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貴族様の成り下がり  作者: いす
7.5章

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66/69

66話目

66話目です

誤字・脱字があったら申し訳ありません

 四連休初日。

 部屋でふと気になって時計を見上げると、丸いガラスの奥で午後を進む針があった。

 これと言った予定や用事もなく、机の上で勉強道具の整理をしていると、扉がこつこつとノックされた。

「しゃくー?いるー?」

「あぁ」

 そんな変わった呼び方に誘われて扉を開ければ、クーシルが片手を添えてにひっと笑顔で現れた。

「よっ、お出掛けしません?」

 言う彼女の肩に提がった荷物を詰めたのだろう小さな鞄が、サイドテールの近くでふわっと揺れる。

「何か用事か?」

「んー。ま、用って言うかさ、二人で出掛けるのってした事ないじゃん?」

「そう…だったか?」

「一応バイトん時は一緒になるけど、あれバイトだからだし。だから、普通に二人で出掛けない?どこ行くかは適当にって感じで」

 二人でいる時間は数多くあったように思ったが、思い返してみれば実地訓練やバイトと何かしら理由があった。

 クーシルもそれに思い当たって、こうして誘ってきたのかもしれない。

「分かった、着替えてくる」

「玄関、さき行ってるね」

 着ていたオーバーサイズのパーカーは、外行き用の服装らしい。

 クーシルはそれじゃあと扉を閉めて、玄関に歩いて行く。

 整理していた勉強道具を片付けて、クローゼットへ向かう。外出用の服を見繕って財布と帽子を取り、部屋を出て玄関に歩いていく。

 しかし、廊下を進む途中で見えた玄関には誰もおらず、代わりに二階から鞄を閉じながら降りてくるクーシルが見えた。

「忘れ物か」

「カメラ忘れてた。あとミーせんせーいたから、二人で遊んでくるって言っといた」

 玄関でスリッパを脱いで、外出用の靴に履き替える。

 二人一緒に立ち上がり玄関を出る直前、とんとんと靴のつま先を土間で鳴らしたクーシルが寮にくるりと振り向く。

「行ってきまーす!」

「い、行ってくるー」

 寮に声を送った彼女を真似て、喉に力を少し込め、俺もそう言葉を放った。


 ━━━━━  ━━━━━  ━━━━━


 どこに行くかも定めないまま、普段は使わない路線の路面電行車にふらりと二人で乗り込んだ。

 四連休初日もあってか車内に人は多く、席がかなり埋められている。

 後ろに空いていた二つの席を取ると、真横のクーシルが帽子を外していた俺を見てくすっと笑う。

 そして周囲の話し声を邪魔しないよう小さく、その上で俺にだけは届くように身をちょっとばかり寄せて話し掛けてきた。

「ようやく隣座ってくれたね」

「…悪かった」

 散々、彼らから一人分距離を空けて座ってきたのだ。

 俺の身勝手な行動でしかなかったというのに、それが変化したのを嬉しそうにしてくれるクーシルになんだか申し訳ない気持ちを抱く。

「これからはもう、人の名前とか顔とか、興味ないからーってあっさり忘れちゃうの無しだからね?」

「あぁ…そうしないとだな」

 頷いた俺にクーシルは唇をつんと尖らせて何か考え込むと、あ、と声を上げた。

「じゃさ、あたしのパパとママの名前、教えてあげよっか?」

「…そう言えば知らないな、二人の名前」

「でしょ?訓練って事でちょうど良くない?」

 クーシルは自分の案をそう褒めてから、じゃあと俺に二人の名前を告げる。

「ママが『ススミス・ラフィス』で、パパが『ロット・ラフィス』ね。…なんか恥ずかしいな、親のフルネーム言うの」

