16、姫と魔法使いは怪魚の丘を訪れる
ティムと別れて相談所に帰ってくると、レシィはプリムローズに正面から向き合って言った。
「明日は迎えに行く」
「今日は早く来すぎてごめんなさい」
「いや、その、2人で怪魚の丘に行くぞ」
「2人で」
「2人だ」
(2人で)
プリムローズは反芻する。
(2人で)
プリムローズはにやにやし始める。だが、フォレストはなにやら不機嫌だ。いつものことではあるが、今回は本当に怒っているらしい。
「レシィ、どうしたの?」
「ティムのやつが馴れ馴れしくして悪かったな」
「え、いいのよ」
「いいのか?あいつ、いきなり勝手な愛称で呼んだろ」
「懐っこい人よね」
「チッ」
フォレストが形の良い目を釣り上げる。
「それに、近過ぎたろ」
「ティムはわたくしが姫だなんて知らないわ」
フォレストはショックを受ける。
「ティムだって?」
「え?ティムよね?あの方のお名前」
(なにを驚いてらっしゃるのかしら)
「そうだが」
フォレストはへの字口になる。
「とにかく明日は2人で行くぞ」
「はい師匠!」
「いや、レシィでいい」
フォレストはすこぶる不満である。
「いけない、お夕飯に遅れてしまうわ」
「随分早いんだな」
「お城ではディナードレスに着替えるのよ」
「王侯貴族は大変だな」
「楽しんでる人も多いけどね」
「ドレス着替えるのが楽しいのか?」
「そうね」
フォレストは理解し難いという様子で眉根を寄せる。あまりにもしょっちゅう皺を寄せるので、眉間の縦皺は深く刻みつけられている。
「送ろう」
「大丈夫よ。もう一人で飛べるわ」
プリムローズは咄嗟に遠慮してしまい、後悔した。
(ああっ、せっかくもう少し一緒にいられたのに)
「いやでも、途中でストーンに会ったりしたら」
「え?あら、そうねえ」
プリムローズは、ストーンのことはすっかり忘れていた。根本的な問題が解決していないので、ストーンはまた嫌がらせに来るだろう。猫嫌いと猫好き。王様と苔桃谷の魔女は、永遠に分かり合えない。
「もしまたなんか仕掛けてきやがったら、現行犯で連行してやるよ」
「ふふっ、猫にされても自分で戻れるわよ」
「そうだな」
フォレストの眉が僅かに下がる。
(え?もしかして、頼って欲しいの?やだ、可愛い。レシィ可愛い!)
プリムローズの可愛らしい口が、誰が見てもすぐわかるほどニヤつく。姫の表情を見逃すまいと注視していた銀髪の魔法使いは、その表情に心臓を撃ち抜かれた。
(ううう、ニヤニヤしてる)
フォレストの唇が静かに波打ち、銀の睫毛に守られた菫色の泉に愛情が滲む。二人はしばらく無意味にニヤニヤしあってから、ようやく別れの挨拶を交わした。
「それじゃあ明日ね」
「迎えに行く」
「待ってるわ」
プリムローズは仔猫の姿でシュッと窓から飛び出した。フォレストは、そのマーマレード色の背中が見えなくなるまで空を見つめて見送った。傾き始めた午後の陽が、眩しく視界に踊っている。空を行く仔猫姿の姫君は、金色に縁取られて神々しく進む。
(姫猫様は美しいな)
誇らしい気持ちになるが、ふと今朝からの不快を思い出す。
(ティムのやつ)
だが結局プリムローズがティムの態度をすんなりと受け入れていたと知り、もやもやが募る。マーマレード色の背中が水色の彼方に点となり、フォレストは苛立ちも露わに窓を離れる。
プリムローズが軽々と飛び越すベッドは、大男が楽に眠れる広さだ。これを飛び越すのだから、仔猫にしては大したものだ。床から椅子へ、椅子から窓へ。窓から外へ。
(猫の姿でも、姫の姿でも、しなやかで軽やかで見惚れる)
ベッドの上ではフォレストが今朝抜け出したままに、敷布も掛布もクシャクシャと寄っている。まるで胸の内を見せつけられているようで、フォレストは気に食わない。
(何がプリムちゃんだ)
「チッ!」
フォレストは乱暴に鍋をかき混ぜて、一昨日の残りのスープを温めるのだった。
翌朝早く、フォレストは急いで身支度を整える。プリムローズの朝は早いと昨日知った。迎えに行くからには、遅起きなどしていられない。
「ふあーあぁぁ」
フォレストは眠い目を擦りながら、立派な銀色の刺繍で埋め尽くされたマントを羽織る。
それからドアに手をかけて、向こう側の気配を探る。
(よし)
フォレストは徐にノックする。
「はあい、どうぞ」
ドアの向こうからプリムローズの声がした。フォレストが階段に続いているはずのドアを開くと、その先はプリムローズの部屋だった。
「ええっ、レシィ?」
姫は思わず想い人の愛称を口に出してしまう。はっとて口に手をやり、マルタに目を走らせる。髪梳きの道具を片付けていたマルタは、含み笑いで背中を向けた。
「万魔法相談所の仕事で出かけます」
フォレストは真面目にマルタへと声をかけた。
「助手になったって話したでしよ?」
プリムローズが慌てて付け足す。
「はい、伺いました」
マルタはすまし顔で頭を下げる。
「飛んでくけどいいか」
「多分」
「ドア借りられたら楽なんだが、廃墟にドアなんか残ってねぇだろうし。第一、怪魚の丘に何があるのか分かんねえからな」
