観劇 (2)
史劇に誘われた水曜日、レーナは早めに昼食を済ませて、身支度をした。身に着けるものはひと通り選び終わっているので、後は支度するだけだ。
レーナの家に侍女はいないが、それに近い仕事をする母専属のメイドはいる。マグダレーナはそのうちのひとりを寄越して、身支度を手伝わせた。髪型も母から指示済みである。
年頃の娘ならここで自分の好みを主張しそうなものなのだが、レーナにはあまりそういうことにこだわりがない。さすがにお下げはダメだろう、という程度のことは心得ているものの、それ以上は特に頓着しなかった。
支度の途中、マグダレーナが顔を出して、こまごまとした注意を与えた。決してアロイスから離れぬこと、劇場では置き引きやスリも多いから手荷物から手を離さぬこと、などなど、ただ観劇して帰るだけなのにやたら注意事項が多い。
それでも前日に一度叱られた余韻がまだ残っていて、レーナは神妙に母の注意を聞いた。
「そうだわ。観劇のあとに、アロイスさまをお夕食にお誘いしてちょうだい」
「うちに?」
「そうよ。ずいぶんお世話になってるようだから、お礼を申し上げたいの」
「はい」
「いらしてくださるようなら、御者をいったん帰すのか、待たせるのかもお聞きしてね。まかないをご用意する都合があるから」
「はい、わかりました」
やがて約束の時間になり、アロイスが迎えに来たとメイドが知らせに来たので、レーナはアロイスの待つ応接室へ向かった。応接室の手前で、ノアとすれ違う。
「あれ、レーナ。今日はきれいだね」
「ありがとう、叔父さま」
ノアがレーナを上から下まで見てから、目を見張って褒めてくれるので、レーナは機嫌よく礼を言った。しかしそれだけでは終わらないのが、ノアだ。
「そういうシックな色を着てると、まるで十五歳くらいのお嬢さんみたいに見えるよ」
「みたい、じゃなくて十五歳なんです!」
からかわれているとわかっていても、言い返さずにはいられない。レーナの反応に、ノアは声を上げて笑った。
「うん、知ってる。今日は観劇だっけ? 楽しんでおいで」
「ありがとう。行ってまいります」
笑顔で手を振る叔父に手を振り返して応接室に向かい、扉をノックした。
返事を待ってから中に入ると、ソファーに腰掛けていたアロイスが顔を上げ、驚いたよう目を見張る。そのまま少し動作が止まっていたが、自信なさそうにわずかに首をかしげながらゆっくり立ち上がり、レーナを出迎えた。
「レニー……?」
「はい、お待たせしました」
「ああ、本当にレニーだ」
なぜかホッとしたように息を吐き出すアロイスとは逆に、今度はレーナのほうが首をかしげた。本当にってどういう意味だろう。まさかニセモノが出たわけでもあるまいに。
「何か変ですか?」
「まさか。女の子って、服装と髪型でこんなに変わるんだね。きれいで見違えちゃって、実は別人だったらどうしようかと、ちょっと自信がなくなってた」
照れたように微笑んで言い訳するアロイスのその言葉にあてられて、レーナはさっと頬を紅潮させた。叔父に褒められたときには別に何とも思わなかったのに、何だかとても照れくさい。
「ええっと……、ありがとうございます。叔父なんてさっき、こういう服を着てるとまるで十五歳のお嬢さんみたいに見える、なんて言うんですよ。失礼ですよね。普段いったい何歳に見えるって言いたいんだか」
「それはちょっと違うんじゃないかな。歳の話じゃなくて、いつもの学生姿と違って立派な貴婦人に見えるって言いたかったんだと思うよ」
「それはどうでしょうか……」
照れたあまりにいらないことまでしゃべった気がするが、それに対するアロイスの返答でさらに照れた。いくら何でも好意的に拡大解釈しすぎである。しかもそれを慰めとして言うでもなく、からかうでもなく、真摯な態度で口にするものだから、レーナはうまく返せる言葉が見つからなくなってしまった。
レーナが立派な貴婦人かどうかは大いに議論の余地がありそうだが、それはさておきアロイスが立派な貴公子であることは間違いない。
湯気が出そうなほど顔が熱い。
何とか落ち着こうと、話の接ぎ穂を頭の中でぐるぐる探しているうち、ふと母からの言いつけを思い出して少しだけ頭が冷えた。
「あ、そうだ。観劇のあと、うちでお夕食をいかがですか。いつもお世話になっていることのお礼を申し上げたいって、母が」
「お礼を言われるようなことは何もしてないのに。でも、お招きありがとう。喜んでご馳走になるよ」
「御者のかたはどうします? うちで待つならまかないをご用意するそうです」
「ああ。なら、お言葉に甘えようかな」
「はい」
アロイスとともに部屋を出て、途中で使用人に母への伝言を頼んだ。
「お母さまに、アロイスさまがお夕食にいらしてくださると伝えてください。それから、御者のかたのまかないもお願いしますって」
「かしこまりました」
レーナの後ろからアロイスが伝言を追加する。
「マグダレーナ夫人に、ジーメンス家のアロイスからお招き感謝しますと伝言をお願いします」
「はい、承りました」
頭のすぐ近くでアロイスの声がしたことにびっくりして、レーナは心臓が跳ねたのを感じた。脅かさないでほしい。そういえば、とレーナは唐突に思い出した。アビゲイルに「距離が近い」と言われたことを。
あのときは別に普通だと思ってそう答えたはずだが、確かにこれは距離が近いかもしれないような気がちょっとした。ではこの家族のような距離感が気になるかと問われれば、特に気にはならない。気にならないから、普通だと思っていたのだ。
ところがこれまでは確かに気にならなかったはずなのに、今はちょっと気になる。決していやなわけではない。でも、気になる。
レーナは自分のことなのに理由がよくわからなくて、どうしてなのだろうか、とアロイスをそっと仰ぎ見た。盗み見るつもりだったのにアロイスと目が合ってしまい、レーナの心臓はまた小さく跳ねる。なぜかこの頃、アロイスと一緒にいるとどきどきしてばかりだ。アロイスはレーナに微笑みかけると、彼女の肩を優しく叩いた。
「さあ、出かけようか」
「はい」
レーナはアロイスに手を引かれて、迎えに来ていたジーメンス家の馬車に乗り込んだ。




