学院で一番長い日 (5)
医務室の問題が解決して、やっと気持ちが楽になったレーナは、少し早めの夜食を自室でとった。
夜食と言っても、別に夜遅い時間用の食事というわけではない。食堂ホールから持ち出せるようにかごに詰められた食事というだけなので、夕食より早い時間から用意されている。各自の都合に応じた時間に受け取って、食べ終わったらかごごと返却する決まりになっていた。
かごを食堂ホールに返却し、これから試験前の最後の追い込みを始めようとレーナが机に向かったところで、部屋の扉がノックされた。扉を開けると、そこにいたのは同級生の女の子だった。
「四年生のアロイス・フォン・ジーメンスさまから伝言で、大至急のお話があるので来てくださいって。中央棟の大扉の前でお待ちです」
大至急とはいったい、何ごとだろうか。至急と聞いただけでもびっくりするのに、「大至急」である。まったくもって穏やかではない。レーナは同級生へ伝言の礼を言うのもそこそこに、そのまま廊下に飛び出した。医務室で何かあったのだろうか。
小走りで中央棟に向かい、大扉を開けてあたりを見回すと、アロイスが壁に背中をもたれて立っていた。うなだれたようにうつむき加減で、目もとを片手で覆っている。いつでも姿勢のよいアロイスには珍しい姿だった。
「アロイスさま?」
「ああ、レニー。こんな時間に呼び出して、ごめんね」
レーナが声をかけると、アロイスは顔を上げて微笑んだ。しかしその微笑みがどこか儚く感じられ、レーナは胸騒ぎがして眉をひそめた。
「困ったことが起きてしまってね。手伝ってほしいことがあるんだ」
「はい。何があったんですか?」
まだ具体的なことは何も聞いてもいないのに、なぜだか胃のあたりがしくしくする。
「王都の大橋で崩落事故があった」
「崩落事故……。崖崩れですか?」
「いや。橋が落ちたんだ」
「橋が、落ちた」
難しい言葉は何も使われていないのにアロイスの言っていることが理解できず、レーナは難しい顔をしたまま、言われた言葉をオウム返しに繰り返した。橋が落ちたって、どういうことだろう。川幅が数百メートルにも及ぶ河にかかった巨大で頑丈な建造物である大橋が落ちる、とはいったいどういう意味なのだろう。
「以前から老朽化による危険性が指摘されていた橋が崩れて、ほぼ丸ごと落ちたんだよ」
「丸ごと、落ちた……」
そんなことがあり得るのか、と信じられない気持ちだったが、どう見てもアロイスは冗談を言っている顔ではない。あの橋が本当に崩れて落ちたのだとすると……。ことの重大さが、じわじわと染み渡ってきた。
この王立学院は王都の東側のはずれにあるが、王都の中心部と学院の間には大きな河が横たわっている。その河にかかる石造りの巨大な橋が「王都の大橋」だ。普段はただ「大橋」と呼んでいる。二百年以上も昔に建造されたもので、橋の上に家を建てて居住していた者もいたことがあると言われているほどの大きな橋だ。四頭立ての馬車がすれ違っても十分に余裕があるだけの道幅があった。
「知らせを聞いて遠目に確認したけど、本当に橋が丸ごと落ちていた」
学院から王都の中心部に向かうには、この橋を渡るしかない。別の橋は馬車で二時間ほども上流に行かないといけなくて、いくら王都が目と鼻の先に見えていようとも、大橋がなければ学院から王都の中心部まで行くには半日がかりになってしまう。
レーナは、ふと頭に浮かんだ疑問を口にした。
「お兄さまは、もう王都から帰って来てるのよね……?」
つぶやきにすぎなかったその声をアロイスは拾い、静かに首を横に振った。
「え、なんで? だって、お医者さまと助手さんたちは、もう来てくださってるんでしょう?」
「わからない。けど、ヴァルもティアナ嬢も、まだ戻ってない」
「なんで……」
まさか橋の上を通っているときに橋が落ちたりはしていないだろうか。その考えにゾッとして、全身から血の気が引いた。そんな崩落事故に巻き込まれたなら、命があるわけがない。
こんな風に死を身近に感じたのは、生まれて初めてのことだった。なぜ、とっくに帰り着いていないとおかしいヴァルターたちがまだ戻っていないのだろう。ヴァルターが橋の崩落に巻き込まれていたら、どうしよう。そんな考えがぐるぐると頭の中をめぐり続けてとまらない。
