解ってるな」
フォレストは確信して、眉毛の位置を戻す。
「姫君の名前はプリムローズ」
(ハイ)
「姫君は猫になった」
(ハイ)
フォレストは、ひとつ深呼吸をする。息を吐き切った唇がぎゅっと結ばれる。菫色の瞳に真剣な明かりが灯り、プリムローズは見惚れてしまう。
フォレストは、おもむろに片膝をつき頭を下げる。
「未熟者ゆえ、気が付かず、御無礼を申し上げました」
(そんなに謝らないで)
フォレストは、プリムローズの頭の上に手をかざす。大きな手に遮られて、フォレストの顔が姫からは見えない。銀髪の魔法使いは、そのまましばらくじっと動かない。そうしている間中、ふわふわと暖かなものがプリムローズ姫の身体を包み込む。
「僭越ながら魔法を解かせてくださいませ」
(魔法を調べていたのね)
「恐れながら、額に触れまする御無礼を、お許しいただきたく存じます」
(お願い致します)
プリムローズの額に、フォレストの長い指がしなやかに伸びてくる。プリムローズは思わずギュウッと目を瞑る。マーマレード色をした巻き毛の上から、優しくそっと指先が触れた。
途端にプリムローズは、身体が解ける感じがした。何か内側に凝り固まっていたものが、するするとほぐれてゆくような。目の前には虹色と金の光りが粉のように舞っている。
「戻れたのね」
プリムローズ姫は、フリルとレースがたくさんついた薔薇色の寝巻き姿でフォレストの前に立つ。銀髪の青年はギョッとして、急いでマントを脱ぐと姫に着せ掛けた。
「お許しください。俺、本当に考えなしで。就寝中に魔法を掛けられたのですね」
姫は金の巻き毛に埋まりそうなほど小さな顔を桃色に染め、嬉しそうにフォレストを見る。姫の緑の瞳に出会い、フォレストの目尻が優しく下がる。下がると言っても少し皺が寄る程度だ。
しかし、プリムローズ姫にとっては大きな違いに見えた。見慣れたというのもあるが、何よりついつい良く見てしまうからだ。フォレストが作る僅かな動きも見逃さない。
それが例え椅子の曲がりを正す程度の、何気ない仕草でも。時計の秒針が1秒分動いたくらいの差異だったとしても。彼女の熱心な観察からは逃れることが不可能だった。
「フォレストさん」
「はい」
「あなたは命の恩人です」
プリムローズは真剣に語りかける。
「昨日あのまま雨に打たれていたら、わたくしは死んでいたに違いありません」
マントを脱ぐ時に立ち上がったので、フォレストの顔はうんと上の方にある。小柄な姫は細い顎を思い切り上げている。上質な絹物を思わせる薄桃色の健康的な喉が、フォレストに借りた大きな藍色のマントから覗いている。
「本当にありがとうございました」
「いや、そんな」
フォレストは気まずそうに目を逸らす。こちらは、小柄な姫と話をする為に背中を丸めている。少し痛んだ銀の髪が、ふっくらした頬を不規則に掠める。しっかりと筋の浮かぶ喉元には、大男らしくはっきりとした喉仏があった。
「それに、魔法まで解いてくだすって」
「それは仕事ですし」
フォレストは照れて少し鼻梁に朱が差した。
(まあ、可愛らしい)
プリムローズ姫の頬が緩む。
「どうかお楽になさって?」
「しかし」
フォレストは畏まる。相手は一国の姫君だ。
「恩人様にそんな丁寧な言葉を遣わせることなど出来ません」
「たまたまなんですし」
プリムローズはずいっと一歩前に出る。
「それに、新年のお祝いにいらっしゃる大魔法使いのお爺さんは、砕けた言葉を遣うわよ?」
フォレストはたじたじである。一歩下がる。
「水晶宮の爺ちゃんか」
「そうよ」
2人はキッと見つめ合う。フォレストが折れた。
「まあ、それならいっか」
「ええ、よろしくてよ」
「それじゃ、城に帰るぞ」
フォレストが魔法を使うそぶりを見せる。プリムローズは急いで遮る。
「誰が何のためにこんな魔法をかけたのかわかるまでは、恐ろしくて帰れませんわ」
「だけど、皆心配してる」
「また猫にされるかも」
「確かに一度で済むとは限らねぇけど」
プリムローズは、フォレストに借りた大きなマントの首元を握りしめて、必死に訴える。
「わたくしも最初は、お城に帰ろうなんて思っておりましたけど、浅はかでした」
「いや、帰りたいのは当たり前だろう」
「わたくし、わざわざご禁制の猫にされたんです」
「まあ、相当な悪意があるんだろうな」
「でしょう?何も解らないままお城に戻ったら、今度こそ殺されてしまうかもしれなくってよ?」
フォレストは顔を顰める。熟考しているらしく、不機嫌なわけではなさそうだ。
「もう一度猫にされても、お城では酷い目に遭うでしょうし」
「まさか。姫様とわかったからには、丁重に保護されるのではありませんか?」
「いいえ、ご存じの通り猫はご法度ですのよ。城の面々には、見慣れない生き物です。わたくしも、野良猫も、誰も見分けなどつかないでしょう」
フォレストは、その可能性を見落としていた。確かに、城には猫が入れない。万が一入り込んでしまったら、昨日のような騒動となる。そんなお城のことだから、猫の個体認識なんて誰も出来ない。下手をすれば、毛並みの区別もつきはしないだろう。
「それもそうだな」
菫色の瞳に見つめられ、プリムローズは落ち着かない。心なしかフォレストの眼差しは、感心したような光を帯びていた。
「姫様、賢いな」
「えっ。そんな、賢いだなんて」
頬を染めて喜ぶプリムローズ姫に、魔法使いは釘付けになる。ぼうっと見つめる大男に気付き、姫は首まで真っ赤になった。
「あのっ、お褒めの言葉が嬉しいのです」
姫は無意味に言い訳を始める。
「わたくし、賢いだなんてお言葉を頂戴したことがなくてですね」
フォレストの口がむずむずと波打つ。
(フォレストさん笑っているわ。この顔も好き)
プリムローズ姫もフォレストの表情に釘付けだ。恥ずかしくて目を逸らしているくせに、ちらりちらりと盗み見る。その様子が可笑しくて、可愛くて、フォレストは目が離せない。彼の頬もほんのり上気している。
「あの」
プリムローズ姫がとうとう言葉に詰まる。フォレストは、聞くに徹して言葉を出さず。2人は向かい合って顔を赤くしている。
「何か心当たりは?」
気を取り直して、フォレストは調査を再開する。
「ないわ」
プリムローズ姫は、皆に可愛がられてのびのびと暮らしていたのだ。酷い目に遭わされる覚えはなかった。
「王宮勤めの魔法使いからは、感じたことのない気配だったんだよなあ」
かろうじて残っていた魔法の気配を懸命に思い出す。フォレストは記憶を辿って、この国中の魔法使いの気配と比べようとした。
お読みいただきありがとうございました
続きます