 バイトで日々接して二人の顔は憶えていた。

 だからなのか、告げられた名前は二人と密接に結び付いていく感覚があった。

「ふらっと呼んであげたらびっくりするんじゃない?」

 思い付いたイタズラに軽く笑って、クーシルは窓に流れる景色へ顔を運ぶ。

 乗り込んでまだそれほど時間は経っていないのに、外には既に見慣れぬ道や建物が広がっていた。

「ススミス・ラフィス、ロット・ラフィス…」

 自分で今一度二人の名前を口にして、記憶の二人をより正確に描いていく。

 万が一にも忘れてしまわないようぶつぶつと一人で名前を確かめていると、景色を楽しんでいたクーシルが身体(からだ)をわずかに前へ倒し、斜め下から俺を見上げてきた。

「ラフィス家、もう一人いるけど忘れてない?」

 自らの顔につんつん指を差すクーシル。

「クーシル・ラフィス…?」

 忘れる筈のない名前ではあったが言うよう促され、疑問を滲ませながらもクーシルの名を呼ぶ。

 クーシルはサイドテールを路面の揺れよりも大きくひらひらと振って、席に背中を深く(もた)れさせた。

「へへー♪忘れないでよ?」

「もう憶えている。忘れない」

「そっか」

 そんな会話の後、停留所が幾つか流れていく。

 次に迎えた見知らぬ停留所に路面が速度を落とし出した時、クーシルが膝に乗せた小さな鞄のベルトを肩に掛けた。

「決めた!しゃく、次で降りよっ!」

「分かった」

 持っていた帽子を被り、降りる用意を済ませる。

 そんな即座に下車の体勢に入った俺に、言い出した立場ながらもクーシルは驚いたような色を瞳に塗る。

「いいの?もしかしたら次に、すっごい面白いのやってるかもよ?」

 路面の窓から(うかが)う限り、特別なイベントが催されている様子はここにはない。

 路面が止まり、無人の停留所への扉が開く。

 クーシルの言う通りもしかすれば次こそは、とは思いもするが、それよりも期待を呼び寄せるものがあった。

「クーシルの直感が決めたのなら、それが一番良い」

 俺の言葉にクーシルは、何も言わず八重歯が見えるぐらいえへっと表情を崩して、席から立ち上がる。

 俺とクーシル以外に降りる客はなく、二人で扉に歩いていく。

 一歩早く外に出た彼女のサイドテールが、太陽を浴びてオレンジ色を綺麗にきらめかせていた。


 ━━━━━  ━━━━━  ━━━━━


「ん」

 停留所からただただふらりと歩いていると、一軒の店の前で足が止まった。

「なんか見つけた?」

 立ち止まった俺に気付いて、クーシルが同じ店に目を向ける。

「ノートとペン、少し買い足しておきたくてな」

 学院での勉強の為に道具は一通り用意したのたが、実際授業に取り組んでみると色々不足ぎみな物があった。

 覗いた店には文房具や画材道具、雑貨などもあり、見ても良いだろうかとクーシルに視線で尋ねる。

「俺の買い物に付き合わせるだけになるが…」

「いいよ全然、行こ行こ」

 クーシルは気にする事ではないとサイドテールをひらひら振って、その店の中に俺よりも早く入っていく。

 店に入り、まず自分が使っているのと同じノートを簡単に見繕った。

 それから近くのコーナーに大量に並べられたペンを、使う色に絞って品定めしていく。

「お、この色かわいいー」

 桃色のペンを一本取ったクーシルが、間近に設けられた試し書きのコーナーでそのペンをすらすらと走らせる。

「ね、ね、これなんだと思う?」

 ペンのキャップをかぽっと閉じたクーシルが、パーカーの腕で横からのしかかるように押してくる。

「これ、は…」

 試し書きの紙には桃色で描かれた奇妙な物体。

 キャップを閉じたという事は既にこの絵は完成したという意味なのだろうが、まるでなんなのか分からない。

