観劇 (5)
ここにはイザベルがいるはずがない。
にもかかわらず突然その名前を言いそうになったのは、きっと無意識にでも何か理由があったはずだ。ほんの一瞬の間に、レーナはそう結論づけた。そして、はたと気がついた。
「叔父さま、ずるしちゃダメでしょ」
「え? ずるって何?」
「目隠しする人と、声をかける人が違ったら、ずるでしょう」
「僕じゃないなら、じゃあ誰が目隠ししてるって言うの?」
レーナは、ほんの少しの間だけ逡巡した。
目隠しするこの手は、確かに「ベルちゃま」のものだとレーナは感じた。でも、ここにイザベルはいない。いるのは────。
「────アロイスさま……?」
レーナが名前を口にした瞬間、目隠しをしていた手が離れて視界が明るくなった。後ろを振り返ると、いたずら坊主の顔をした叔父と、困ったように微笑むアロイスが並んでいる。ノアは感心したように眉をはね上げて、アロイスのほうを振り向いた。
「驚いた。当たりだ」
「だから言ったでしょう、彼女は絶対に間違わないって」
「やっぱりずるじゃないの」
レーナが責めるような目でノアをにらむと、悪びれた様子もなくノアは言い訳を口にした。
「いや、アロイスくんがレーナは百発百中で当てるって言うからさあ。ちょっと条件を難しくしてみたらどうかなと思って、試してみたわけですよ」
「それをずるって言うんです!」
文句を言いながらも、レーナは笑ってしまう。
「ねえねえ、レーナ。どうしてわかったの?」
「ひみつ」
「いいじゃない、教えてよ。絶対、誰にも言わないから」
「ずるするような人には教えられません」
「ちぇ」
種明かしを欲して叔父が食い下がったが、レーナは取り付く島もなく撃退した。
教えるわけがない。子どもの頃からずっと、レーナだけの秘密だったのだ。
子どもの頃にもこんな風に、突然目隠しされることがあった。あの頃、イザベルとアロイスは容姿がよく似ていたが、それ以上に声がそっくりだった。だから目隠しして声をかけたら聞き分けられないと思っていたらしい。実際、レーナ以外は間違うこともよくあったようだ。
けれども、レーナは一度も間違えたことがない。
確かに声だけなら、聞き分けるのは難しかったかもしれない。だけどたとえ声が同じであっても、ふたりはそれぞれ癖がまったく違う。それを知っているレーナが、間違うわけはなかった。
アロイスは目隠ししながら、くすくす笑う声をとめられない。
「ベルちゃま」は、声を出さずに笑う。笑うときでも静かなのだ。
目隠しする手つきも違う。
アロイスは少しの光も入らぬよう、ぴったり目を覆い隠す。
一方「ベルちゃま」は、顔に触れるか触れないかの距離でふわりと優しく覆う。
そして今、レーナを目隠ししていた手は、上下から少し光が差し込む程度にゆるく優しく覆っていた。これは「ベルちゃま」の覆い方だ。イザベルの名がレーナの頭に浮かんだのは、きっとそのせいだ。
ところがここにイザベルはいない。いるのはアロイスだけだ。
だからレーナは一瞬混乱して少しだけ迷ってしまったわけなのだが、声に出した名前で結果的に合っていた。
そんなわけで、レーナの中にずっとくすぶり続けていた疑問がひとつ解決してしまった。
小さい頃にレーナと遊んでくれた「ベルちゃま」は、アロイスだ。レーナがアロイスだと思っていたのが、本当はイザベルだった。だって本人も自覚していないこんな癖が成長とともに入れ替わるなんて、あり得ないではないか。
わかればすっきりすると思っていたのに、なぜかちっともすっきりした気がしなかった。むしろ、もやもやが増したような気さえする。
どうして入れ替わっていたのだろう。
聞けば教えてくれるだろう、とアビゲイルは簡単そうに言っていたが、いつどう切り出せばよいのか見当がつかない。
まあ、悩んだところで、どうしようもない。レーナは首を振って、とりあえず今のところは忘れておくことにした。
間もなく、夕食の準備が整ったと執事長マルセルが知らせに来て、一同は食事部屋へと移動した。
この日はアロイスという招待客がいるために、レンホフ家の食事にしては珍しく豪勢にフルコース料理だった。いつもなら料理はだいたいひと皿、増えてもせいぜいふた皿だ。それ以外にパンがつくけれども、小麦の白いパンではなく、ライ麦の黒くて固いパン。実に質素この上ない食事だ。今どき平民でも中流以上ならもう少し豪華な食事をとっているかもしれない。
ただし質素ではあれども、粗食ではない。肉や魚もしっかり入っている。
おかげでレンホフ邸の住人は、使用人まで含めて肥満とは縁がない。何しろ主人の食事が質素なので、同じようなものを食べている使用人が太るはずがないのだ。ついでに貴族病とか贅沢病とも呼ばれる痛風とも無縁だ。
マグダレーナは、夜会でよく夫人たちからスタイルのよさを羨ましがられる。しかしどれだけ秘訣を聞かれても、しれっと「うちの料理長のおかげかしら」と嘘ではないが真実とも言えない返事で煙に巻いている。何しろ貴族社会の中にあって大きな声で語れるような内容の食事ではないので、そういう意味でメニューもレシピも門外不出なのである。
そのせいで周囲からレンホフ家の料理長は美容に造詣が深いと思われていて、引き抜きの話を持ちかけられることもしばしばあるらしい。だが実際のところは「質素だが栄養バランスのよい食事をして、食べ過ぎなければ太ることはない」というだけの話だった。
真実を知る料理長は、どれほどの高給を約束されようとも引き抜きに応じることはない。
ただし普段の食事の支度には、今ひとつ張り合いがないとも感じているようだ。だからこうして来客があると、ここぞとばかりに張り切る。
この日の食事も料理長が腕によりをかけて、持てる技すべてをつぎ込む勢いで作られた料理が並んでいた。もちろんおいしいし、繊細な飾り付けは目も楽しませてくれるが、こういう食事はたまにしかないからこそおいしく感じるようにレーナは思う。毎日だったら胃もたれしそうだ。
レーナが味わいながら前菜を食べている間に、母がアロイスに勉強の面倒を見てもらっていることの礼を言い、祖父母はアロイスが組み立てた補習内容や勉強方法についてアロイスに質問していた。