レーナが自分の歯の根が合わなくなっているのに気づいたのは、アロイスにギュッと肩に手を回されたときだった。とめようと思っても、カチカチと歯が鳴り続けてとまらない。じわっと涙も浮かんできた。
「レニー、大丈夫。大丈夫だから」
アロイスはレーナの背中をなだめるようにさすりながら、ささやき声で「大丈夫」と繰り返す。しばらくの間そうしていたが、レーナが目尻にたまった涙を手の甲でぬぐうと、レーナの肩を軽く叩いて話しかけた。
「ねえ、レニー。思い出してごらん、シナリオを」
シナリオの何を思い出せばよいのだろう、とアロイスの顔を見上げると、アロイスはその顔に無理をして作ったような微笑を浮かべた。
「ヴァルはシナリオの最後まで名前が出てくるでしょう? あのシナリオは、現実になる。だからヴァルは大丈夫。大丈夫なんだよ」
アロイスが「大丈夫」と言うのなら、本当に大丈夫のような気がした。
兄が一目置いているアロイスは決していい加減なことを言わないと、レーナはよく知っている。学院に入学してからというものアロイスが感情的になったところは見たことがないし、いつだって論理的に物事を考える。だからきっと、アロイスがそう言うなら本当に大丈夫なのかもしれない。そう思ったらいくらか気持ちが落ち着いて、震えが収まってきた。
そうして自分の震えが収まってくると、レーナの肩を抱いているアロイスの指先がかすかに震えていることに、気づいてしまった。
その震えを感じとった瞬間、医務室で青白い顔をした男子学生がレーナに椅子を譲ろうとした出来事がふと思い出された。きっとアロイスも一緒だ。アロイスだって、怖くないはずがない。いくら落ち着いていると言っても、まだ学生なのだ。
そう気づくと、恐怖とはまた違う何かが喉もとのあたりにこみ上げてきた。レーナはそれをぐっと飲み込んで、胃のあたりに固まった恐怖を押さえつけるように腹に力を入れた。ついでにいやな考えを振り払うように頭を軽く振り、アロイスを見上げて尋ねた。
「私は、何をすればいいですか?」
「安否確認を取れるよう、点呼をとって不在者の名前をまとめたい。ティアナ女史がいないから、監督生に代わってその取りまとめをお願いできる?」
「わかりました」
消灯時間にはまだ時間があるが、各学年の模範生代理に事情を伝えて早めの点呼を依頼することにした。
点呼には普段の何倍もの時間がかかった。まず点呼をとる前に、医務室の休憩室で休んでいる者と、自室で休んでいる者の名前を確認し、さらに、外泊届が出ている者の名前を寮長の夫人から確認しなければならない。その上で点呼をとり、寮に戻っていない者は誰かを確認する必要があったからだ。
女子寮の不在者と食あたりの患者の名前を学年ごとの一覧にまとめ上げた頃には、もうほとんど消灯時間近くになっていた。
就寝前にアロイスと談話室で待ち合わせをして、不在者の一覧を渡した。
不在者の数は、レーナが思っていたよりもずっと多かった。
点呼する中で、イザベルも不在者のひとりだと知った。ちゃんと外泊届も出されていた。それをアロイスが知らなかったとは思えない。レーナの前ではおくびにも出さなかったけれども。アロイスの「大丈夫」というあの言葉は、自分自身に言い聞かせる言葉でもあったのかもしれない、とレーナは思った。イザベルは最後までシナリオに登場する。だからイザベルは大丈夫。
外泊届を出していた者のうち寮に戻っていたのは、男子寮と女子寮を合わせても片手で数えられるほどだった。つまり、ほとんどの者が寮には戻っていない。逆に、外泊届が出ていないにもかかわらず寮にいない者も、数名いた。その日のうちに戻る予定で外出した者たちだ。
不在者すべてを合わせると、寮生の三分の一ほどの人数に及んだ。
食あたりの人数も、昨日聞いた数からさらに増えていた。最終的には百人を軽く突破し、寮生の四分の一ほどの人数になっていた。
学生であるレーナたちにできるのは、ここまでだ。この後、実際に安否確認をとるのは大人たちの仕事である。翌日、学院長の指示のもとに事務職員が手配することになるだろう。
やっと長い長い一日が終わった。心底疲れ果てたレーナは、ベッドにもぐり込むが早いか深い眠りについていたのだった。