「流石に分かりやす過ぎるよね」

 だが、クーシルの正解を望むような眼差しを受け、分からないという言葉は奥底に仕舞い、自分の中にある知恵を全力で働かせる。

「プ、プロペラ…?いや、エアコン…!エアコンか…!?」

「なんで無機物ばっか…。分かんない?これね、ペンギン!」

 俺が外してもそれはそれで楽しいらしく、クーシルはほがらかに正体を明かして、無機物ではなく生物だった絵の下に桃色の字で『ペン・ギーン』と名前をしたためる。

「生き物だったのか…」

 パン屋のあのよく分からないキャラクターに近しいものを感じる辺り、絵のセンスは母親譲りなのだろう。

 試し書きは満足したのかクーシルは桃色のペンを置いて、違う色のペンも手に取り始める。 

「しゃくってさ、色ペンいっつも何本使う?」

 いかにも思い付きの雰囲気で言われ、ペンケースの中をざっくりと思い出してその中にある色を口にする。

「黒と赤だけだな」

「え、少なくない?あたしめっちゃあるよ?一ページ五色とか使ったりするもん」

 言われてみれば授業の際、クーシルの机の上には大量のペンがカラフルに並べられていた記憶がある。あれが惜しげもなく全色使われているのだと聞いて、困惑が言葉を生む。

「それで、どこが大事か分かるのか?」

「だいじょーぶ!色関係なしで分かってないから!」

「…そうか」

「モチベはすっごい上がるから!」

 クーシルにとって、自分を悩ませる勉強に前向きに励める手段が、あのカラフルなペンの山なのだ。

 自信満々に言うのであれば、こちらもそういうものなのだと受け入れるしかない。

「じゃあ買ってくる」

「あ、待って」

 黒と赤のペンを数本見繕い、ノートと重ねてレジに向かおうとすると、背中を呼び止められた。

 クーシルは俺が買おうとしているペンを見ると、同じペンが立てられた棚に顔を近付ける。

「よーし、よし…」

「このペン、何か良くないやつなのか」

「ミーせんせーからね、しゃくが物買う時は値段見てあげてねって言われてたから」

「そんな事言われてたのか…」

 俺が過去、値段を気にせずに皿を買おうとした事は、どうやらミミコ先生に危険な記憶として深く刻み込まれてしまったらしい。

 まぁ、誤った行動をしたのは俺だ。

 一応ペンの値段は見ていたのだが、反省も兼ねてクーシルの精査を待つ。

「…うん。他にも安いのあるけど、そんなぶっ飛んだ値段じゃないし良いでしょ。ノートもそれ、教室で使ってるのと同じやつだもんね」

 値段に問題無しとオッケーを貰い、今度こそレジに向かう。

 クーシルの方もペンの見物は済んだようで、左右に飾られた商品に度々視線を奪われながら、一歩後ろをとたとたと付いてきていた。

「いらっしゃいませー」

 店員に商品を渡し、金額が出るのを待つ。

「じゃあ、これで」

 提示された金額よりも少し追加で払い、返されるおつりのコインを最低限に減らす。

「一定金額以上のお支払いをしていただきましたので、こちらのくじをどうぞ!」

 買ったペンとノートは小さな紙袋に包んでもらったのだが、渡される前に何故か、店員がレジの下から小さな箱を取り出してきた。

「く、くじ?」

「はい、一枚どうぞ!」

「しゃく、ここ」

 レジ台の隅を見ていたクーシルの声でそちらを見れば、店員が口にしたようなキャンペーンがチラシとして貼られていた。

 一定金額を支払うとくじを引く権利が同時に貰えるようで、景品は主に文房具や小物をメインとして多様な種類があるらしい。

 状況を理解し、そんな何かを狙って引くものではないと箱に手を入れ、一番最初に指先へ触れてきた紙を引っ張り出す。

 それを店員に渡すと折り畳まれていた紙が開かれ、店員が「お」と小さく口を開けて、店の奥に小走りで消えていく。

