カフェで勉強会 (3)
イザベルは、レーナに指人形劇の知識があると見てとるや、質問を重ねた。
「あの人たちは、予約をしてあるの?」
「予約なんて必要ありませんよ」
「まあ。なら、今からでもチケットを買えるのかしら」
「チケットも必要ありません」
予約もチケットも不要な劇場と聞いて、イザベルの理解の範疇を超えたらしい。きょとんとしてから眉間にしわを寄せ、首をかしげた。
「無料なの……? でもそうしたら、劇団の方々は生活に困るわよね……?」
「だから、後払いなんです」
まだ理解しきれずに不思議そうにしているイザベルに、レーナは大道芸人たちの興業のやり方を説明した。
道端や広場で興行している者がいても、気に入らなければ別に料金を払う必要はない。足を止めて鑑賞する価値のあったものにだけ、自分が適切だと思う金額を払えばよい。たいした価値がないと思えば少額でよいし、逆にとても気に入ってその芸人を応援したいと思うなら、払う金額でその気持ちを示せばよい。
たいていは興業の中休みや終わり頃に、劇団員のひとりが帽子を裏返したものや空き缶を手にして観客の間を回るので、そのときに代金を投げ入れてやるのだ。
そう説明すると、それまで目を輝かせてレーナの話に聞き入っていたイザベルが、急に肩を落としてしゅんとした。
「わたくし、お金を持っていなかったわ」
「ご覧になりたいなら、これをどうぞ。ちょっと多めですけど、イザベルさまのお目にとまったのがあの劇団の幸運だったってことで」
レーナは自分の手提げから小銭入れを取り出し、そこから銀貨を一枚出してイザベルの手に握らせた。生粋のお嬢さま育ちのイザベルは、自分自身で代金を支払う機会がほぼないため現金を持ち歩く習慣がないが、レーナは違う。普通に街に出て買い物をすることもよくあるので、多少の現金は持ち歩いているのだ。
イザベルは一瞬ためらったが、うれしそうに微笑んで銀貨を受け取った。
「どうもありがとう、お借りします。必ずお返しするわ」
「それは差し上げますよ。きっとハインツさまが十倍にしてお礼を返してくださるはずですから、お気遣いなく」
レーナがハインツを横目で見ながら澄ました顔で言うと、イザベルは楽しそうに声を上げて笑い、ハインツは苦笑した。
「ハインツさま、見に行ってもよろしいかしら? いずれシナリオのために中座する必要があるから、ちょうどいいかと思うの」
「うん、行っておいで。ただし外の護衛たちに声はかけて行ってね」
「はい。では、行ってまいります」
イザベルは弾む足取りでカフェを出て行った。
残されたハインツとレーナは注文してあった軽食をとってから、勉強を再開する。広場のほうからは絶え間なくヴァイオリンの音色が聞こえ、ときおりどっと笑い声が上がる。
勉強のきりのよいところで手をとめ、ハインツは広場の人だかりへと視線を向けた。
「楽しそうだな」
「あの一座はコメディものが多いから」
「よく知ってるんだねえ」
「庶民の間では有名ですからね。前にハーゼ領で見ました。風刺が効いてて、面白いんですよ」
「へえ。どんな風に?」
「庶民向けだから、ヒーローは平民の労働者なんです。ちょっと抜けたところのある、貧乏だけどまっすぐな性格のヒーローが、悪辣な上司をとっちめる筋書きが多いかなあ」
だいたいがドタバタ喜劇で、ただし興行する地域に合わせて舞台や筋書きを少しずつ変えるのが特徴だ。たとえば農村部で公演するならヒーローは小作人、港町なら下っ端の船乗り、都市部では鍛冶屋の見習い、という具合に劇内での職も少しずつ変わる。そして観客が「ああ、あるある」と共感できるようなエピソードを並べ、痛快な勧善懲悪の物語に仕立ててあるのだ。
レーナも広場に視線を向け、イザベルを探した。
彼女は舞台の前に並べられた椅子には座らず、人だかりの後ろのほうに姿勢よく立っていた。笑い声が上がるたび、イザベルも一緒になって手を叩いて笑っている。絹糸のようにつややかな金色の髪がそよ風に揺らされてキラキラ光り、まるでそこだけ舞台照明が当てられているかのように観客の中で目立っていた。
知らずにレーナも口もとに笑みを浮かべていたが、ハインツに声をかけられて意識を引き戻された。
「ねえ、レーナ」
「はい」
「お願いがあるんだけど──」
「謹んでお断りします」
ハインツの言葉を遮る勢いで反射的に断ると、ハインツは恨めしそうな顔をした。
「まだ何も言ってないのに」
「聞かなくてもわかります。どうせろくなことじゃありません」
「ひどい」
確かにレーナも自分でもちょっとひどいかもしれないと思ったが、そのくらい言ってやらないとハインツには伝わらない。むしろ、それくらい言ってやってもなお伝わらない気がする。ふたりで話すほんの少しの隙があればすぐ絵をねだるその図々しさを、少しは反省してほしい。
しかし大変残念なことに、ハインツに反省の色はまったく見られなかった。
「それでね、ちょっとこれ見てくれる?」
「いや、だからお断りしてるんですけど……」
レーナがあからさまに迷惑そうな顔をしてみせても、ハインツにひるむ気配はない。毎度のことなので、毛ほども気にしている様子がないのだ。少しは気にしてほしい。
教科書の後ろのほうのページに隠すように挟んであった絵を一枚抜き出すと、ハインツはレーナの隣の椅子に移動して身を寄せ、声を落とした。
「こういう感じで、カフェにいる彼女を描いてくれないかな」
それは以前レーナが描いたものだった。窓を背景に、お茶の時間に紅茶の椀を手にしているイザベルの横顔を描いたものだ。わざわざこれを見本として持参するあたり、もう最初からねだる気満々である。
これだからこの王子さまは、とレーナはため息をついた。このカフェに何をしに来たのかわかっているのだろうか。勉強をしに来たのだ。何としても偶然に頼らず学年で一位の成績をとり続けなくてはならない今、レーナにはのんびり絵なんぞ描いている暇はないというのに。
何と答えたものかレーナが考えあぐねていると、ふとテーブルの上に影が落ちた。ハッとした様子のハインツは、驚きの俊敏さを発揮して絵を教科書の間に戻してページを閉じる。小さな音を立てて教科書が閉じたのと同時に、カフェの中に冷ややかな声が響いた。
「ハインツさま、こんなところで何をしていらっしゃるの?」
レーナとハインツが恐る恐る顔を上げると、そこには指人形劇を見ていたはずのイザベルが、不機嫌そうに目を細めて小首をかしげていた。




