第八話
八話目です
誤字・脱字があったら申し訳ありません
一体どれぐらい前に終わらせたかも分からない授業を流していれば、差し込む日の色は茜色に染め上げられた。
これまた馬鹿共の偵察に付き合わされながら学院を出て、寮に着く。
そのまま時間は流れ、窓が切り抜いていた王都の茜は、黒に取って代わられた。
部屋でコルファの制服から他に寝間着に当たるような物が無いために外行き用の服に着替えて、テーブル傍の椅子に腰掛ける。
次、休み明けの学院はどうするか。
それをぼんやりと考えていると、きちんと学院に行ってやったというのに、担任が思い惑ったような声を扉の先から聞かせてきた。
「は、入るよ?」
どうせ断っても、鍵は未だ奴の手にあるのだ。渋々ながらも「あぁ」と応えた。
「クー、開けてくれる?」
「りょーかーい」
クーシル、あいつもいるのか。
開けられた扉から最初に入ってきたのは、当然クーシル。
昨日も見た、俺が着させられていたのと同じデザインのジャージを崩して着ている。何枚か持っているのだろうか。
続いて、大量の書類を両手で抱えた担任。
こちらは自前なのだろう、薄手のカーディガンが羽織られた寝間着。
抱えた書類がゆらゆらと左右に揺れれば、同じようにそれの余った部分がひらひらと揺れる。
「んしょ…っと」
「あ、とと、ミーせんせ落ちたよ」
俺の目の前、テーブルにその書類の塔がドスッと重そうな音を立てて置かれる。
その際、塔からひらりと離れた一枚の紙を、床に落ちる寸前でクーシルが掴んだ。
「ナイスキャッチ」
「へへー♪」
「急に来てなんだ、これは」
褒められて骨が抜けたような笑顔のクーシルか目を逸らし、書類の塔がここに築かれた意味を求める。
俺の目に写った担任は、言うのを少し躊躇うように顔を苦くさせながらも、えっとねと口を開いた。
「補助の申請の紙なの」
「補助?」
「うん。あの…学費のね。ランケくん、親御さんとその…ね?でしょ?だから、学費も自分で払わないといけなくなっちゃってるの」
そういうことか。
父が俺の学費を払わなくなった。となれば、次につつかれるのは俺。なるほどな。
暗い顔してこいつが喋っているのも、生徒にそこを迫ることに教師として抵抗があるからだろう。ともすれば、金の催促をしているようにも思える。
「で、でもね、学院とか王国でも、そういう人に対しての補助はちゃんとあるから!これがそれの申請の紙で、名前、全部に書いてって欲しいんだけど…」
担任が自分のポケットに掛けていたペンを、かたりと俺の前に置く。
そのペンを、あぁ分かったと取ることは出来なかった。
「…」
この紙に名前を書いていくという事は、学院に、ネカスにこれからも通うという意思表示になるのだろう。
今日行って確信した。
ネカスに居て学べる事など無い。
ただ屈辱という傷を、治ることなく痛ませ続けるのみだ。
「…書かないの?」
動きを止めた俺の顔を、不思議に思う目の色の担任が覗き込んでくる。
屈辱の傷か、宛もない彷徨いか。
これがネカスへの従属を示す紙だと思うと、手が震えてくる。
しかし、書かねば宛もなく彷徨い、野垂れ死ぬだけ。
昨日も感じた、死への恐怖。
あの家がまだ帰る場所だった頃は、死なんて、まるで感じた事が無かった。
それが気付いた頃には、隣で手招きをしながら笑んでいる。
本当に、どうしてこんな事になったのだ。
口に出す気にもならないやるせなさ。
嫌悪が絡み付いた手でペンを取り、書類の一番上の紙を塔の一番下と同じ高さまで下ろす。
すると、担任のほっとしたような吐息が聞こえた。
一枚一枚、書類に自分の名前を震える手で書き、それを横に退け、もう一つの塔を別に作り上げていく。
そんな事を数分していると、いつの間にか人の部屋の窓際を陣取っていたクーシルが、俺に声を飛ばしてきた。
「いま着てるの、それパジャマ?なんか、外用っぽい感じするけど」
「現にそれ用だからな」
「寝にくくない?パジャマ無いの?」
そう言って人のクローゼットに寄ったかと思えば、問答無しにそこをぱたりと開けるクーシル。
物の掛けられていない中を見て、はーとなんだか分からない声を吐く。
「おう…見事に空だ…」
「人のを無断で開けるな…」
「服もだけど、お皿とかも新しいの買わないとだよねー、ミーせんせ?」
上半身をこちらに捻るが、クーシルの目の先は注意をする俺ではなく、だねと頷く担任。
「どうしよっか?早い方が良いし、明日は…アレだから、明後日とかにする?皆でさ」
「やったー!二人にも伝えとくね!」
「俺の物を買うのだろう。何故全員で行く…」
服だ何だを買い足す事はさらなるネカスへの迎合になりかねないが、少なくとも、寝間着ぐらいは欲しいのが本心。
