冬休み (2)
ふたりが栗を食べ終わり、包み紙の新聞紙を処分しようとしていると、通りのどこかから何かが激しくぶつかったような音がして、それに続いて悲鳴と怒号が聞こえてきた。
いったい何ごとだろうか。
レーナとアロイスが思わず顔を見合わせた次の瞬間、近くの角から暴走と言うほかないほどの速度で馬車が飛び出してきた。ギョッとしている間にも、その馬車は通りをゆっくり走らせていた荷馬車に後ろから引っかけるようにしてぶつかり、横転させてしまう。
荷馬車の御者が石畳の上に投げ出されるのを目撃した人々からは、悲鳴が上がった。
危険な走行を非難する声がかけられると、暴走馬車の窓から男が顔を出して、耳を疑うような言葉を吐いた。
「我々はジーメンス公爵家の者だ。先を急ぐので失礼する。文句があるなら、屋敷まで来るがいい」
言われて馬車を見ると、なるほどジーメンス家の紋章がついている。
しかし、その男が実際にはジーメンス家と何の関わりもないことは明らかだった。なぜなら、レーナはこの男の顔に見覚えがある。それは秋休みの観劇の際に、舞台際のボックス席にいた男だった。馬車の中をよく見ると、あのとき男の連れだったと思われるふくよかな女性も一緒に乗っている。
あのときは置き引きの被害に遭った気の毒な人だと思っていたのに、ジーメンス家の名を騙るなどとは、この男自身がとんだ悪党ではないか。
アロイスは立ち上がると、男に向かって叫んだ。
「嘘だ! あなたはジーメンス家の者じゃない。なぜそんな嘘をつく?」
「嘘なものか。私は確かにジーメンス公の親類だよ。この馬車の紋章をよく見たまえ」
「その馬車はうちのものじゃないし、あなたのような親戚は見たこともない。私はジーメンス家の長男、アロイス・フォン・ジーメンス。あなたは誰だ?」
男は鼻を鳴らすと顔をゆがめ、いまいましそうに舌打ちした。そして窓から顔を引っ込めると「さっさと馬車を出せ!」と御者を怒鳴りつけて、再び馬車を走らせて行ってしまった。
アロイスは険しい顔で馬車の後ろ姿を見送ったが、ため息をつくと横転した荷馬車のほうに向かった。すでに手助けをする者が集まっており、馬を荷馬車からはずして、荷馬車の下敷きになっている御者の青年を助け出そうとしているところだった。
幸いなことに引き馬がおとなしく利口だったため横転しても暴れず、荷台と車輪の隙間にはさまるように下敷きになっていた青年を傷つけることはなかった。しかし、青年は馬車から投げ出されて石畳に打ち付けられた際にどこかを骨折したようで、青白い顔で額に脂汗を浮かべ、苦悶に歯を食いしばっている。
アロイスは服が汚れるのもいとわず、青年の救助に手を貸した。
それを見ていることしかできないレーナは、歯がゆくてならない。だいたい、こうしている今この瞬間にも、あの男はのうのうと逃げているのだ。あんな風にジーメンス家の名を貶めようとした者が何のおとがめもなしに逃げおおせるなんて、許せない。どうしても許せない。
レーナは悔しさにきゅっと口を引き結んだが、やがて顔を上げるとアロイスに声をかけた。
「アロイスさま、私、ちょっとあの人を捕まえてきます」
「えっ」
レーナの言葉にギョッとしてアロイスが顔を上げたが、彼女はすでに身を翻して馬に向かって走っていた。そして戸惑う従者の手から涼しい顔で手綱を受け取り、ひらりと鞍にまたがる。
「レニー、待って! 危ないから、やめて。行かないで」
必死に呼びかけてくるアロイスに少しだけ申し訳なく思ったが、レーナは気持ちを変えなかった。馬を繰って歩を進めながら、アロイスに向かって安心させるように笑みを浮かべて告げる。
「大丈夫、危ないことはしません。アロイスさまは、そのかたを助けて差し上げてください。行ってまいります」
「レニー!」
レーナは横転した馬車に集まった野次馬をよけながら馬を進め、開けた場所に出るとピシリと馬にムチを入れた。馬が走り出す。
「レニー、戻ってきて! お願いだから。レニー!」
背後からアロイスの焦ったような叫び声が聞こえてきて胸がちくりと痛んだが、レーナは振り向かない。心配させてアロイスに申し訳ないと思う気持ちより、今は逃げた男に対する怒りのほうが大きくまさっていた。あのまま逃がしてなるものか。
もちろんレーナだって、自分自身の手で男を捕まえようなどと無謀なことは考えていない。そんなことができるわけがないのは、よくわかっている。だから、できる人に頼むのだ。
レーナの向かう先は、王都の西側にある憲兵の駐屯地。
そこには憲兵用の厩舎がある。手近にいる憲兵に通報しただけでは追いつくことができず、逃げ切られてしまうだろうから、騎兵を動員してもらおうと考えた。
駐屯地にたどり着くと門の前で馬を降り、門番に簡単に要件を伝えた。門番は親切に、馬を休ませる場所と詰め所の位置を説明してくれた。
門番に礼を言って早足で中に進み、教わった場所に馬をつないで水を飲ませてやる。
馬のたてがみをなでて「いい子で待っててね」と声をかけてから、レーナは詰め所に向かった。
詰め所の入り口の前で、ひとつ大きく深呼吸してから扉を開ける。
当然ながら、中にいるのはいかつい憲兵ばかりだ。誰に声をかけたらよいのかわからないので、とりあえず挨拶をしてみた。
「ごめんください」
「おや。どうぞお入りください、お嬢さん」
壁際のテーブルの上に地図を広げていた憲兵がレーナに気づいて振り向き、愛想よく笑みを浮かべてレーナを室内に招き入れ、テーブルの前に置かれた椅子をレーナに勧めた。その憲兵は体格はよいが若くはなく、口ひげをたくわえていて、ある程度の役職に就いている者のように見えた。
「失礼ですが、お嬢さんのお名前は?」
「レーナです。レーナ・フォン・レンホフと申します」
「もしや、あのヨゼフ・フォン・レンホフ卿のご息女ですか?」
「はい。ヨゼフは私の父です」
父のことを知っている様子に、レーナは少し肩の力を抜いた。
「私はここの分隊長をしている、サムエル・シュミッツです。今日はどんなご用ですか?」
「白樺通りで人身事故を起こして逃げた、悪質な馬車の通報に来ました」
「ふうむ。そうですか……」
サムエルは顎に手をやり、困ったようにため息をついた。
その反応を見て、レーナは急に不安になった。ここに来て通報さえすれば逃げた男を捕まえてもらえると信じて疑っていなかったけれども、もしかしたら憲兵は動いてくれないかもしれない。
そしてその予感は的中した。




