35、幼いフォレスト
3人は待機小屋のドアから万魔法相談所へと戻る。青白い光が急に消えて、プリムローズは目をしばたたく。
「リム、一休みしてくか?」
「ええ、ありがとう」
フォレストは言いながら風の椅子を用意する。プリムローズは月の国やフォレストの師匠に関する話を聞きたくて、夕陽の残るカウンターに腰を下ろす。
フォレストは椅子の後ろからプリムローズの髪を撫でている。プリムローズは嬉しそうに頬を染めて目を伏せる。ティムの頭の上では、銀青に光る苔がボールになって浮かんでいた。
「その苔にはまだ月の光が残っているのね」
月の光が仄白く流れる岩原から離れて、プリムローズたちは既に青さを失っていた。3人の瞳からも、怪しい輝きは去った。ティムの頭上にある苔玉だけが、魔法の月光を纏って光る。
「うん、この苔はずっと光ってるよ」
「この光に不思議な生き物は寄って来るかしら?」
「近くにいればね」
魔法の月光は、苔に宿る程度だと奇妙な生物を呼び寄せるには弱い。もしも近くでそうした生き物たちが姿を消して潜んでいたならば、姿を表して寄って来ることもあるが。
「この辺にはいないのね」
「そうみたいだねぇ」
「残念だわ」
「プリムちゃん、魔法生物気に入ったの?」
ティムは嬉しそうだ。
「ああいう生き物ってさぁ、気味悪がって逃げちゃう人も多いんだよー」
「そうなの?可愛いじゃない」
「だよねぇ。プリムちゃん、わかってるなぁ」
ティムはくりくりとした空色の瞳を輝かせる。ティムの目にはもう、人を不安にさせるような魔法の光はない。プリムローズも安心してにっこりと笑う。
「月の国には、ああいう生き物がたくさんいるんでしょう?」
「うん、いっぱいいるよ」
「危険なやつも多いだろ」
フォレストは面白くなさそうにティムを睨む。
「毒とか麻痺とか、直接じゃないけど虚無への崩落とか」
「岩原では防護の魔法で危険なことは防げたわ」
「あそこに月が出るのは晴れた夜だけだからな」
魔法の月光は、浴びれば浴びるほど不思議な力を強めるという。その光に満ちた場所では、不思議な生き物たちも元気になるのだ。月の影響が強くなると、それだけ多くの魔法生物が月光を求めてやってくる。月光を浴びて勢いを増し、近くにあるものに悪影響を及ぼすこともままあるとか。
「月の国ではずっと夜って本当なの?」
「他の国の考え方だと、そうなるね」
「どういうこと?」
月の国では、沈まない魔法の月が常に空を旅している。
「夜の始まりと終わりが繋がっているのさ」
魔法の月は、普通の月と違うようだ。やはり、月の国はこの世の国とは言い難い。
「でも、僕たちだって一日中起きてるわけじゃないし、みんなが寝る時間を夜って呼んでるんだよー」
「夜が来たってことは、どうやってわかるの?自然に眠くなる?」
「月哭草の花びら時計が1日の終わりを告げるんだぁ」
「そういう植物があんだよ」
フォレストの乱暴な説明に、プリムローズは口を尖らせた。
(可愛いな)
銀髪が姫の頬を擦り、尖らせた小さな唇には気持ちのこもった口付けが贈られた。ティムは苦笑いで2人を眺める。
「月の国は自由に出入りできるの?」
プリムローズは、怪魚の丘で訪れた鏡の迷宮を思い出す。ティムはちょっと悲しそうな顔を見せる。
「やだなあ、呪われた地とかじゃないんだよぅ?」
「普通に出入り出来るぞ」
月の国がある区域は、他国とちゃんと繋がっている。三方は森、残るひとつの方角に海が開けているらしい。森の中の辺境国ではあるので、人も物も交流が僅かだ。だが、孤絶してはいなかった。
フォレストは子供の頃、森で遊んでいたらいつのまにか国境を超えてしまったという。
フォレストは、同年代よりも小柄な子供だった。肉付きは普通で、運動神経も悪くはない。だが、村では大柄な子供がほとんどだったので、小さいというだけで馬鹿にされてしまう。
「お前ダメ」
「チビには無理だよ」
「ついてきちゃダメだからねー」
子供たちが森へゆく。フォレストは置いてけぼりである。艶のない銀色の髪に乾いた風が吹き抜ける。フォレストは口をへの字に結ぶ。滲んだ涙を拳で拭い、遠ざかる子供たちの背中を睨む。
(後でひとりで行く!あいつらの知らない凄えもの見つけるんだ!)