これで寝るのは無理があると、馬鹿共に言われなくても気付いている。
だとしても、何故わざわざあいつらも連れて行く必要があるのか…。
俺の目が捉えたのは担任だったが、返事を一番に返してきたのはクーシル。
どうしてこうも話の相手が上手いこと噛み合わない…。
「いーじゃん、そっちのが楽しいんだし。あでもせんせ、お金は?うち、そんな早く灼熱のバイト代出せないよ?」
「おい、その呼び方…ん、いや、それよりなんだ、バイトというのは」
灼熱のバイト代。
要するに、俺が働いて手に入れる金があるという事。
だが、俺にそんな予定、知る限りは無い。つまり、俺の預かり知らぬ何かがあるという事だ。
ぴたりと手を止め、担任に問う。
「あ、えっとね?後で話そうと思ったんだけど、補助だけで全部払うっていうのはやっぱりちょっと無理があって。だから…」
続く筈の言葉を、こちらに向かって歩いてくるクーシルが代弁した
「明日から、うちの店のバイトだから」
「は…俺が…か?」
「そ」
肝心の所をクーシルが端的に言い終えると、担任がまた口を開く。
「学費の補填もそうなんだけど、やっぱり、君も学生なんだしさ、自由に使えるお金とかあった方が嬉しいでしょ?」
さも自分は学生の気持ちが汲めていると、良い案でしょと穏やかに微笑む担任。
「俺が…誰だか知らない奴等の為に働く…?」
「苦手なのは分かってるよ。ちゃんとあたしが一から教えるから」
俺は一体、何処まで落ちていけばいいのだ…。
誰だか知らない奴の為に、この俺が汗を流せと?名も知らない、味も凡庸なパン屋で?
「下手な冗談か…?」
「いや?ほんと」
学費の事もある以上、どうやらその話は既に決定事項らしい。
二人のどちらも、俺の意思をまるで求めて来ない。
俺を放って、話を一旦脇に退けられた明日の事に戻していた。
「それでせんせー、服とかのお金どうするの?」
「私、出すよ。家賃いらないから、お給料ちょっと余っちゃってるんだよね」
「お、せんせーやっさしー」
「茶化さないの。バイトの話終わったし、もう部屋に戻ってても大丈夫だよ。ごめんね、遅いのに呼んじゃって」
「んーん、別に。じゃ灼熱、バイト忘れないでよ?明日迎え行くからさ」
聞き違いではないと、クーシルの口がもう一度俺に告げてくる。
「俺が…バイト…だと?」
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「ふっ…くふっ、に、似合ってる…!あーっはっはっはっ!」
バイトという言葉をいまいち飲み込めないまま、次の日の朝。
あれよあれよとクーシルに連れて行かれ、着させられていたパン屋のエプロン。
従業員用らしい…というよりもまぁ、こいつらがほとんど家として使っているのだろう一つの部屋で、俺のエプロン姿を見た、後ろに自分の親を立たせたクーシルが自分の腹を両腕で抱えてひーひーと笑う。
そこに上品さなど全く感じられない。汚い下衆の笑いだ。
「本当にやらないとなのか…」
独り言の最初に、ちっと舌打ちが出る。
「ひー面白い…!ふっ、ぶふっ…」
「もうクー、笑っちゃダメよ?」
笑う馬鹿を咎めるのが、その母親。
どうやったらこの母からこいつが生まれるのか。ふんわりと垂れる髪には緩やかにウェーブが掛けられている。
発せられる穏やかな声と向けられる落ち着いた眼差しは、隣の父にも備わっていた。
「はーい…ふっ」
流石の馬鹿も親に言われれば控えるようで、抑えられてこそいないが、その努力はする。
「君が、ランケ…くん?名前、合ってる…わよね?」
「…あぁ」
クーシルの母親が一歩、俺との距離を詰めてくる。
柔和そうに見えるその顔に、会えるかも分からなくなった俺の母親の顔が被る。
尤も、あの人はもっと、常に息苦しくしていたが。
「大体の事はクーから聞いたわ。今日からバイトさんとしてよろしくね?人手、丁度欲しかったの♪」
俺の顔を急に身を屈めて覗き込み、穏やかに口元を緩ませたクーシルの母親。
話を聞いた上で、俺を、この腫れ物を雇ったのか。
あまり似ていない家族だと思ったが、どうやら見間違いだったらしい。
「…ふん、分かっててとはな。子供同様に相当な馬鹿だな」
「あら」
姿勢変わらずで、馬鹿の母親の目は隣に流れる。
「クー、お仕事、ちゃんと教えてあげるのよ?」
「分かってる。ていうか、よく今の『あら』の一個で済ませられんね…」
クーシルは何回も言われたと、うんざりとしたトーンで言葉を返す。その先に畏怖するような顔を見せていたが、クーシルの母親は「うふふ♪」と軽く微笑むだけだった。
と、父親の方が周囲をぐるりと見回す。
「そう言えば、先生も来るんじゃなかったのかい?挨拶、しとこうと思ってたんだけど…」
「あー、うん。ちょっと色々ね」