「アタリ?」

 クーシルが隣で期待を募らせる声を上げる。

「分からない」

 戻ってきた店員はコインサイズの丸いバッチを一枚持って、紙袋と共にそれを俺に渡してくる。

「おめでとうございます、こちらをどうぞ」

 受け取ったバッチには、青空の下、仰向けになって眠る柴犬(しばいぬ)のイラストが幸せそうに描かれていた。

 レジの前で立ち止まっていては迷惑になると、柴犬と見つめ合いながら二人で店から外に出る。

「かわいー!いいなそれー!」

「この目、どうにも見たことがある…」

 なんとも言えないこの柴犬のやる気の無い目。

 よくよく見れば、今も寮の自室で眠っているあのタヌキの人形の目に瓜二つと似ていた。

 クーシルも同じ物を思い出したのか、あぁと声を漏らす。

「しゃくってなんか、くじ運強いよね」

 偶然手に入れてしまった一枚のバッチ。手に触れたその感触には新鮮味があった。

「初めてだ…こういうのは」

「へー。え、見るのも初?」

「あぁ、こういう物を付けている人間は周りにいなかった。クー…シルは持ってたのか?」

 興味本位で訊いてみると、からかうようにクーシルの口角がにやりと上を向く。

「名前、なんか隙間なかった?」

「…クーシルは。持ってたのか?こういうの」

 隙間を埋めて改めて呼ぶと、ようやく質問の答えが返される。

「うん。昔、ちょっと集めてた時期ある。けっこう持ってたんじゃないかな」

 話ながらその頃の思い出が蘇ったのか、クーシルの表情に悲しそうな色が溶け込んだ。

「一枚ね、好きで大事にしてた猫のがあったんだけど、気付いたら無くしちゃってたんだよね。バカだよねー」

 過去の自分の失態を、クーシルは笑いながら軽く責める。

 彼女のその横顔に図らずも視線が取られた。

 笑い話のようにして語るクーシルではあった。

 けれどそこに、小さな未練が確かに感じられたからだったと思う。


 ━━━━━  ━━━━━  ━━━━━


「クーシル」

「んー?」

 服や飲食店が左右に立ち並ぶ道を歩いていると、とある建物が目に入り、クーシルに声を掛ける。

 周囲の店よりも一回り大きい建物は劇場らしい。壁には公演予定の劇のポスターがちらほらと貼られていた。

「おぉ、劇だ」

「こういうところにもあるんだな」

 王都には、王族や貴族も見に来る程の有名な劇場がある。それとは違うここは、所謂(いわゆる)下町の小劇場なのだろう。

 貼られたポスターを見るに趣味として演劇を(たしな)む劇団が多く公演しているようで、丁度これから一つの劇が開演予定らしい。そのタイトルが目に留まった。

「『花かんむり』か」

「花かんむり…」

「小説である奴だな、読んだ事がある」

 かなり昔に発売された物で、誰もが知る、という圧倒的な知名度があったようには記憶していないが、今現在でも本屋では売っている本である。

「観てみよ!」

「あぁ」

 好奇心で爛々(らんらん)と輝くクーシルの瞳に、頷きで応える。

 やはり、クーシルの直感は頼りになる。

 二人で劇場の扉を開け、チケットを購入し、更にもう一枚、防音対策で分厚い扉を押し開けて舞台のある部屋へ入る。

 趣味の劇団ではありながらも人気はあるらしく、並べられた椅子には空席よりも人の数の方が多い。

 そこから自分達の席を見つけて、開演の時間を座って待つ。

「なんかいいよね、この始まる前の時間」

「そうだな、この空気は俺も好きだった」

 劇場に設けられた明かりはどれも控えめで薄暗く、それが喋る声を無意識の内に小さくさせる。

「なんでなんだろね?」

「分からない」

「ふふっ、ね」

 話していると、弱い明かりが一気に消えた。

 そして今度はその弱い明かりを全てかき集めたかのような強い明かりが、舞台の上に眩しく灯る。

