未来を視る者 (4)
ランベルトから侯爵に紹介されるとすぐに、前日のヨゼフの提案について話し合いが始まった。侯爵はすでにランベルトからひととおり説明されているようだった。
このときから、ヨゼフの人生を一変させる怒濤の日々が始まる。
まず手始めに、侯爵はヨゼフが船員として働いていた船を買い取った。それだけでも思い切りのよさに度肝を抜かれたのに、船主の名義をヨゼフにしてしまったのにはもう絶句するほかなかった。弱冠十九歳、身寄りのない孤児上がりの船主の誕生である。
なぜ名義をヨゼフにしたのかと侯爵に尋ねると、こともなげにこう答えた。
「だってもうじき死ぬ人間の名義にしたら、死んだ後のことが面倒じゃないか」
侯爵とは接点のない人間の名義になっていることが肝要なのだと言う。ここまで来たら乗りかかった船だ、最後まで付き合おう、とヨゼフは腹をくくった。
その日からというもの、毎日それはもう目の回るような忙しさだった。
にもかかわらず、残された時間は決して多くはない。
囮の馬車用のルートを決めたり、侯爵一家の人数分だけ等身大の人形を用意したり、うまく馬車を岸壁から落とすための細工をしたり、御者が馬を切り離して逃げられるような細工もしたり、外部の者に気づかれないよう出入りの御用聞きの振りをして荷物を持ち出したり、やらなくてはならないことはいくらでもあった。
そうして迎えた決行日、侯爵一家は使用人に扮してひとりずつ裏口から歩いて外に出て、路地裏に停めてあった荷馬車に乗り込んだ。その荷馬車で船まで移動し、無事に海路で国外脱出を遂げたのだった。
翌日出発した囮担当も、馬を回収して無事に逃げおおせていた。
シーニュ王国からオスタリア王国へ逃げ延びた一家は、ハーゼ領で平民として生活を始めた。収入源はヨゼフ名義の船を使った海運業だ。名義をそのままにして、ヨゼフが代表を務めることになる。「死んだ人間が表に出る仕事をするわけにはいかないから」と頼まれれば、ヨゼフには断る理由がなかったのだ。
囮を担当した男も、母国に戻ることなくそのままヨゼフたちのもとで働くことを選んだ。
この件に関して、元侯爵はヨゼフに固く口止めをした。もとより余計なことを口にするつもりはなかったが、ランベルトも含めて決して誰にも話さないよう強く念を押された。何かあったときに万が一にも巻き込むことのないように、との配慮だった。
だからヨゼフは、ランベルトにも何も話さなかった。そしてランベルトも、ヨゼフに何も尋ねなかった。おそらくは察していたに違いないのだが、一度もあえて話題にすることはなかった。
数年後、一家にかけられた冤罪が母国で晴らされたとの知らせを聞いた。しかし、彼らは母国に戻ることを選択しなかった。冤罪が晴らされたとは言っても、真犯人が明らかになったわけではなかったからだ。誰がどんな理由で彼らを陥れたのかが判明していない以上、死んだことにしたままでいるのが安全だと判断したのだった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「────と、そんなわけです」
「なんと……」
リヒャルトは声を詰まらせてしばし沈黙した後、恨みがましい視線をヨゼフに向けた。
「なぜ今まで教えてくれなかったんだ」
「陛下も絡んでいたとは知らなかったもので」
しれっと返すヨゼフに、リヒャルトは深くため息をついた。
「今度また詳しく話してもらうぞ」
「いいですよ。今は事情が事情だし、親父────あ、いや、元侯爵もダメとは言わんでしょう」
ヨゼフは学生たちの顔ぶれを見回してから、リヒャルトに向き直った。
「で、要は、陛下からの情報のおかげでちゃんと救われた命があったってことです。俺みたいな学のない小僧の思いつきでも何とかできたんですから、優秀な学生がこれだけ揃ってたら、学院内のことはどうとでもなるんじゃないんですかね」
「ああ、そうだな。そう願いたい」
リヒャルトはヨゼフにうなずいて見せてから、ハインツに向かって指示を出した。
「では、学院内で起きることの対応はハインツ、お前に頼もう」
「はい」
「何か動くときにはその都度、学院長に相談しなさい」
「わかりました」
学院長にも同じように指示を出す。
「学院長、あなたには子どもたちの監督を頼むよ。必要そうなら、手助けしてやってくれ」
「かしこまりました」
続いてレーナの知らない恰幅のよい男性に向かって、「レーナの夢記録」の本を見せながら声をかけた。
「オイゲン、これを印刷して、ここにいる人数分用意するには何日かかる?」
「その分量だと、通常は納期までひと月ほどいただきます」
「ひと月か……。遅いな。最短だとどれだけでできる? 費用は問わない」
「頑張って二週間ほどかと。ですが、もっと短縮したいのですよね?」
「そうだな。可能ならそう頼みたい」
オイゲンはあごをさすって、問いかけるような視線をアビゲイルに向けた。
「そういう話ですと、娘のほうが詳しいのですが……。アビゲイル、どうだい?」
オイゲンと呼ばれたその男性は、アビゲイルの父だったらしい。
突然話を振られたアビゲイルは少しだけ驚いた表情を見せたが、すぐに落ち着いた声で返答した。
「費用と仕上がりを度外視してもよいなら、方法はふたつ考えられます」
ひとつの案は、先に二部または三部だけタイプライターで作成する方法。
ただしタイプライターの場合、一度に作成できる部数がカーボン複写を使っても三部が限界で、しかも複写された方はどうしても薄くなる。それを許容できるなら、複数のタイピストを手配して人海戦術で作業すれば、簡易製本のものを二日ほどで作成可能らしい。
その後に、通常の工程で植字、組版してから製本し、指定部数すべてを納入する。しかし二度手間になるので、タイプライターで作成する分の費用がそっくり余計にかかることになる。
もうひとつの案は、いくつかに分割して順に活字にしていく方法。
通常は三回繰り返す校正作業を一回しか行わずに印刷し、製本せずに紙束の状態での納入でもよければ、最初の数ページ分は三日ほどで印刷可能だろうと言う。
「通常なら品質を犠牲にする案は出さないのですが、今回は多少のことに目をつぶってもすぐに必要であろうと判断しました。いかがでしょうか?」
アビゲイルの説明が終わると、リヒャルトはオイゲンに向かって片眉をつり上げて見せた。
「なんと優秀なお嬢さんだ。オイゲン、先が楽しみだな」
「はい、自慢の娘でございます」
オイゲンは人の好さそうな丸顔をほころばせた。