だから僕は逃げない
生きることの大切さを教えてくれた二人の女性に捧げます。
これはきっとゲームなんだ。負けてなるものか。僕は勇者だ……。だから僕は逃げない。君を絶対に守るんだ。
「勇者は負けたのか……」
桜が風に吹かれて散りゆく。高く舞った花びらは校舎の屋上にまで運ばれた。
「さくら……」
艶のある黒髪に絡んだ桜の花びらをつまみ、少女はまた独り言を呟いた。
都立角野高校の屋上の更に突き出した塔屋の上で彼女は寝そべっていた。
ボルドー色のブレザーにグレーのチェックのスカート。
鞄を枕にし、長い足を組んで横になっている姿は女子というより男子に近いものを感じさせる。桜が迷い込んだ黒髪も頬に髪がかかるくらいのショートカットで、何より美しかった。
春と言ってもまだ肌寒い。しかしその場所は四方を低い屏のようなもので囲われており、身体を横にすると丁度冷たい風が当らない造りになっていた。太陽の暖かな日差しだけが降り注ぐ、まるで隠れ家のような居心地の良い空間だった。
手塚弘は一週間ほど前に角野高校の二年に進級した。
一年の頃、この塔屋の上を見つけてから休み時間は毎日ここで過ごしている。
訪ねてくる者は誰も居ない。
いつもたった一人。弘には友達と呼べる存在がいないのだ。
整った顔立ち、高身長、マネキンのようにスラっとしたスタイル、誰もが憧れるルックスはすれ違う人々を振り向かせる。
それほど華があり、人を引きつける魅力を持った彼女なのに高校に入学して一年、クラスメートにも教師にも必要最低限の会話しかしてこなかった。
自らの存在を否定して、わざと他人と接点を持たないようにいるかのように、弘は孤立を選んでいた。
それは彼女が望んだことだ。
しかし、その孤独な高校生活も終わりを迎えようとしていた。
もう直ぐ昼休みが終わる。
弘は枕にしていた鞄に弁当箱とスマートフォン、読みかけの小説、そしてずっと握っていた汚れてくすんだブルーのガラケーをしまった。
「手塚さん、今日も昼休みどっか行っちゃったの?」
弁当箱を片付けながら、篠原麻央は友人に問いかけた。
「麻央ちゃん、クラス替えの日から手塚さんのことばっか気にしてない?」
向かい合って座っている渡辺綾奈はそっけなく返事をした。
「だって、二年になってからずっと居ないじゃん。いじめとかにあってるのかもしれないから心配なのよ」
同じく机を囲んでいた野村詩織は鼻で笑ってから話し出した。
「私、一年のときから手塚さんと同じクラスだったけど、昼休みはいつもいなかったよ」
「もしかして便所飯?」
食らいつく麻央の顔はゲテモノを見たときのようだった。
「それはないと思う。いじめられている感じはなかったし、ただ一人でいるのが好きなんじゃない? クールでかっこいいってクラスの娘からも人気あったから。手塚さんのこと知りたいなら相澤軍団に聞いたら? 彼女たち、同じ中学だったみたいだよ」
「相澤軍団……。相澤さんって、あの相澤加奈子?」
「そ、私また同じクラスになっちゃった。麻央と同じクラスになれたのは良かったんだけど」
詩織は机を直しながら麻央に投げキッスした。
「麻央ちゃん知ってたんだ、相澤さんのこと」
全く机を直そうとしない麻央を見かねて綾奈も詩織の手伝いをし始める。
「だってあの人有名じゃん」
「ギャル雑誌の読者モデルだもんね」綾奈が続く。
「そそ、アイカナ。美人で家も裕福で、誰も彼女に太刀打ちできない感じ」
ぶっきら棒に話す詩織を見て、麻央は硬直してしまった。
「無理だよ。そんな人と話すのなんて無理」
「だから手塚さんのことなんて気にしなくていいんだよ。麻央ちゃんは真面目で優しすぎるんだから」
綾奈にそう言われて麻央はなんとも言えない気持ちになった。
麻央は昔から変わらない自分の性格について良いことなのか、悪いことなのか、はっきり答えを出せないでいた。
会社員の父とスーパーマーケットでパートをしている母、小学生の弟とのごくありふれた四人家族。
面倒見のいい性格で、中学のときは学級委員をしていた。
いつも真面目だね、誰にでも優しいねと言われ続けてきた。
周りからのイメージを変えたい。でも、変えるのも怖い。そんな迷いで、高校も同じ中学の出身者が多い場所を選んでしまった。
麻央が高校生になって唯一変えられたのは黒髪の三つ編みからセミロングの目立たない茶髪にしたことだけだった。
「あっ、手塚さん戻ってきたよ」
綾奈がこっそりと麻央の耳元で呟いた。
何故か慌てて立ち上がる麻央。
教室の前の入り口から入ってきた弘は麻央の席の隣を通って、窓側の一番後ろにある自分の席に着席した。
麻央はドキッとした。一瞬、弘と目が合った気がしたからだ。
ゆっくりと後ろを振り返り弘を見つめる麻央。
「麻央ちゃん、どうしたの?」
綾奈の声は耳に入っていなかった。
そして麻央は歩き出した。
驚きの表情を浮かべたのは綾奈と詩織だけではなかった。相澤加奈子を含むその場にいたクラスメートのほとんどが視線を一点に集中させていた。
「あ、……あの、手塚さん?」
麻央の声に校庭を眺めていた弘が顔を上げる。
「あの、……私、篠原麻央っていうんだけど。同じクラスの……」
「……」
弘は言葉を返さず、ただ動揺している麻央を見ていた。
「あのね……」
「……何?」
弘の少し低くてハスキーな声と会話が成立した喜びに麻央は一瞬立ちくらみがした。
「えっと……。明日から……明日からさ、一緒にお昼ご飯食べない? 昼休み、一人なんでしょ?」
二人の会話に注目が集まった。
「ありがとう。でも、ごめん。私は一人がいいんだ。トイレで食べてる訳じゃないから、大丈夫だよ」
まるで麻央たちの会話を盗み聞きしていたかのような回答をする弘。
そして一匹狼の噂からは想像もつかない優しくて温かい喋り方に麻央は心を打ち抜かれた。
「そうなんだ……」
しかし断られたことは正直悔しい麻央だった。
午後の授業が始まる。
麻央たちは急いで自分の席に戻った。