「色々?」
「ん、色々」
「そっか」
思い返してみればあいつ、書類を書き進めている時に付き添いで行こうかなと言っていたような記憶がある。
それを今日になって取り止めた理由は知らないし興味もないが、この醜態を見られる人間が一人減ったのであればまぁ…いや、一人減ろうが苦痛は全く変わらない。
「そろそろ時間じゃない?」
時計を確認したクーシルに言われ、クーシルの親はじゃあと開店の支度を始め出す。
パンは既に焼き上がっているらしい、この部屋にはその香りばかりが充満していた。
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さして広くもない、如何にもありきたりと言った感じの店の中。
暗い色合いの木の棚には焼き上がったばかりのパンがずらりと整列し、それをカラコロとドアベルを鳴らした客が、入り口でトングとプレートを持って物色していく。
俺の頭にあった、まさしく平民が使うパン屋という光景。
そこで気が気でない状態で、ちらちらこちらを監視してくるクーシルと二人、離れた距離感で立っていた。
心落ち着かない原因は、店の壁。
客の目がふらりと止まるのを目的にしてだろう、壁の一部が広くガラス張りになっていて、その奥の街路を通る人間が自分の顔見知りではないか、万が一にもコルファの奴等ではないか、全く以て落ち着かない。
馬鹿の両親は、共々追加のパンを作っているらしい。
奥に見えるかまどの備わったキッチンで、ちらりとどちらかが見えたかと思えば、焼き上がりのパンの香りが絶えず店の中に貯まっていく。
と、パンを物色していた客の一人が、こちらに顔を向けてきた。
「あの、すみませんこのパンって中…」
「知るか」
「…へっ?」
「バカ」
「っ…!」
急に、クーシルが後ろから脚に蹴りを一撃入れてきた。
がくんと下がる視界の高さ。
そして着ている服の襟が、そのまま後ろからがしっと掴まれる感覚。
「ちょ、こっち!…あっ、そちらの商品、中身はチョコですので♪それではー♪」
ズルズルとクーシルに引きずられ、連れて行かれた奥のキッチン。
突然の事に母親が「どうしたの?」と首を傾げて声を掛けていたが、クーシルはそれに「大丈夫」と、片手を抑えるように前に出してから言葉を返す。
「…なんだ。接客してやっただろう」
下がった視界の高さを戻しながら、蹴りを入れてきた理由を求める。結構痛いな…。
「バカ」
「馬鹿は貴様だろう」
ネカスという馬鹿の極地にいる人間に、どうして馬鹿と呼ばれなくてはならないのか。
「ほんとバカ」
「だから馬鹿は…」
「いーから言い返して来なくて!さっきのあれ何が接客だと思ったの?どこら辺にその可能性感じた?教えたでしょ、パンの特徴。忘れたの?」
「覚えてるが?」
多様ではあったが、どれもきちんと記憶の箱には入れてある。
「じゃあ言ってよそれ…」
「さっきの貴様みたく愛想良くか?はっ、出来るか」
ご令嬢や同じ貴族相手になら必要があればしてやらなくもないが、誰だか知らない平民なんぞに、何故そんな優しさ見せないとなのか。
馬鹿馬鹿しさに、つい笑いが出た。
「…はぁ」
「まだ接客、早かったんじゃないの?」
額に手を当てため息をこぼすクーシルの背後から、客が使うのとは違う、一回りは大きいプレートを持った母親が。
プレートの上には、焼き上がったばかりのパンがこれでもかと並んでいた。
「や、でも、それ出来ないとさ」
クーシルの母親がふと俺に近付いてきたかと思えば、持っていたそのプレートを、はいと流れるように俺に渡してくる。
「…ん?」
さも当然のように渡され、反射的にそれを受け取ってしまう。
クーシルの母親は軽い物でも持つような顔をしていたが、油断すれば、がくんと身体が下がりかねなかった重さ。
「しばらくは、無くなったパンの補充でもいいんじゃないの?あ、それと後ろから、小麦粉とか足りなくなったら持ってきて貰おうかしら?」
「力仕事?」
クーシルの言葉に、そうとクーシルの母親は自分の髪を縦に揺らした。
「コルファの子って、確かみんな体力あるんでしょ?どう、お願い出来るかしら?」
軽く傾げられた顔が、俺にどうかと確かめてくる。
「…運ぶだけならな」
こいつらの為に動いてやるのも気に食わないが、客だからと愛想を良くしてやるのに比べれば格段に良い。言い方は多少気に喰わなかったが。
「ふふっ、ありがとね。ほーら、接客担当行ーくっ!」
「むー…」
母親に背中押されるクーシルが、丸く膨らました頬で言ってくる。
「それ、大事なんだから落とさないでよ?」
「物を運ぶぐらい、落とさず出来る」
「…接客も出来ると良かったんだけどねー」
役割を変え、また店内へと戻っていった。