2、銀髪の魔法使いフォレスト
この部屋は仔猫にとっては広いけれども、お城とは比べようもなく狭い。窓際にベッド、中央に机ひとつと椅子が1脚、そして壁際に棚がひとつと魔法ストーブがあるだけだった。魔法ストーブは、魔法の力で部屋を暖めたり調理したりする道具だ。プリムローズ姫は城内探検をよくするのだが、お城の調理場で見たことがある。
(ストーブも小さくて古いわね)
魔法ストーブの上には、鍋がひとつ。机の上に木のボウルひとつとスプーンが一本。棚の上には革表紙の本が数冊と、瓶や箱が乱雑に乗っている。
(本が)
革表紙の本は超貴重品である。一般の布装本や紙表紙の本は、高価ではあるものの、裕福な商人ならば市民階級でも手にすることができる。しかし革表紙本は、魔法使いしか持てない。
(革の表紙)
これは決まりではなく、革表紙が魔法書籍の印だからである。どれも魔法で鍵が掛けてあるのだ。魔法使いでなければ、開くことも持ち上げることも出来ない。どの本にも特別な知識や情報が書いてあるのだという。
(本物の魔法使いなんだわ)
先程布を持って出て来た奥の部屋には、浴室があるのだろうか。それとも物置部屋なのか。プリムローズ姫が奥を眺めているうちに、男は仔猫の毛を拭き終わる。そして、さっと手をかざして何事かつぶやいた。
(魔法だわ)
温風が優しく辺りを巡り、毛に残った雨水を全て取り除く。床の水も乾いた。魔法使いは、すっかり泥と水を含んだ布も軽く乾燥させて、丸めて奥へと持って行った。
(どういうつもりなのかしら)
男は着替えて戻って来ると、棚の箱から白い壺を取り出し木のボウルにミルクを注ぐ。たったひとつしかないボウルに注いだミルクは、プリムローズの前に置かれた。男はミルクに手をかざすと、少し温めてくれた。
変な匂いはしていない。プリムローズ姫は怪訝そうに男を見上げる。男はしゃがむと大きな背中を丸め、すっかり乾いてふわふわになった仔猫に話しかける。
「ほら」
銀髪の男は迷惑そうに高い鼻に皺を寄せながら、顎をクイっとしゃくる。飲めという仕草である。
(案外優しい人なのかしら)
プリムローズは恐る恐るミルクに口をつける。猫の身体で何かを口にするのは初めてだ。最初は鼻に入ってむせる。顔の下半分と髭を真っ白にしてくしゃみをしていると、男はむずむずと唇を波打たせた。
(笑ってるのかしら?)
白いくしゃみを飛ばしながら、プリムローズは男を見る。男は微かに手を振ると、虚空から柔らかな布を取り出した。仔猫を摘んで乱暴に顔を拭き、床も拭く。
「俺はフォレスト、よろしくな」
ぶっきらぼうに名乗る男を、プリムローズはじっと見る。
(この人魔法使いよね?)
行動からも、持ち物からも、明らかだ。
(もしかしてわたくしのこと、分かってらっしゃる?)
プリムローズは期待を込めて、フォレストの菫色に光る瞳を見つめた。
(ねえ、フォレストさん、人間に戻してくださいましな)
もしかしたら、思ったことが通じるかもしれない。
「飲まないのか?」
通じなかった。
(通じないわねえ)
プリムローズはガッカリして、ミルクのボウルに向き直る。
(そういえば、食器はひとつだけね)
姫がミルクを飲み終わらないと、フォレストが食事を摂れないのではないか。そう気がつくと、くしゃみをしながらも急いでミルクを飲み干した。
「殆ど飲めてねぇな」
フォレストは呆れながら、また鼻先を拭いてくれる。
「お前、すげぇ不器用だな」
(失礼ね。慣れてないだけよ)
「そう睨むなよ」
フォレストは困ったように眉を下げると、ミルク壺とは別の箱からパンを出す。ボウルの底に残った僅かなミルクに小さく千切ったパンを浸すと、プリムローズの口元に差し出す。
「ほら」
眉間の皺は刻まれたままだが、辛抱強く湿ったパンを持っている。プリムローズはフォレストの指を噛まないように、そっとパンを齧る。口の中にミルクの味が広がった。
(ありがとう)
プリムローズ姫がなんとか食べ終わると、フォレストは魔法で食器を洗った。自分が食べる様子はなく、また奥の部屋に行ってしまう。
(もしかして、あのパンとミルクで食べ物は最後だったんじゃないかしら)
姫は申し訳なくて不安になるが、フォレストは平然と畳んだ布を手に戻って来る。そのまま無言で布をベッドの下に置く。そして、プリムローズがちょこんと座っている様子をしばらく眺めていたが、しまいには口を開いた。
「ほら」
プリムローズの緑色をした猫目としっかり視線を合わせて呼びかける。
「名前ないと不便だな」
(プリムローズ姫よ)
「猫でいいか」
姫の思いは伝わらない。
(わたくしが人間だってことに気がついてないのね)
プリムローズは不満そうに口を窄める。
「なんだ、布が気に入らないか」
フォレストはまたぶっきらぼうに問いかける。
「我慢しろ。ほかに寝床になりそうなものはねぇ」
フォレストは、またしゃがんでじっと見てくる。
(でも、起きたら人間に戻っているかもしれないわよ?)
