12、プリムローズは魔法が楽しい
姫の変化を目の前で見た騎士は、血相を変えて叫ぶ。
「姫様!」
駆け寄る騎士を宥めるために、姫は再び集中する。
(言葉を話したり、心で呼びかけるのは無理みたい)
「また苔桃谷の魔女かっ!」
(やだ、ごめんなさい。違うのよ)
姫は多少の罪悪感を覚える。
(せっかく猫に成れたのになぁ)
姫は成り行きに気を落とす。
(こんなに騒がれたらまた追いかけ回されちゃうわ)
プリムローズは、騒ぎを大きくしないように焦る。フォレストが姫を仔猫から人間に戻してくれた時の感覚を一生懸命思い出す。
(兎に角一度人間に戻りましょう。集中、集中よ)
姫は今朝のことを思い出す。
(わぁーひぃぃ)
あの時は。マーマレード色の柔らかな仔猫の毛が渦巻く額に、フォレストの力強いが細やかな指がそっと触れた。見た目も動作も荒っぽいのに、指は長くて綺麗だった。よく手を使うのだろう。指の関節は老木に出来るコブのようだった。
(そうじゃなくてっ!いえ、そうなんですけども?)
その時、控えめに触れたフォレストの指先から、魔法が流れ込んだのだ。冬の木漏れ日のような、儚くも確かなひとつの流れ。静かに常盤木の葉を抜けて落ち葉の下を探るように。それが魔法なのだと、今なら分かる。
あの時にはただ不思議な安らぎに憩い、光の方へと掬い上げられたのだ。その力に手を引かれ、プリムローズの魔法も解けた。身のうちにある魔法がスルスルと引き抜かれていった。
(レシィの魔法。頼もしく、暖かく、澄んだ冬の陽射しを思わせる。星の川が流れる銀の髪。小川のほとりに菫の瞳。氷は溶けて草原を走り、雪解け水が春を呼ぶ)
記憶の中でフォレストの魔法に導かれ、プリムローズは自分の中に眠る魔法の泉へと降りてゆく。
(絡んだ糸も澱んだ淵も、銀の川へと駆けてゆく)
傷んで無造作に束ねられた銀の髪が、森の中で金の光を宿していた。遠い国のコイン飾りのように、複雑に光を反射して。
(ああ、大丈夫。貴方がいるから。居てくれるから)
プリムローズは魔法の波に揺られて手を伸ばす。
ふわり。
仔猫の額でマーマレード色をした巻き毛が持ち上がる。
(風が吹く。蔓苔桃の花が揺れている。菫はどこ?)
巻き毛の仔猫は目を閉じている。夕陽が赤く髭まで染める。騎士はおろおろと見守っているだけだ。この仔猫が姫だと知っているから、抱き上げて保護するわけにもいかず。
(ああ、菫。銀の川が見える緑鮮やかな岸辺に、金の光を纏って)
プリムローズは、昼前の森で、2人の視線が静かに寄り添ったことを思い出す。
(あの方と共に歩みたい)
仔猫の巻き毛はそよそよ揺れる。
(私の魔法は……)
仔猫の身体から眩い金の光が溢れる。金の光はうねりながら立ち上がり、やがてひとりの姫となった。
「お待たせ致しました」
「姫様、そんな、勿体ないお言葉」
姫がスカートを払って鷹揚に声をかけると、騎士は恐縮して縮こまる。プリムローズが今身につけているのは、夕食後に着替えた若草色のドレスだ。夕方庭園を散策する為の、しっかりした作りである。菫色で貝の刺繍を施した目の粗い透かし生地を同色で重ねた木目模様の絹が美しい。自然に広がるスカートは、少女時代の残照である。
「どうぞ、お静かに」
姫はたおやかな指を可憐な唇に乗せ、しーっという仕草をする。騎士は少々目の下あたりを赤らめて、無言で胸に手を当てる。
「内緒ですよ?」
姫は真剣にお願いすると、今度はいとも軽やかにマーマレード色の仔猫へと変化する。騎士はあっ、という顔をする。流石は王宮に務めるだけあって、姫の願い通り声は立てない。
仔猫姿のプリムローズは、いそいそと走り去ろうとする。
「危険です」
なるべく小声で騎士が制する。
「姫様!変化なされたのを見ていなかった人には、猫にしか見られません。討伐されると危険ですから、どうかそのまま散歩に行くのはおやめくださいませ」
騎士は冷や汗をかきながら懇願してくる。せっかく身軽な猫に成れたのに、すぐ元に戻るのはつまらない。プリムローズは、不満そうに目を細める。
(でも、一理あるわね)
騎士たちの槍や剣は恐ろしい。騒ぎになれば、また石やナイフも飛んでくるだろう。植木鉢のカケラや火かき棒も侮れない。猫の姿で過ごしていれば、城の中は危険でいっばいだ。
仕方がないので、姫は大人しく人間に戻る。
(明日、お城を抜け出しましょう)
外に繋がっている秘密の通路は幾つも知っている。人間のまま抜け出して、良さそうな場所で猫に変われば良いのだ。城内では猫の姿が、町では姫の姿が、それぞれに不用心である。今やプリムローズ姫は、いつでも自由に姿を変えることができる。見た目から来る危険を避けることも容易いだろう。
(魔法って便利)
プリムローズはご機嫌だ。
(もっといろんなことがしてみたいわ!)
