救世主はいないんだ
独りが怖いんだ。君と話さないことは自分で決めたことなのに、どうしようもなく寂しい。このクラスの奴らはみんな知らない顔をしているんだ。みんな怖くて誰にも何も言えなくて、だから僕を無視するんだ。関わりたくないのは解るけど、先生に告げ口くらいしてもいいだろ。でも救世主はいないんだ。ただひとり、君だけが僕の救世主なんだ。でも今は助けを求められない。君の道を邪魔できない。
放課後、麻央は急いで屋上へ向かった。
弘と過ごした時間は全てが楽しくて幸せな時間として置き換えられている。
麻央は清々しい気持ちで屋上のドアを開けた。
勿論そこには誰もいない。遠くから運動部の声が聞こえるだけだ。
改めて屋上の柵に掴まり下を覗く麻央。
五階部分にあたる屋上からの眺めは一軒家にしか住んだことのない彼女の足をすくませた。
校庭側ではなく、通学に使う道が通っていた。
当たり前だが、人も車も小さく見える。落ちたら一巻の終わりだ。
「こわっ」
麻央は小さくそう呟くと方向転換し、塔屋の裏のタンクを上り始める。
そして「せーの!」という掛け声と共に大きくジャンプした。
きっと弘はいる。麻央はそう信じていた。
しかし、着地に成功した麻央を待っている者はいなかった。
「早く来すぎちゃったかな」
麻央はスマートフォンで時間を確認した。
いつもなら弘を見付けられないことに愕然としている時間だ。
つまり、いつもなら弘はこの塔屋の上にいたといえる。
でも、そこに弘の姿はない。
若干の不安が走る。しかし麻央はそこで弘が来るのを待つことにした。
床に体育座りをしてスマートフォンのゲームアプリを起動させた。
余計なことは考えないよう、麻央はゲームに集中した。
校舎を、屋上を、麻央を西日が照らす。
部活を終えて帰る生徒の声とタイミングよく鳴るチャイム。
目も、手も疲れた麻央はスマートフォンを床に置き、足を抱えて顔をうずめていた。
何時間待っても弘は現われなかった。
一人の時間を邪魔したことで弘に嫌われたと考えるしかない麻央。
何故か涙が溢れた。
そんなたいした関係でもないのに。
ただの気になるクラスメートだっただけだ。
心配していただけだ。
そう思えば思うほど、麻央の胸は苦しくなった。
翌日、弘は何事もなかったかのように普通に教室の角の自分の席に座っていた。
麻央も何事もなかったことにして友人と語り合った。
昼休み、麻央は昨日まで追いかけていた弘のことを追わなくなった。
「麻央ちゃん、今日は行かないの? 」
「……うん」
「どうして? あんなに必死だったじゃん」
「……うん」
会話にもならない会話。手が進まないお弁当。
「失恋したの? 」
「……うん」
綾奈と詩織は顔を見合わせて首をかしげた。
そんな日が何日か続いた。
麻央の気分は晴れないままだった。
学校へ来て、勉強して、友人の話を聞いて、でもあまり笑顔になれなくて。
当たり前の何もない平和な日々なのに、麻央は物足りなかった。
まるで薬物のように弘に取り付かれた麻央は、弘から受けるあの刺激が欲しくてたまらなかった。
だから、麻央は諦めるのをやめた。
ある日の放課後、彼女は覚悟を決めた。
「綾奈、詩織」部活へ向かう二人を麻央は呼び止めた。
「麻央ちゃん、またどうかしちゃった?」
綾奈は優しく声を掛けてくれた。詩織も心配そうに振り返る。
「なんか、心配かけちゃったみたいでゴメンね」
「そんなことないよ。……まあ、心配はしたけど」ニコッと笑う詩織。
「ありがとう。でも、もう大丈夫だから。失恋しても元気で帰ってくるから。だから、そのときはよろしくね」
二人はその発言の理解に苦しんだが、笑顔で「うん」と答えた。
その返事を聞くより早く麻央は教室を飛び出した。
長い廊下、長い階段を全速力で走る麻央。
廊下を走ってはいけませんという学級委員の真面目な麻央はそこにはいなかった。
そこにいるのは野心に溢れ、自分の欲を満たしたいだけの恋する少女だ。
屋上のドアを蹴り開けて叫んだ。
「手塚さーん! 私と仲良くしてー!」
息が切れてフラフラになる麻央。
しかし、返事はなかった。
でも、今の麻央は無敵だ。
タンクを勢いよくよじ登って、大きくジャンプする。
そして麻央はやっと彼女を見付けることができた。
フッとため息をついて微笑む麻央。
弘は鞄を枕にして床に寝そべっていた。
起きているのか寝ているのかは解らない。目を閉じて耳にイヤホンを付けていた。
麻央はそっと弘に近づく。
弘の手にはあのガラケーが握られていた。
そしてイヤホンの先にはスマートフォンが繋がれている。
漏れ聞こえる音楽。
麻央は弘のイヤホンの片方をそっと外した。
驚いた様子で目を開く弘。
「へえ、手塚さん、こんな曲聴くんだね」
弘から奪ったイヤホンを自分の耳に入れ、麻央はそう呟いた。
「えっ……ちょっと、君、えっと……」
「篠原麻央です」
珍しく動揺する弘に、麻央は笑顔で応えた。
「そうだった……」
弘はゆっくり起き上がり、片耳のイヤホンを外した。
そして麻央の顔に手を伸ばし、彼女に奪われたもう片方のイヤホンを回収した。
弘の手が耳たぶに触れてドキッとする麻央。
「篠原さんてさ、すごいね」
「何が?」
「解ってたでしょ。私が無視してるの」と弘は言った。
「……やっぱり無視されてたんだ」笑う麻央。
「いつだったか、ここで親しみ見せておいて、わざといなくなった。そうやって上げて落としたら、もう来ないって解っていたから」
「そうだね」
床に座りながら二人は話を続けた。
「でも、篠原さんは違った。時間は空いたけど、またここに来た」
弘は左手に持っているガラケーを握りしめた。そして続けた。
「どうして? 私は一人が好きなだけで、心配してもらわなくてもよくて、それに君を傷付けるようなことをしたのに……」
「私も解らないんだ。手塚さんの邪魔になっていることとかは理解出来ているのに、どうしても手塚さんに会いたい、話がしたい、側にいたいって思っちゃうの。恋みたいな不思議な感情が私を動かしちゃうんだよね」
「恋……?」
うつむいていた弘は顔を上げて麻央の方を見た。
「変だよね。女の子に恋なんて」
麻央も弘を見つめた。
「いや、変ではない。性別なんて関係ないと思う。この国は少し遅れているけど、同性の夫婦は世界にたくさんいるんだ。一夫多妻制なんてのもある。日本はようやくLGBTについて考え始めたけど、そんなに難しい問題じゃないんだよ。つまり世の中には多種多様の人間がいるってこと」
突然熱く語り始めた弘は、最後にこう付け足した。
「私はバイセクシャルだから、同性に恋する気持ちはよく解るんだ」