 舞台の脇から現れる、王様の衣装を着飾った一人の役者。

 こそこそと聞こえていた声はその瞬間に一気に静まり、まるで人生の主役をこの時ばかりは舞台上の役者に譲ったかのようだった。

 演劇『花かんむり』が始まった。

 とある国に疑り深い王様がいた。

 全ての物や人の振る舞いに疑いを持ち、悪意を探し、それがきっかけで誰からも信用されていないという哀れな王様。

 序盤、そのシーンの一節を見て、隣からほんの小さくこぼれ落ちたクーシルの声。

「あれ…?これ、知ってる…?」

 その声は俺に向けられた訳ではないらしく、視線をわずかに横へ向けてみても、彼女はただ、舞台の役者を一心に見つめていた。

 気になる呟きではあったが、折角の劇への集中を妨げてはいけない。俺もまた視線を前にする。

 その後も、劇は進んでいく。

 様々な人間が現れ、時に王様を騙し、時に王様に嘆き、多くの人間模様が描かれていく。

 昔からよく、教養の一つとして劇は観ていた。

 つい有名な劇団と演技力や舞台の出来を比較してしまうが、限られた人や道具で挑む劇には他にはない独特の熱量があった。

 それからシーンは進み、タイトルである花かんむりが舞台の上に現れる。

 小さな少女が無垢に編んで渡した花かんむりにさえ、王様は疑いを持ち、悪意を探す。

 そんな王様に少女は酷く傷付き、王様もついには自分自身へと疑いを持ち出していく。

 それ以降、花かんむりが大きく関わってくる場面はなかったが、誰の中にもそのシーンは印象的に残った事だろう。

 ラストはけして幸福な終わり方ではなかったが、悲観的な意味合いだけではない内容で劇は結末を迎える。

 観客から借りていた人生の主役を返すように、強い明かりは消え、小さな明かりが劇に惹きつけられていた観客を現実へ戻す。

 汗を拭い礼をした役者に、観客の全員が惜しげもない拍手を打ち鳴らした。


 ━━━━━  ━━━━━  ━━━━━


「おもしろかったー!」

 劇場を出て、近くにあったベンチに腰掛けた。

 付近の店で買った飲み物を一口飲んだクーシルが、潤った口で興奮を語る。

「超おもしろくなかった!?」

「どんな劇にもちゃんと(こだわ)りがあるものなのだな。知りもしなかった」

 過去の自分がああいう劇場に、そして演じる劇団にどんな思いを抱くかなど、当然予測が出来た。

 過去の恥ずべき自分とそんな自分の恥ずべき考えを否定する目的の為にではなく、ただ実力を見せつけられてその思いは払拭された。

「そうだ、クーシル」

「なに?」

 劇の感想を思い思いに話していると、序盤でクーシルが呟いたあの言葉がふと思い出された。

「あの劇、前にも見た事があったのか?」

「え?あー…聞こえちゃってた?」

 なんの話かとまばたきを繰り返した彼女だったが、あの時の呟きだとすぐに察し、誰にも聞かれていないつもりのものだったらしい、朱色が強まった自分の頬を指でつんつんと押す。

「見てたらね、あれ、これ知ってるセリフだーって思ってさ。でも、劇で前に見たって感じでもなくて…。でね、あたしもしかしたら、あれの本読んだ事あるのかも」

「『花かんむり』を?」

「うん、なんかぼんやりだけど。ちっちゃい頃じゃないかなー…ある…と思うんだよね。うん、多分絶対ある!」

 やはり読んだ事があると、記憶は未だ判然とはしていない顔付きながら、彼女の頭はサイドテールと合わせて縦に振られる。

「あの本、あまり子供が読むような内容ではなかったと思うが…」

 過激的な描写がある訳では無いが、迂遠とも思える言葉遣いや不明瞭な表現、時に不合理とも思える個々の行動など、劇で見ても実感したが、子供となればより捉えきれなくなるものがある内容だった。