「チッ、みてろよ!」
小さな拳は力強く握られて、銀の眉はギュッと寄せられる。夏の陽射しは強く、風景が白っぽく見えていた。白く切り取られたかのようなフォレストの髪も、村の道を軽やかに進む。
森の川は子供たちにとって絶好の遊び場だ。好きに水を跳ねさせ、魚を取り、木の枝や小石を投げ込む。まして夏には冷たくて気持ちの良い天国のような場所となる。だが、フォレストが向かうのはそこではない。
(みんなが行かないとこを探すんだ)
フォレストは川とは別の方向へと木々の間を抜けてゆく。小さな菫色の瞳には、強い意志が宿っていた。
森の奥は次第に暗くなってきた。梢は高く、枝もみっしりと絡み合って進みにくい。それでもフォレストは更に向こうへと分け入ってゆく。
フォレストの手足に傷はなかった。首から上にも擦り傷ひとつない。真っ直ぐな銀の髪は、サラサラと微風に靡く。幼いフォレストが通るとき、木陰の花が風にそよぐ。
無意識に風の魔法を使っているのだ。おそらく赤ん坊の頃には擦り傷を負っただろう。熱いものを触ったかもしれない。そして、それをきっかけに風の魔法を覚えたのだ。
それはプリムローズと同じだった。しかしフォレスト自身はそのことを知らない。この暫く後で、フォレストが魔法の才能を見出された時には話題になった筈だ。だが、フォレスト少年はまだ幼く、よく分かっていなかった。記憶に残らなかったのだ。
とにかくまだ魔法を知らないフォレスト少年は、太い木の根を超えてゆく。分厚く積もる枯れ葉を分けて浮き上がった根は、海原を悠然と泳ぐ海竜のようだ。きのこと苔が生える幹は、暗がりの中で滑らかに息づいている。
そんな闇の中でも、丈の低い花が所々に咲いている。太陽が届かないせいで、空気は湿ってどんよりと重い。枯れ葉もじとじと濡れている。
大岩の脇をとことこ進めば、そこはもう月の国だった。
「あれっ?」
突然溢れた銀青の光に飲まれ、フォレスト少年は立ち竦む。森は確かに続いていて、植生に変化は見られない。
「なんだろ」
上を見上げても、分厚い枝葉に空が隠れているだけ。
「でも、この光は上から来てる」
零れ落ちる月の光は、フォレストの銀を青く染める。
「君だれー?」
上から声が降って来る。元気な男の子のようだ。フォレストはビクッと肩を震わせた。
「森の国からきたのー?」
森の国は、月の国に隣接する小国のひとつだ。
「違う」
フォレストは不機嫌そうに否定する。言いながら、思い切り背中を反らせて頭上を探る。
「こっち、こっちー」
よく響く明るい声が、のんびりと降って来る。声を頼りに見上げれば、空色の瞳が銀青の波を映して怪しげに浮かんでいた。
「ぐっ」
フォレストは小さな足を踏み締めた。魔法の月光を浴びたフォレスト少年は、妖精の戦士にも似て雄々しく立つ。
菫色の目を凝らしてよく見れば、空色の目玉の周りには茶色いまつ毛や白い鼻があった。風よけマントをすっぽりまとい風景と同化しているが、ひとつだけ目立つところが見える。
空色の目をした少年の頭上、闇の中には大きく曲がった鎌の刃がある。刃を丁寧に辿れば長い柄が傾いて、交差した枝の一つに届く。柄は華奢な子供の肩に担がれていた。子供はフードをかぶっている。
「俺を殺すのか?」
フォレストは叫ぶ。眉間に深く皺が刻まれる。緊張で漏れ出した魔法の風が、フォレストの服や髪を持ち上げる。
身構えるフォレスト少年の目の前に、ふわりと子供が降りてきた。降りた弾みでフードが脱げて、柔らかな茶色の髪が月光を受け止める。
「怖いよ、何言い出すの、きみ」
フォレストと同じ年頃だろうか。子供は恐ろしげな月光の中で、げらげらと笑い転げた。肩に担いだ、身の丈に余る大鎌がグラグラと動く。
「んっ、それ、へんな鎌だな?」
フォレストは鎌に鋭い視線を投げる。周囲の枝や幹に大きな刃が当たっても、ちっとも切れない。
「えっ、知らないの?」
「知らない」
フォレストは仏頂面で応える。
「これで、棘月蛇を狩るんだよぉ」
「スパイクミズチ?」
「それも知らないかぁ」
「知らない」
大鎌を担いだ子供は首を傾けて考え込む。
「うーんとねぇ、大きくて、黄色くて、長くて、あと美味しい」
「旨いのか」
「うん。僕はお刺身が好きだなぁ」
「オサシミ?スパイクミズチの種類か?」
「えっ、違うよっ、お刺身はお刺身だよ。生で食べるの」
フォレストは飲み込めずに益々顔を顰める。空色の瞳をした少年はまたげらげらと笑い出す。
「はははっ怖いなーあ」
目元に笑いの涙を浮かべて、少年は声まで小刻みに震わせる。
「そんなに笑うことねぇだろ」
「ねえねえ、きみ、やっぱり外の人だよねぇ」
「外?」
「月の国に住む者じゃないでしょ?」
「月の国ってなんだ」
「月の国はここだよ?きみは何処から来たのさぁ?」
「ベルフルーム村」
「ベルフルーム村?どんなとこ?」
「どんなって、えっと」
フォレスト少年は眉間の皺を深める。
「まあいいや、今度連れてってよ」
「え?ああ」
「それよりさ、ちょっとまってて」
「ん?」
「スパイクミズチ獲れたら、ご馳走してやるよ!」
「ほんとか?」
フォレスト少年の菫色をした瞳に好奇心が色づく。
「旨いんだぁ、お刺身にすると!」
(あ、食べ方か。オサシミ)
フォレストはやっと少し理解した。
(生って言ってたよな?野草かな)
だが、やはり完全には解っていなかった。
「じゃ、後でね!」
茶色い髪の少年は、音もなく木の上へと去る。月光が波打つ闇の中で途切れ途切れに閃く白刃は、少年の大鎌に違いない。普通の植物を傷つけることのない刃物だ。
(スパイクミズチってやつだけを切れるんだろうな)
フォレスト少年は胸を躍らせた。握りしめていた小さな拳は、いつのまにやら緩む。見上げても見えない月が降らせる銀青の光に身を晒し、フォレストは茶色い髪の少年が戻るのを待つ。




