卒業夜会 (2)
ほどなくして馬車は王宮に到着した。
ハインツも王宮内であれば動き回ることが許されているようで、嬉々として馬車止めまでイザベルを迎えに出ていた。
しかしハインツにとっても、レーナにとっても大変残念なことに、今日この場でハインツに許されるのは、イザベルが馬車を降りるのに手を貸すところまでだ。本来なら婚約者のイザベルを伴って夜会ホールに移動するところなのに、今日はここでアロイスと同伴者を交換し、レーナを伴うことになる。
ハインツは残念そうな顔をしているが、それはレーナも同じことだ。
アロイスに目顔でしばしの別れを告げ、渋々ながらもハインツの腕に手をかけた。
ここからイザベルたちとは少しの間、別行動となる。
レーナは自分たちふたりが注目を集めているのを感じ、とても居心地が悪かった。事前に多少は噂になっていたとは言え、実際にハインツがレーナを伴って夜会に現れたという事実に驚いて、振り返る者が多いのだ。けれどももちろん、逃げるわけにはいかない。レーナはハインツの横で、ただうつむき加減に立っていることしかできなかった。
ハインツは、緊張でがちがちになっているレーナの顔をのぞき込んで、声をかけた。
「ねえ、レーナ」
「何ですか?」
「この夜会が終わったらさ、あとはもう夏休みだよね」
「そうですね」
「絵を描く時間も、たっぷりあるね」
「…………」
ここまでくれば、もうハインツが次に何を言い出すのか見当がつく。こんなときにまで、何を言っているのか。
緊張でこわばっていたはずの全身が、どっと脱力する。レーナは呆れを込めた目で、ハインツをじっとりとにらみつけた。
「何をおっしゃりたいのか聞きたくもありませんが、謹んでお断りします」
「えええ。つれないなあ」
こたえた様子もなくくったくのない笑顔を見せるハインツに、レーナはふと気がついてしまった。いつもの調子で絵をねだってみせることで、ハインツは彼女の緊張を解こうとしているのではないか。そして実際、それは成功した。うっとうしいときもあるけれど、こういう気遣いのできる人なのだ。
レーナはハインツから視線をそらし、彼に気づかれないよう小さく笑みを浮かべた。
ハインツは少し思案するように、右に左に首をかしげてから言葉を続けた。
「夏休みの後、僕たちは大学に進学する」
「そうですね」
「入学式は、オペラ座で行われるんだ」
「それは兄から聞いてます」
「新入生代表の挨拶は、アロイスなんだって」
「聞きました。さすがですよね」
ヴァルターも大学へは進学予定なので、そうした話はちょこちょこ聞いている。
けれども、いったいハインツは何を言いたいのだろう。
「オペラ座って一応、王家の所有だからさ、ちょっとした融通は利くんだよね」
「それはそうでしょうね」
話の着地点が見えず、怪訝そうな顔をしているレーナに、ハインツは何かを企んでいるような顔でさらに続ける。
「入学式の父兄席で、舞台袖のボックス席を特別に用意することもあるんだけど、新入生と参列者がよく見渡せるらしいんだ。レーナも、特等席で参列できたらいいと思わない?」
満面の笑みとともに問いかけるハインツに、思わずレーナは吹き出した。
なるほど、これは取り引きだ。
「対価は、イザベルさまのドレスの姿絵ですか?」
「さすが、話がはやい。僕は欲張りじゃないから、一枚で満足しよう。そのかわり、色もつけてほしいな」
「はいはい」
話しているうちにハインツはヴァルターの姿を見つけたようで、会場の片隅に向かった。
ヴァルターの横には、アビゲイルがいる。彼女は、レーナに気づくと小さく手を振った。レーナも手を振り返す。
四人で談笑していると、そこにアロイスが加わった。アロイスは、四人にだけ聞こえる声の大きさでささやいた。
「準備が整った。始まる」
レーナの顔から笑みが消え、真剣な顔つきになる。
アロイスの言葉が終わると同時に、入り口からイザベルが姿を見せた。
イザベルはゆっくりと会場を見回してから、レーナたちのほうを見て目を細め、つかつかと真っ直ぐに歩み寄ってきた。ハインツの正面まで来て足を止めると、悪役らしいポーズをとってから「呪われたシナリオ」のセリフを口にする。
「ハインツさま、わたくしという婚約者がありながら、これはいったいどういうことですの」
いよいよ劇の始まりだ。
レーナは少し前まであれほど緊張していたというのに、ハインツのお陰で緊張が解けたからか、今度はどうやら笑いがつぼに入りやすくなってしまったらしい。イザベルの真に迫った悪役の演技を見て、あやうく吹き出しそうになった。
これはまずい。
レーナは口もとを引き締めて笑いをこらえるが、表情がぎこちなくこわばってしまった。
ハインツは大丈夫だろうか。不安に思って見上げると、彼はレーナに向かって微笑みながらうなずいてみせた後、いきなり無表情になってイザベルに向き直った。その、あまりの大根役者っぷりがレーナの笑いのつぼをさらに刺激する。
必死にこらえたものの、どうにも耐えきれなくなり、ついにうつむいて肩を震わせてしまった。もうそこからは、地獄のようだった。
ハインツは事前に練習したとはとても信じられないひどい棒読みで、レーナを笑い死にさせようとしているとしか思えない。その上、ハインツらしからぬ真面目くさった顔で無表情を貫いているものだから、セリフがなくても見ているだけで笑える。
ここで吹き出したらすべてが台無しになるのは明らかなので、歯を食いしばってうつむいたまま、レーナは耐えて耐えて、耐え抜いた。肩のふるえを抑えきれなかったのは、大目に見てほしい。イザベルとハインツのセリフのやり取りなど、もはやまったく耳に入ってきやしない。
レーナにとっては永遠とも思えるほどの長い時間、だが実際にはほんの数分が過ぎた後、憲兵の「こちらへ」と言う声が聞こえた。
憲兵のその声が耳に届いた瞬間、レーナの笑いの発作は突如おさまり、かわりに不安で胃のあたりがぎゅっと締め付けられた。憲兵が茶番劇にひと役買っていることは聞いているが、もしも何かの間違いで本当に冤罪がかけられてしまっていたら、どうしよう。
イザベルが憲兵に付き添われてホールを出ていくのを、レーナは食い入るように見つめていた。ホールの扉が閉まってもまだ、まばたきもせずに息を詰めたまま見つめている。その扉が再び開いて、イザベルが顔をのぞかせるのを見て、やっと安堵の息を吐き出した。
「終わった…………!」
周囲の参加者たちは、事情がまったく飲み込めずにざわざわしている。
ハインツがイザベルのもとへ行くためにレーナのそばを離れたのと同時に、レーナの肩に手が置かれた。誰だかすぐにわかったけれども、見上げてみれば思ったとおりアロイスだった。
「お疲れさま」
「アロイスさまこそ、お疲れさまでした」
ねぎらうようにレーナの肩を軽く叩いてから、アロイスはレーナの隣に立つ。
それから間もなく国王リヒャルトが、側近たちとともに入室してきた。
国王は、今しがたの出来事が捜査の一環としての茶番であったことを明らかにし、レーナたちをねぎらった上で、通常の卒業夜会の挨拶をしてから去って行った。
これで「呪われたシナリオ」の消化はすべて終了だ。
「呪われたシナリオ」が引き起こしうる政治的混乱を回避するための、一年近くに及ぶレーナたちの努力は、無事ここに実を結んだのだった。




