『此処は何処、私は誰』状態になってしまった。
頭がぐらぐらする。何故私は床で寝てるのだろうか。
頭痛を堪え、目眩に気持ち悪くなりながらも頭を上げると、急いで駆けつけたのだろう少女と若い女性が、必死に声を掛けていたことに気付く。
「お嬢様、お嬢様!気が付かれたのですね!」
「直ぐにお部屋へ参りましょう。」
失礼しますと言い、女性は私を横抱きに抱えて部屋に向かった。軽々持ち上がる幼女とは違う私を、細く見える腕で横抱きするなど、意外と腕の筋肉があるのかもしれない。
建物内では、足首まである黒のワンピースに白のエプロンを付けた女性が数人居た。私を抱えている女性や少女とは違う服装だ。
部屋に着くまで女性が何者か考えたが思い出せず、ならば少女はと見やるとシンリーだと頭に浮かんだ。何故この少女がシンリーだとわかるのだろうかと考え、頭痛がして考えるのをやめた。
みな心配そうな顔で私を窺い見ているので、悪い様にはされないだろうと身を任せた。
部屋へ着くとベットに寝かせてくれ、シンリーが一度部屋を出て、暫くすると氷を巻いたタオルを持って戻って来た。
「お嬢様、大丈夫ですか?
ぶつけたところを冷やしますね。」
そう言ってシンリーは優しくたんこぶを冷やしてくれた。冷んやりと気持ちが良く、目を瞑って気を落ち着かせた。
目眩や痛みが引いてくると、なされるがままだった私はふと、ここどこだろう?何故頭を打ったんだろう?と考える様になった。
此方を窺う様に見て、強く打たれたのでしょうか?と女性は心配気に呟き、
「ここはお嬢様のお部屋ですよ。
急に倒れられて驚きましたが、直ぐに起き上がられてほっと致しました。」
と優しい笑顔で教えてくれた。
思っていたことが口に出ていたらしい。
やっと周りを見渡せる余裕が生まれて目をやると、とても広く、綺麗な部屋で驚愕した。手が触れたシーツは肌触りが良く、天蓋が付いたベッドは不思議と落ち着いた。
ノックの音がして反射的に返事をすると白衣を纏った男性が現れた。グレーの髪を後ろで纏め、丸眼鏡の奥にはやや目尻がさがった黒い瞳がある。40歳ぐらいの恐らく医師であろうその男性は、低く穏やかな声で問いかけてきた。
「お加減は如何ですかな?」
小さい声で大丈夫とだけ答え、肌触りの良いふかふかの布団を口元まで持っていき、小さくなる。
自分の事も今の状態も把握しておらず、害されるような雰囲気ではないが、囲まれる事に自然と自分を守る体勢になったのだ。
「リアリナールお嬢様、頭を打ったとシンリーから聞きましたので診察に参りました。」
低く穏やかな声色で言われ、私はリアリナールと言うのかと思い、ふと自分の名前が分かっていなかった事を自覚した。
自覚すると不思議なことに、リアリナールという名前が自分のものだと頭に浸透してくる感覚がある。
打身やたんこぶの処置を一通り終えてから自分の名前などが分からない事を伝えると、部屋に居た者達はみな驚愕の表情を示した。
医師が先程よりやや詰め寄る様に前屈みになり、名前や年齢、家族構成、今日の日付、今いる場所などを一つ一つ質問してきた。
その問いに答えれるものは先程分かったリアリナールという名前だけだった。
「そんな…!」
「お嬢様…」
シンリーは声を上げ泣きそうに顔を歪めてから俯き、女性は口元に手を当て痛ましそうに見つめる。
「私はタルマラス・トランダルヤ。この邸の専属医師です。此方の女性は侍女のマリーサ、少女の方はシンリーです。」
「マリーサ・セイトンと申します。お嬢様の専属侍女でございます。」
マリーサは白い肌に赤い唇が映え、臙脂色の髪を後ろでシニヨンで纏めている。首元から足首までの濃いグレーのAラインワンピースでウエスト部分はリボンで締まっていた。
「お嬢様、見習い侍女のシンリー・ウエスタンです!
記憶を無くされても変わらずずっとお側におります!」
オレンジの瞳を向けて、元気な声でそう宣言してくれた。淡いピンクの髪を落ちない様にしっかり編み込みして、マリーサと同じ様な型の黒色のAラインワンピースを着ている。マリーサとの色違いが可愛く感じた。シンリーの名前だけは覚えていたので、嬉しい宣言ににっこり微笑んだ。
「貴女はリアリナール・セントビウス。
シリウセス・セントビウス辺境伯様の一人娘です。
ご家族はお嬢様と旦那様のお二人で、奥様はお嬢様が六歳の頃にご逝去されました。」
そこまで教えてもらうと突然ノックと共にドアが開き、部屋に焦った声が響いた。
「リア無事か!」
背が高く、体格の良いその男性は、精悍な顔立ちで、吸い込まれる様な澄んだ紫の瞳、目立つショートの銀髪は慌てて来たのだろう少し乱れており、色気が滲み出てるよう感じた。トランダルヤ医師より低く、良く通る声だ。
「リア?」
何も応えない私を怪しむように見やり、焦れた男性は側に居たトランダルヤ医師に目を遣り、状況を報告するよう促した。
「お嬢様は記憶喪失になっておられます。」
「リアが?どういうことだ?」
銀髪の男性は不可解だというような顔で私とトランダルヤ医師を交互に見て口を開いた。
「記憶喪失とは本当にあるものなのか?」
不可解だという顔は記憶を失くす人間がいる事を信じられないということか。この男性に理解されなくても別にいいのだが、そんな顔を向けられると私が嘘をついているようで気分のいいものではない。
「旦那様、記憶喪失という症状はございます。」
相手に伝わる様にゆっくりと、そしてはっきりとトランダルヤ医師は伝わるよう続けて説明した。
「脳をぶつけたりした事故による外傷性、脳の病気による内因性、ストレスによる心因性、大きく分けて3つの原因がありますが、お嬢様の場合は初めに挙げた外傷性でしょう。それにより、記憶障害に陥っております。」
発言宜しいでしょうかと、私にずっと付きっきりだった侍女のマサーリアが今までの私の行動を話した。
「今日は天気が良くバラも綺麗に咲いておりましたので、お嬢様がお庭でティーブレイクをしたいと仰いました。一人でゆっくりしたいとのことでしたので、私たちは邸のところまで下がり、お嬢様はバラを眺めておられました。暫くすると突然倒れられ、駆けつけると意識が無かったものの、すぐに起きられお部屋までお運びし、トランダルヤ医師に診ていただきました。」
私が倒れる前の状況を教えてくれ、何故倒れたのだろうと考えていると、倒れられてからはいつもよりとても大人しく別人の様でした、と続けたマサーリアの言葉に、前の私に対して少し酷いのではないかと思った。
銀髪の男性は私を見ながら話を聞いていたが、私がいつもと何処か違うと感じたのだろうか。記憶喪失を信じはじめている感じがする。
「リア、では私の事もわからないのか?」
コクンと小さく頷くと男性は絶望した様な顔になった。
私をリアと愛称で呼んでいるので私に近しい存在だったのだろう、申し訳なく感じた。
「私はシリウセス。リア、お前の父親だ。」
目線を合わせ、低く良く通る声で幼な子に聞かせる様に名前を教えてくれた。