18、怪魚の結ぶ魔法のえにし
王様はひとり、黒く磨き上げられた鏡石の床に立つ。大広間の真ん中に、石の花綱に囲まれた楕円の大鏡が置かれている。鏡の向こうには王城の広間が見える。魚を求めた商人が、魚のおまけにくれた鏡だ。珍しい花と魚の装飾をお披露目すべく、大広間の中央に据えたのだった。
誰かが鏡の前を過ぎるたび、囚われの王様は呼びかける。しかしその声は届かず、姿も見えていないようだった。王妃も子供も日に日にやつれ、時は静かに過ぎてゆく。家族も臣下も大人しい王様を忘れる日もないままに、いつしか世を去り眠りについた。
鏡の向こうに見える現世の景色は変わってゆく。壁が崩れ、草木に侵食され、鳥や獣がやってくる。ごく稀に自然が好きな旅行者が来るが、鏡を不思議そうに眺めて終わりだ。城のあちこちにあった魔法道具は、ほとんど壊れてしまった。ただひとつ、影を投げかけるだけの無害な道具が、壊れて魔法を垂れ流す。
鏡の城に閉じ込められた王様は、魚の名前を思い出せない。その名前こそが、見知らぬ国から来た奇妙な魚が作り出したこの迷宮を、開く鍵となるだろう。
「そして今、魚の名前を呼んだ王女が囚われて、偉大なる魔法使いの青年が鏡を開いて迷宮を訪れたと言う訳じゃな」
王様が昔話を語り終えた時、ふわりと金の巻き毛が廊下の端を渡って消えた。
(リム!)
フォレストが慌てて追いかけると、その背中に王様が忠告する。
「怪魚の鏡像に惑わされるなよ」
「ありがとうございます!」
振り向かず叫び、フォレストは金髪を追う。金髪が消えた先へと曲がると、中庭に面した回廊に出た。片側に扉が並ぶ外廊下で、見通しがとても良い。
(今こちらへ出たばかりなのに)
人の姿は既になく、透明な孔雀が光を反射しながら歩いていた。孔雀の閉じた羽から溢れる虹色の光の中に、幻のように現れては消える人影が見える。髪を高く結い上げた遠い昔の貴婦人、大きなリボンを頭のてっぺんに弾ませる貴族の少女、宝石のついた靴で走るヤンチャな王子様。
「チッ」
かつてこの城で暮らした人の幻だろうか?それとも全くの三文芝居なのだろうか。
(こいつが怪魚の鏡像ってやつか?)
先程の金髪も、幻かもしれない。
(リム)
王様の例を考えれば、孤独とはいえ危険は無さそうだ。死ぬこともなく、こちらの世界からうつろう現世を見守り続ける。
(でも)
フォレストが金髪の幻を追いかけたあと、王様はまた、あの広間に戻って鏡からぼんやりと廃墟を眺めているのだろう。王様は怪魚に囚われた後も、心はずっと家族と繋がっていた。けれど、王様とその家族は、二度と触れ合うことが出来なかった。
(もう国すら無くなってる)
フォレストは中庭を横切り、回廊の反対側へと向かう。中庭の幻影はきらきらと踊る。音のない笑い声が透明な草花を揺らす。淑やかなさざめきあいが砕け散り、幸せな夢が歪んで消える。
(リムはまだ15だ)
もうすぐ16歳。桜草の咲く春に、こんな孤独な迷宮に閉じ込められて、二度とは現世に戻れない。
(そんなこと、させねえ)
大人ぶって鷹揚に受け答えする愛らしい王女。軽やかに空を舞う、魔法使いの元気な弟子。突然猫にされてもへこたれない、前向きな少女。
中庭の噴水が噴き上がる。弧を描いて落ちてゆく水が光を纏い、フォレストの菫色の瞳を不明瞭に描き出す。水を受け止める水盤は、幻を撒き散らす透明な孔雀を逆さまに映し出す。
(リム!どこにいる)
