レンホフ家の家庭料理 (1)
秋休みも終わり間近の金曜日、レンホフ邸ではいつになく使用人たちが険しい表情で忙しく立ち働いていた。この日の晩餐に、ジーメンス家の面々を招いているのだ。
普段この家に招待されるのは、船乗りだの商人だの、それなりに裕福ではあっても身分が高いとは言えない平民ばかりだ。身内を除けばほぼ唯一の例外が先日訪れたアロイスなのだが、まだ学生という身分であり年若いこともあって、使用人たちもそこまでの緊張感はなかったようだ。
それなのにこの日は公爵家という、王家を除けば最高位の貴族が一家そろって訪れることになり、慣れない受入れ準備に使用人たちは少々浮き足だっていた。
もちろん、空気が一番ピリピリしているのは厨房だ。
マグダレーナのあんな無茶な注文を受けちゃって大丈夫だったのか心配でならないレーナは、こっそり厨房の入り口まで様子を見に行ってみたのだが、料理長のみならず下働きのメイドまでが全員そろって真剣そのものの表情で忙しそうにしていたので、声をかけることなくそっと引き返したのだった。
ひと皿のシチューがどうやったらコース料理になるのか、レーナにはとんと見当がつかないけれども、あの様子だときっと何がしかの作戦のもとに準備中であり、きちんと勝算もあるのだろう。
夕方近くなり、ジーメンス家の人々が到着すると、まずはヨゼフとマグダレーナが応接室で出迎えた。間もなくレーナも応接室に呼び出されて挨拶したのだが、「お友だちにお庭を案内して差し上げなさい」とヴァルターとともに言いつかってしまった。
まるで小さかった頃に母親たちだけで話をするためにお茶会の場から追い出されたときのようだ、とは思ったものの、顔には出さずに素直に従った。
「案内が必要なほど広いお庭じゃありませんけど、こちらです」
レーナの案内に従って後ろからついてくるイザベルは、興味津々といった様子を隠すことなく微笑ましい。
「ずいぶん若い見習いのかたを雇ってらっしゃるのね」
まだ普通なら遊びたい盛りの年頃の少年たちが、庭師とともに帽子をとって客人に挨拶する姿を見て、イザベルが感想を口にした。庭師が弟子を持つこと自体は珍しくもないが、同時に複数の幼い子どもたちに指導するのはあまり見られない。
「ああ。あの子たちの父親が、船乗りだったんです」
船乗りだった、と過去形で説明されてもその意味がわからず不思議そうな顔のイザベルに、レーナは続けて説明した。
ヨゼフの所有する船で働く船員が就業中に何らかの事情で亡くなったとき、その妻や子が希望すればヨゼフは無条件でレンホフ邸に使用人として迎え入れる。乳飲み子を抱えていれば、子どもが乳離れするまでは仕事量を調整し、乳離れしてからは使用人区画で下働きたちが共同で子どもの面倒を見る。下働きのメイドたちにはこうして雇われた寡婦が少なくないので、幼い子どもの世話は慣れたものなのだ。
そうしてその子どもたちがある程度の年齢になると、能力と本人の希望を考慮した上で庭師や料理人、従僕あるいはメイド、船乗りの見習いとして働かせる。中でも庭師や料理人は給料がよいため、子どもたちの弟子入り先としては人気が高い。
やがて一人前になると、そのままレンホフ邸で働き続けるか、紹介状を得て他家に就職するかを選択することになる。ただしレンホフ邸での職の空きは限られている上に、他家と比べて特に給料が高いわけでもないこともあり、ほとんどの者が出て行くほうを選ぶ。
レーナの説明を聞いて、イザベルは感嘆の声を上げた。
「すばらしいわ。ねえ、お兄さま」
「うん。ヨゼフ卿の私兵が海上最強と言われることになった要因がよくわかったよ」
今の話が私兵の強さとどう関係するのかわからず、今度はレーナがきょとんとした。レーナの表情を見て、アロイスは言葉を足す。
「自分の身に万が一のことがあったときには必ず妻子の面倒を見てもらえるという絶対的な信頼があるから、ヨゼフ卿の船の乗組員たちは忠誠心が違うんだと思う」
「他の船では違うんですか?」
「普通は殉職する者がいても、いくばくかの見舞金を出して終わりだね」
だから残された妻子は、自力で職探しをせざるを得ない。だが子持ちではなかなかよい働き口もないため、路頭に迷ったり身を持ち崩したりしがちなのだと言う。それを聞いて、なるほど、とレーナは納得し、同時に父を誇らしく思った。
公爵家の庭に比べたらまったく大した広さのない庭は、話している間にひととおり案内し終わってしまった。もともと案内するほどの庭ではないのだ。
レーナは振り向いて、アロイスとイザベルに尋ねた。
「どうしましょう、戻ります?」
「そうしようか」
他にすることもないのだが、こんなにすぐ戻ってもよいものなのか、レーナは自信がなかった。庭の案内という口実で子どもたちを外に出して、大人だけの話をしたかったのだとしたら、もっと時間をつぶしたほうがよいのかもしれない。
でも、特に何も言われていない以上、あまり気にしても仕方ない。
応接室の扉に近づくと、中からノアの話している声が聞こえてきた。
「────色よいお返事ができず大変恐縮ですが、こちらに展示してあるものはすべて非売品でございまして。受注については、お引き受けできるかどうか本人に確認してみないことには────」
またしても画廊の店主になりきっているようだ。
思わずレーナの目が据わる。彼女は口を引き結んで、勢いよく扉を開けた。
「叔父さま!」
「おかえり、レーナ。ちょうどよかった」
ノアは少しも悪びれた様子がなく、笑顔で姪を迎え入れる。レーナが冷たい視線でにらんでも、どこ吹く風だ。
「何だかしらないけど、謹んでお断りします」
「そんなこと言わないで、ちょっと聞いてよ」
「お、こ、と、わ、り、し、ま、す」
「レーナが冷たい……」
何だかノアの言い方がハインツに似ている気がして、つい条件反射的に対応がそっけなくなってしまった。しゅんとしたノアを見て、叔父に当たるつもりはなかったレーナはあわてる。謝ろうと口を開きかけたところへ、小声でレベッカ夫人と話していたイザベルがにこやかにノアに話しかけた。
「絵の解説をしてくださってたんですって? わたくしにも聞かせてくださいませんか」
機嫌をうかがうような視線をノアから向けられて、レーナは苦笑いして小さくため息をつく。
「どうぞ。ただし新しい絵を描く予定はありませんよ。当面の間、学業が最優先です」
「────とのことですので、新作の入荷は厳しい見込みです。あしからずご了承ください」
元気とともに調子を取り戻した叔父を見て、レーナはホッとして小さく笑った。