鼻歌まじりで庭園を囲む回廊へと向かうと、柱の陰からマルタが飛び出してきた。かなり慌てている。
「姫様、またお一人でお出かけなさって!」
プリムローズ姫の探検は、お付きの侍女マルタを疲弊させていた。
「もうお休みのお支度をなさらないと」
「そうね、戻りましょうか」
姫はにこにこしながら自室に帰る。マルタはため息をついて後に従う。夕べの空に月は昇って、オレンジ色ですましていた。
(ハムみたい)
少し潰れた楕円の形が、今朝フォレストの食卓に上がったハムのように見えたのだ。プリムローズは、フォレストと向き合って食べる川辺の朝食を思い浮かべた。
(お昼の焼き魚も良かったけど、明けたばかりの朝にトーストとハムをピクニックテーブルでいただくのも素敵)
プリムローズは、お城の大きな階段を登りながらうっとりと月を眺める。見上げる空に雲は流れて、姫の初恋を夢へと誘う。
(夢の中でお会い出来るかしら?)
プリムローズは夢想する。
(たくさん魔法を練習すれば、夢なんかじゃない本当の星空をレシィと一緒に飛べるかも知れないわ)
姫は緑の瞳に夕焼け雲を映して華やかに微笑む。
「姫様、足元にご注意を」
マルタがぴしゃりと言った。現実に引き戻されたプリムローズ姫は、金の巻き毛を揺すって足を早める。
「姫様、お足元」
マルタは重ねて注意する。
「平気よ」
プリムローズはスタスタと先を急ぐ。城壁さえも登れる姫だ。階段如きで転びはしない。
(寝て起きたら、レシィのお弟子よ)
もうすっかり決まったような顔をして、プリムローズは自室に入った。
昨日と同じように髪を梳いて貰いながら、プリムローズは窓の外に目を向ける。ここからは見えないが、視線の遥か先にはクランベリーデイルがあるのだ。猫にされたのは驚いたけれど、そのおかげでフォレストと出会えた。
(ストーンさんには、感謝しなきゃね)
ストーンは、駄々っ子のように猫のことばかり言う。何度捕まっても、くだらない悪戯を止めない。猫まみれの谷に住む真っ赤なローブの魔女を思い出して、プリムローズはクツクツ笑う。
「姫様、フォレスト様ですか?」
マルタは遠慮なく聞いてくる。
「あら、ストーンさんのことを考えてたのよ。あのひと、思い返せば可愛いわよね?」
マルタは呆れてため息をつく。
「はーあ、何が可愛いものですか。迷惑だったらありゃしない」
「子供っぽいわね?」
「歳もわからない大魔法使いですよ?」
「あら、わたくしと同じくらいの歳に見えたのに」
プリムローズは意外に思う。
「いい歳どころじゃないと思いますよ?」
マルタは諭すように告げる。
「いつまでもあんな嫌がらせをしているなんて」
「ふうん」
そういえば、水晶宮のお爺さんも噂では1000歳を超えている。
「じゃあ、レ、フォレストさんも?」
「あら、ご存知ありませんでした?フォレストさんは逆ですわ」
「逆?」
「見た目よりずっとお若いですよ」
「おいくつなの?」
プリムローズはそわそわし始める。マルタはにやにやしながらほほを寄せてくる。姫は驚いてマルタのほうへと顔を向けた。
「え、なあに?どうしたの?」
「ふふっ、姫様」
「何よ、知らないならいいわよ」
姫は気を悪くして、眉を顰める。
「あらあら、気になりますねぇ?」
「知ってるの?知らないの?」
「ふふっ」
「もういいわよ、寝るわ」
姫は立ちあがってベッドへと向かう。
「ふふふ、今年の夏で17ですよ」
姫とだいたい一年違う。
「まあ、そんなにお若いの?」
「いつも不機嫌そうだから、二十歳より上に見えますでしょ?」
「そうねえ、頼りになるから」
姫の予想理由は違った。見た目に関しては、ほぼ仔猫の視点で見ていたため、そこから年齢の判断はしなかったのである。マルタはそこまで思い至らなかったので、姫が穏やかな恋をできそうだな、と感じた。
「姫様、わかってらっしゃいますわ。人は中身ですものね」
「何を言うの?」
間髪を入れずに姫が抗議する。
「わたくし、レシ、フォレストさんほど素敵な殿方を見たことがありません」
「れし?」
「とにかくっ!星空のような銀の髪、春の岸辺を彩る優しい菫を集めた瞳」
渾名のことは誤魔化して、プリムローズはうっとりと語る。
「誠実な口元」
「え、何でしょうか、誠実な口元って?」
「真面目な眉毛」
「眉毛に真面目も不真面目もあるのものですか?」
「頼り甲斐のある立派なお鼻」
「確かにシッカリしたお鼻ですけど、頼り甲斐のある鼻なんて、聞いたことがありませんわ」
「マルタって意地悪だったのね」
「心外ですわ」
「いいわ。もうお下がり。おやすみなさい」
「では、よい夢を」
冷やかすように笑うマルタは、控えの間に引っ込んだ。
「何よ、馬鹿にして」
ボソリと呟き布団に潜る姫だったが、ふと思い直す。
(でも、私だけがわかればいいわ)
それに、マルタが浮わついた目で見てくるような気持ちではないのだ。
(確かに一緒にいたいけど、それより今は魔法使いになりたいの)
フォレストに弟子入りを頼むのは、恋しい故の口実か。
(そんなことない)
きっかけは、魔法使いになればフォレストの住む世界に近づけると思ったから。
(だけど、そう思った次の瞬間には、魔法そのものに興味が出たのよ)
プリムローズは、明日の朝日が昇るのを心待ちにして目を閉じた。
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続きます