濃紺のブーツが刻む足跡は、次第に幅を広くする。フォレストは噴水を通り過ぎ、中程の膨らんだ列柱に辿り着く。そのまま銀色刺繍のマントを翻して、反対側の回廊へと飛び込もうとする。
(いや、落ち着け)
フォレストは突然立ち止まった。風を孕んで持ち上がっていたマントが落ちる。虹色の光を受けた銀色の刺繍の中で、草木も小鳥も落ち着きを取り戻す。背景となる藍色の絹地が静かにフォレストに呼びかける。
(所詮は魔法だ)
フォレストの顔から焦りが消える。
(俺は魔法使いじゃねぇか)
そして、ここは魔法の宮殿だ。
(鏡だろうが、幻だろうが)
フォレストの口が、いつものようにへの字に曲がる。
「チッ、洒落臭ぇ」
フォレストは仁王立ちで魔法を探る。回廊の柱が嘲笑うように鏡へと変わる。一斉に回り出す柱が、しゃらしゃらと音を立て始めた。柱の間を縫って金の巻き毛がふわふわ跳ねまわる。
銀の太眉を不機嫌そうに寄せて観察していると、突然天井から少女が降ってくる。足を下にしてストンと落ちてくる。たっぷりとひだのあるレモン色の節織絹を押さえた白い手が、魔法の風を生み出している。
(無意識か?城壁渡りで擦り傷ひとつ負わないなんて、おかしいと思ったんだよな)
「レシィ!出口はこっちよ」
弾んだ声で招くプリムローズは、廊下に降りて走り出す。
「あ、走るな」
「ふふ、転びやしないわよ」
まわる柱が少女の姿を夢幻に増やす。声は縦横に反射して、どこから聞こえるのかもうわからない。
「チッ」
フォレストは平常心を取り戻す。
「お転婆め」
フォレストは唇をもぞもぞと波打たせ、大股で回廊を進む。廊下の扉も鏡となって、緑の瞳を無数に映す。いつの間にやら、プリムローズは異国の薄絹を纏っていた。きらきらと鏡の破片が縫い付けられたゆったりとした上着と、中程が膨らんで全体が透けたズボン。腰には広幅の薄絹を巻きつけ、結んだ端は風に任せて走ってゆく。
プリムローズの小さな足を薄紅色の繻子が覆う。軽快なステップを踏んで壁を駆け抜け、天井を楽しげに跳ね回る。
「こっちよ、レシィ」
「チッ、楽しんでんじゃねえよ」
プリムローズは鏡に映し出される幻に、わざと入り込んで遊んでいるのだ。
「何やってんだ」
フォレストは呆れを隠しもせずに不満を漏らす。プリムローズが駆け回るままに、銀刺繍のマントをバサバサ鳴らしながら、壁も天井も構わずついてゆく。
「ほら、帰るぞ」
「あら、もう少しいいじゃない」
「全く、閉じ込められてる自覚はあんのか」
「え?名前を呼べば怪魚が来て扉が開くわよ?」
「そうなのか?」
フォレストは途端に不機嫌となる。
「チッ、王様は単に忘れただけかよ」
「王様?」
「なんだ、広間には行ってねぇのか?」
「行ってないわ」
プリムローズは普通のドレスに戻って、鏡で出来たソファに腰を下ろす。流石に少し疲れたようだ。
「はぁ、仕方ねぇ、休んどけ」
隣にドカリと座り、フォレストはプリムローズをチラリと睨む。姫の鼓動が速くなる。
「なあに?」
「チッ、調査だって忘れてるだろ」
話をしようとして、フォレストは姫に顔を向けた。ソファは小さいものではないが、フォレストは大男である。隣に座っていたため、顔と顔とが近くなる。プリムローズは驚いて立ち上がる。また走り去ろうと傾いた肩先に、フォレストの長い指が触れて引き戻す。
「こらリム!」
(ええっ!リム?リムですって!ねえ、ねえ、ねえ!)