その場合には、起きあがろうとしてベッドの底板に頭をぶつけること請け合いだ。プリムローズ姫は辺りを見回す。クッションやソファは見当たらない。
(殿方のベッドに上がるわけにもいかないし)
そこで姫君は、はたと気がつく。
(護衛の方でさえ室内にいたことがないわ)
窓の外はまだ大雨だ。それに、すっかり暗くなっている。
(どうしましょう)
プリムローズは困ってしまう。
「家が恋しいのか」
フォレストは野太い声で話しかける。
「晴れたら帰んな」
そう言って立ち上がると、魔法ストーブの方へ行く。フォレストが何か呟きながら指でくるりと小さな輪を描き、魔法ストーブに火が入る。
(あんまり魔法は見たことないけど)
プリムローズ姫は、お城の魔法灯係や料理長を思い出す。もっと長い呪文のような言葉を唱えて、曲がりくねった魔法の杖を振っていた。
(フォレストさんは、凄い魔法使いなんじゃあないかしら)
見学しているうちにスープが温まったらしく、フォレストは机に向かって食事を始めた。時々ちらりとプリムローズ姫に目をやるが、黙々と食べる。
食卓を片付け、奥の部屋にまた少しだけ入り、フォレストは魔法灯を消す。
「早く寝ろよ、猫」
(猫って夜行性らしいわよ)
「いや、猫は昼間寝るのか」
(あら、知ってたのね)
「じゃあ、俺は寝るから」
フォレストはさっさと寝てしまった。
(悪い奴が猫に化けているのだったらどうするのよ?)
暗い部屋の中で、プリムローズ姫はいらぬ心配を始める。
(不用心な人なのでは?)
フォレストの平和な寝顔を見ていると、守ってあげたくなって来る。
(凄い魔法使いみたいだけど)
青く塗られた木の鎧戸を雨が激しく打っている。
(ちょっと油断しすぎよ)
フォレストは、万魔法相談所などと言うご大層な看板を掲げている男だ。自分の魔法を過信しているのかもしれない。
(全くいい気なものね)
プリムローズ姫は自分の現状を棚に上げて、心の中でフォレストに意見する。
(人間に戻ったら、もう少し用心するように言わなくちゃ)
起きていた時とは打って変わって間が抜けたような、フォレストの寝顔。それを見ているうちに、プリムローズもなんだか気が緩んできた。朝から続いた緊張が、知らず知らずのうちにほぐれてゆく。
マーマレード色の巻き毛の仔猫は、ゆらゆらと船を漕ぎ出した。フォレストの規則正しい寝息を子守唄にして、やがて床に丸まって眠りに落ちてしまった。
次の朝、プリムローズが目を覚ました時には、雨はすっかり上がっていた。青い鎧戸の隙間から、朝陽が金色に差し込んでいる。知らない部屋に戸惑ったものの、プリムローズはすぐに昨日の悪夢を思い出す。
(猫のままだわ)
起きたら人間に戻れるかもしれないという、淡い期待は打ち砕かれた。
(どうにかしてお城に戻らないと)
フォレストはまだ寝ているようだ。ベッドの上を見れば、シーツから何か銀色の塊がはみ出している。始めは、昨日の嵐で枯草が飛んできたのだと思った。だが、鎧戸はきちんと閉まっている。魔物でも出たかと身構える。
銀色の塊がモゾモゾ動く。銀の間から人間の鼻らしきものが突き出した。
(もしかして?)
シーツの間から大きな人がのそのそ這い出し、銀のモサモサを撫で付ける。大きな口で欠伸をし、しばらくぼんやり座っている。それからゆっくりとベッドを降りて、奥の小部屋へと入った。
白いワンピースタイプの飾り気がない寝巻きに裸足。ベッドの脇に脱がれた濃紺のブーツは、片方が横倒しになっている。3ヶ所ほどベルトバックルで留めるタイプなので、余計にだらしなくベロンと広がって見えた。その隣には丸めた灰色の靴下が落ちている。
奥の小部屋から、洗顔をしているらしき音がする。昨日は雨音で聞こえなかったが、奥には洗面所があるらしい。
(枯草の魔物かと思ったけど、フォレストさんだわ)
しかし、フォレストは仔猫の姿をしたプリムローズ姫を一瞥だにしなかった。完全に存在を忘れられているのだろう。今は、他に頼れる人もない。戻ってきたら声をかけて思い出して貰おう、とプリムローズ姫は決めた。
程なく、簡単なチュニックとゆったりと膨らんだ七分丈のズボンに着替えたフォレストが戻ってきた。髪の毛は肩先程度の長さだが、今は軽く束ねている。片手には靴下と靴下留めを持って、引き締まった表情で歩いて来る。頭がスッキリしたようだ。
「みゅうぅぅ」
仔猫の声に驚いて、フォレストは立ち止まる。しばらくプリムローズ姫を凝視していたが、ふと口元を緩める。そして沈黙したまま、昨夜のようにミルク浸しパンを用意してくれた。
差し出されるパンに感謝して齧り付く。フォレストは黙って見ている。
(えっ)
プリムローズが食べながら見上げると、フォレストは菫色の瞳に柔らかな色を浮かべていた。眉は少しだけ下がり、唇は僅かに緩んでいる。
(何)
プリムローズは胸の高鳴りを感じた。
(ちょっと、どうしよう)
恥ずかしいような、でもずっと見ていたいような、不思議な気持ちがした。
(ひゃああ)
プリムローズは自分を誤魔化すように、急いでパンを飲み込む。
「腹減ってたんだな」
納得したように呟くと、フォレストは食器を洗って自分の朝食を準備した。
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続きます