「お父様や料理長もご存知なかったわ。てっぺんに廃墟がある、ただの丘ですって」
フォレストは意外そうな声を出す。
「王宮にも情報がないのか」
「あの丘は今、中立地区だけど、昔は廃墟に住んでた人の国だったんですって」
「ほう」
「詳しくはわからないけど、先代の料理長のご先祖がその国の人だったそうよ」
料理長は、特に印象的な逸話は聞いていないという。先代の料理長は故人である。残念ながら、書き残したものもなく、他にその国の子孫が居るかどうかも分からない。
「とにかく、行ってみるしかねえな」
「そうね」
「用心しろよ?」
「ええ」
2人はバルコニーに出ると、ふわりと宙に浮かぶ。マルタが驚きに目を見張る。
「姫様」
「凄いでしょう?マルタ」
「落ちないで下さいよ?」
「わたくし、城壁からだって落ちたことないのよ」
マルタは青褪める。
「城壁?」
「ええ」
「落ちたことないってなんです?」
「え?」
「落ちたことないってことは、落ちるような場所に乗ってたってことですよね?」
「落ちないわよ」
「なぜ城壁に」
「愉しいからよ!」
プリムローズは朗らかに言うと、フォレストの後について怪魚の丘へと飛び去った。取り残されたマルタは、呆気に取られて口を大きく開けていた。
怪魚の丘には木が生い茂り、崩れ落ちた城を覆い隠していた。
「ジルーシャさん、これを登ったの?」
上空から見下ろして、プリムローズが疑問を抱く。
「そもそもどうやって来たんだ」
「そこから魔法は始まっていたのかしらね」
「ひとまずここを調べたら、また城下町から調べ直しだな」
「そうね」
聞き取りからやり直しとなると、またティムにも会うだろう。そのことに思い至ると、フォレストは途端に嫌な顔をした。
(あいつは良いやつだけど、リムに対して図々しい)
フォレスト本人はと言えば、心の中ではプリムローズを愛称呼び捨てである。最も、これは姫自らの提案だった。実際に呼びかける時には様を外す勇気が出ないだけで。
(勝手にプリムちゃんなんて呼びやがって)
「チッ」
「難しそう?」
プリムローズは、解決の糸口が掴めないのかと思って、心配そうにフォレストを見る。フォレストは、姫の優しさに胸を打たれる。だが、生命力に溢れた緑の瞳に翳りが見えて、落ち着かない気持ちになった。なんとか安心させてやりたいと感じた。
「いや、大丈夫だ」
「調べるアテはあるの?」
「少しはな」
「そう?」
フォレストはキリッと顔を引き締めて、大きく頷く。プリムローズは見惚れた。
(なんて頼もしいのかしら)
マルタだったら怯えただろう。
「降りるぞ」
「ええ」
伸び放題の木の枝や下草の間に、僅かな壁や床が覗く。木の幹と見間違えそうな柱の残骸も見えた。降り立ってみれば、案外木の無い部分を歩き回れる。
「お屋敷って、これが?」
「変だよなぁ」
かつての床と思われる四角い石の連なりは、土に覆われ継ぎ目に草が生えている。所々を木の根が持ち上げている。だが丁寧に見てゆけば、なかなかに広い。
「あれが怪魚か?」
「そうね」
かつて人工の池だったのだろう。苔と草花が飾る古い石組が、未だ崩れ去らず円を作って残っていた。すっかり草と木の根に浸食された石造りの底面には、石の魚が横たわっていた。その大きさは大人の男程もあり、大きな口を開けている。目玉はぎょろりと剥いて生きているかのように見えた。
「なんだこれは」
「魔法、ではなさそう?」
不規則に並んだ四角い石のウロコは苔むしている。かつては怪魚が恐ろしく立ち上がっていたであろう台座は壊れて、無惨な姿で横倒しになっている。だが怪魚の全身は、どこも欠けたり割れたりはしていないのだ。2人が探っても魔法の気配はない。
「凄い歯ね」
「怪魚と言われるだけのことはあるな」
獣の如きギザギザな歯が、開いた口に生えている。フォレストの頭さえも余裕で丸呑み出来そうなくらい、大きく開いている。
「何処かで見たような」
怪魚とて魚である。プリムローズ姫は、魚が好きなのだ。それもかなり。怪魚について知っていてもおかしくはない。
「お魚大全?エイプリルヒル魚類図鑑?魚介の愉しみ?鱗大全集?それとも、ああ、多分あれだわ」
姫は不可思議にも完全な形で保存されている怪魚を見つめながらぶつぶつ呟く。フォレストは、姫が集中して思い出しやすいように、虫除けの魔法を遣う。
「そうよ。暗黒水棲様生物辞典!あれで見たはず。ええ、見たわ。そうそう」
姫は夢中で囁きながら怪魚に近づいてゆく。フォレストは忍耐強く見守っている。
(可愛いなあ)
訂正しよう。特に我慢はしていなかった。フォレストも夢中で眺めていたようだ。
(一生懸命思い出そうとして)
フォレストは、金の巻き毛が枝に絡まないための魔法もかける。
(可愛い、可愛い)
姫が何事か呟いた。
「あっ!」
フォレストは叫んで一息に姫の側へ。だが魔法の渦に阻まれる。
「チッ!」
プリムローズが最後に何かを唱えた瞬間に、怪魚の口は水を吐いた。そう見えるが、本当の水ではない。幻の水は飛沫を上げて面影の池を満たす。プリムローズは池に沈み、フォレストは古城の庭に独り佇む。