プリムローズは様が外れた愛称呼び捨てに、真っ赤になって立ちすくむ。フォレストの視線の先には、金の渦からはみ出した真っ赤な耳の縁がある。フォレストはおかしそうに目尻を下げた。
「捕まえた」
プリムローズは肩に触れる指先から、穏やかな春の風を感じた。
(ああ、幸せだわ)
今2人がどこにいて、一体何をしていたのか、プリムローズは忘れてしまった。辺り一面の鏡がどんなに道を曲げようと、2人は魔法で切り抜けられる。
(どこにいても、何をしていても)
プリムローズは理解した。身を捩ってフォレストのほうに向き直る。それからキッと眦をあげ、硬い声で宣言した。
「あなたがいれば」
フォレストの菫色の瞳を、緑の光が射抜く。
「魔法があれば」
緑の光は、フォレストの内も外も包んでしまう。
「わたくしは、それでいい」
捕まったのはフォレストである。
その時、甘い恋の囁きはなく、熱く溶ける眼差しも見せず。プリムローズはただ一直線にフォレストの魂に駆け込んだ。2人が出会ってまだ4日。初めは雨に濡れた死にかけの仔猫だ。まともに話してまだ3日。それでも、プリムローズには解ったのだ。
「お誕生日を待たなくていいわ」
「え?何の話だ」
「もうすぐ16歳のお誕生日パーティーがあるの」
「そうなんだってな」
「そこで、婚約者を選ぶはずだったの」
フォレストが頭を殴られたような顔をした。
「ちょっと!何を聞いてらしたのよ」
プリムローズは既にフォレストの気持ちを確信して、悪戯に笑う。
「チッ」
(可愛いっ!拗ねてる)
プリムローズは揶揄いたい衝動を無理矢理に抑え込み、恥ずかしそうにフォレストの手に触れた。指先をそっと。
「お父様に話すわ」
フォレストは目尻を下げた。
「お誕生日に婚約者は選ばない」
魔法使いの唇は綻び、頬は緩む。
「それで、もし」
プリムローズが言い淀む。
その後を引き継いだフォレストは、いつもの荒さを和らげていた。
「リム、俺はさ」
肩にかけた指に力がこもり、反対側の手に触れられた指先は優しく絡めとる。
(手を包んでくれた時よりたくさん触れてるわ!)
プリムローズは息が止まりそうだった。
(指の一本ずつが触れてる)
手で触れた時にはわからなかった、気遣うように寄り添う力強い指。少し骨の触るしなやかで長い指と、姫の柔らかな指が一本一本語り合う。
「リム」
フォレストが笑った。
(えっ)
満面の笑みで、銀髪の魔法使いが嬉しそうに囁く。部屋中の鏡から降る無数の光が銀の髪を虹色に彩る。微睡むような菫の瞳は朝露にもにた光を宿す。
「リム」
「レ、レシィ?」
プリムローズはうっとりと見上げる。胸を締め付ける切なさに耐えかねて、姫の十指はフォレストの指を頼ってしがみつく。
(まるで自分の名前じゃないみたい)
「リムが側にいてくれたら幸せだぜ」
2人の距離は近くなる。恥ずかしくて視線を外してしまう姫だったが、相貌を崩して顔を寄せる魔法使いには、却って嬉しいらしかった。フォレストの息がプリムローズの頬に触れる。
「そ、そうだ、王様って?」
慌てて離れたプリムローズは、頭を絞って先程気になったことを口にする。
「この城の王様だよ」
フォレストも瞬時に冷静になる。
「怪魚?」
「いや、違う」
「え、廃墟の王様?幽霊なの?」
「いや。大昔に怪魚の名前を呼んで囚われたんだと」
「名前?王様もお魚大好きなのねっ!」




