学院で一番長い日 (1)
定期考査は通常、週明けから三日間かけて行われる。したがって試験開始の前日は週末であり、たいていの学生たちは最後の追い込みに余念がない。
学院は王都の端にあり、中心部からは馬車で一時間ほどの距離でしかないため、王都に屋敷を構えている家の学生の中には一時的に帰省する者もいる。相部屋の寮よりも、広く静かな実家のほうが勉強に集中できるからというのが、その理由らしい。
レーナは、試験前に帰省したことはない。自分は寮にいる方が勉強がはかどると思っている。片道一時間といえども移動時間がもったいないし、優等生のアビゲイルと一緒にいる方が緊張感があって、自分も頑張ろうという気持ちになれるのだ。帰省なんてしたら、逆に気がゆるんでしまうに違いない。
そんなわけで定期考査直前のこの週末も、レーナはアビゲイルと一緒に自室にこもって勉強していた。だが朝食のときは元気だったアビゲイルが、次第に元気がなくなり具合が悪そうになっているのがレーナは気になっていた。
いつもならお茶の時間に軽く休憩を入れるだけで勉強に集中しているのに、今日は少し前からベッドにごろりと横になっている。顔色も悪いし、何だか表情もつらそうだ。
「アビー、大丈夫……?」
「うん。少し寝てればよくなると思う」
心配で声をかけてみたが、そっけない返事があっただけだった。
仕方なく机に向かって勉強を始めたが、アビゲイルが気になってあまり集中できない。ときどき横目で様子をうかがっていると、横になってはいても眠れているわけでもなさそうで、しきりに寝返りを打っていた。つらそうだ。
勉強しつつも、やきもきしていると、やがてアビゲイルは力のない声でレーナに声をかけた。声の響きにどこか切羽詰まったものが感じられる。
「レーナ、ちょっとお願いしてもいい?」
「うん、なあに?」
「お水をもらって来てもらえるかな。どうしてももう動きたくなくて、ごめん……」
「わかった。すぐ行ってくるから、待ってて」
「ありがとう」
レーナは小走りで、寮の食堂ホールの入り口付近にある水差し置き場のテーブルに向かった。ここには学生がいつでも飲料水を持って行けるよう、グラスと小ぶりの素焼きの水差しが並べて置かれているのだ。しかし困ったことに、レーナがそこに着いたときにはグラスがいくつか残っているのみで、水差しはすべてなくなっていた。
レーナは食堂ホール奥の厨房入り口まで行き、中で作業中の体格のよい料理人に声をかけた。
「すみません、お水を少しくださいますか」
「あれ、切らしてましたか。すみません。グラスはひとつでよろしいですか?」
「はい、ひとつで結構です」
料理人から渡された小さめのお盆には、水差しとグラスのほかに、水を切らしたことへの詫びのつもりなのか、焼き菓子を盛り合わせた小皿が載っていた。
「はい、どうぞ。勉強がんばってくださいね、お嬢さん」
「はい。ありがとうございます」
本当は水差しとグラスだけつかんですぐ戻るつもりだったのだが、せっかくの心遣いをむげにもできず、お盆ごと受け取った。お盆に水差しを載せた状態では安定が悪く、小走りになるわけにはいかない。急いでいるのにしずしずと歩かざるを得ず、内心じりじりしながら部屋へ向かった。
「アビー、お待たせ。────あれ?」
やっとたどり着いた自室にはしかし、アビゲイルの姿がなかった。あんな状態で、いったいどこへ行ったというのだろう。レーナはアビゲイルの机にお盆を置き、誰もいない廊下に出て相棒を探した。
しばらくうろうろと行ったり来たりしていると、廊下の端にアビゲイルが姿を現した。どうやら洗面所に行っていたらしい。とりあえず無事だったことにホッとしたが、アビゲイルの足取りはどうもあやしい。壁に手をつきながら、うつむき加減によろよろ歩いている。
「アビー、お水いただいてきた」
「うん」
レーナが駆け寄って声をかけると、短い返事があった。もはや口を開くのもおっくうな状態らしい。はっきりそうは言わないが、どうやら朝食べたものを洗面所で吐いていたようだ。顔からは血の気が引いて青白いのを通り越して真っ白で、いかにも具合が悪そうに見える。
「ねえ、アビー。お水を飲んだら、医務室へ行こう」
「大丈夫よ」
「まったく少しも、これっぽっちも大丈夫そうじゃないから。ね、行こう」
「────わかった」
アビゲイルは顔を上げ、苦笑しようとして失敗したかのように少しだけ口の端を歪ませた。
レーナは先回りして自室の扉を開けてやり、アビゲイルが部屋に入ると自分もするりと中に入って、グラスに水を注いで渡す。
「冷えてて、おいしい」
「そっか。それはよかった」
素焼きの水差しに入れた水は、水差しに染み込む水の気化熱で冷やされるため、夏でも冷たい。けれどもこの水差しの水は、さっき入れたばかりだ。そんなに冷えているはずがない。実際レーナがグラスに注いだときにも、グラスはそれほど冷たく感じなかった。不審に思ってレーナがアビゲイルの手をさわると、びっくりするほど熱いではないか。
「アビー、熱があるわよ」
「そう?」
アビゲイルは手を額に当てて、首をかしげた。
「ないと思うけど」
「アビーは手も熱くなってるから、自分の手をおでこに当ててもわかんないと思う」
レーナはため息をついてアビゲイルの額に手を当ててみたが、やはり熱かった。
「ほらね。やっぱり熱がある」
部屋で少しだけ休んでから、レーナはアビゲイルに付き添って医務室へ向かう。医務室内は、いつもなら常勤の医師と助手しかいなくてがらんとしているのに、この日は珍しく先客がいた。その先客は、学年の違う男子学生だった。アビゲイルと同じように顔色が悪く、つらそうだ。
レーナとアビゲイルが入室したのに気づくと、助手は片眉をつり上げてみせた。
「おやおや。今日はまた、お客さんの多い日ですね」
先に男子学生が医師に呼ばれて、診察室に入って行った。助手は残されたアビゲイルを椅子に座らせ、いくつか質問しながら手もとの紙に書き付ける。
「診断できるのは先生だけなので私からは何とも言えませんが、今日は同じような状態の学生さんが何人か来ています」
アビゲイルで四人目だと言う。医務室に併設されている休憩室のベッドで、すでにふたりが休んでいるらしい。男子学生も診察が終わると休憩室に入って行った。
アビゲイルの診察が終わると、休憩室で休んで行くように指示された。診断は食あたりで、二、三日の休養が必要とのことだった。
「アビー、消灯前の点呼は代わりにやっておくから、ゆっくり休んでね」
「うん。ありがとう」
心配で後ろ髪を引かれる思いだったが、これ以上この場所にいてもレーナにできることは何もない。とぼとぼと自室に戻り、勉強を再開することにした。
何とも気の滅入る一日の始まりだったが、後になって思い返してみれば、これはまだほんの序の口に過ぎなかったのだった。