「でも、やっぱ読んだ記憶あるんだよなー…なんでだっけな?」

 腕を組んで悩んでいたクーシルだったが、ぴこんと頭に電球を灯すと一気に表情が切り替わった。

「これはもう、探すしかなくない?」

「どこにあるか分かるのか?」

「部屋…だとは思うんだよね。あ、家のね」

 空から降ってきた閃きには決断も含まれていたようで、言うが早いか、クーシルはストローの刺さったカップの蓋を開け、中身のジュースをぐいっと一気にあおる。

「よし、探そっ!」

 劇を見て元の本が読み直したくなる気持ちは分かる話だが、わざわざ探してまでとは。

 そこまで『花かんむり』が気に入ったのだろうか。

 カップを開けて、俺も中身を一息に飲み干した。


 ━━━━━  ━━━━━  ━━━━━


 路面に乗って引き返し、真新しい道からパン屋に向かう見慣れた道へと帰ってきた。

「んむー…どこだっけなぁ…」

 頭で自分の部屋を再現してその中を探し回っているのだろう、腕を組んで考え込みながらクーシルは道を歩いていく。

 彼女の部屋について全く何も知らない立場ではそれに対してなんの助言も出来ず、精々出来たのは自分の家の前を通り過ぎようとしたクーシルを呼び止める事だけだった。

「着いたぞ」

「え?あぁっ」

 わたわたと戻ってきたクーシルとパン屋の扉を押し開ける。

 カラコロと鳴ったドアベルに反応し、レジの周りを掃除していたススミスさんが「あら」とこちらを見る。

「ただーいま」

 他に客がいない事もあってか、素の声音でクーシルが言う。ススミスさんもそれに親の声色で出迎えた。

「おかえり。ランケくんもいらっしゃい」

「お邪魔します」

「二人一緒にどうしたの?お手伝いでもしにきてくれたのかしら?」

「あー、ヤな話!しゃく、二階行こ!」

 そうして欲しいのかススミスさんがくすっと笑って言うと、クーシルは悲鳴を上げてばたばたと店の奥に逃げていく。

 その悲鳴を聞いてか、ロットさんも店の奥からこちらに顔を出してくる。

「おや、ランケくん。いらっしゃい」

 どうもと会釈をして二階に向かったクーシルを追おうとしたが、その歩調が一つの考えに遅くなる。

 名前を憶えたばかりの二人がこうして目の前にいる。

 今まで名前を憶えてこなかった愚かな自分を試す意味も兼ねて、二人に向き直った。

「ス、ススミスさん、ロットさん。その…ちょっと探し物があって伺わせていただきました」

 会釈よりも深く頭を下げて戻すと、二人は共にぱちぱちとまばたきを繰り返した。

「おや」

「あら、あらあら」

「お名前はクーシルから聞いて。…では」

 二人の反応がけして拒絶ではない事を確認してから、クーシルを追って二階への階段を上がる。

 クーシルの家は一階がパン屋となっていて、二階が居住用のスペースとなっている。

 二階に上がるのは今日が初で、クーシルが先に行ってしまうと部屋がどこにあるのか全く分からなくなってしまうが、彼女は二階のすぐの場所で待ってくれていた。

 用意してくれた来客用のスリッパを履いて、廊下をぽすぽすと進んでいく。

「ここ、あたしの部屋ね」

 立ち止まった部屋の扉をクーシルが開け、二人で中に入る。

 部屋は全体的に明るい色味で統一されていた。

 勉強机にベッド、それなりに大きい棚もあるが、思ったよりもその上に置かれた物は少ない。

「あんまり物ないでしょ?」

 小さな鞄を床に置いたクーシルが、俺の思っていた事を見抜いてくる。

「寮に持ってったのか」

「せーかい。こっちはもう、ほとんどちっちゃい頃のやつばっかなんだよね」

 だから、『花かんむり』の本がこの部屋にあると思ったのか。

 クーシルはクローゼットの前にぺたんと座ると、取っ手を引いて、中に置いてあったカラフルな箱を片っ端から開けていく。

 本を探すと言っても流石に俺があれこれ開けて調べるのも良くないだろうと、床に敷かれた丸いカーペットの上で立ったまま止まっておく。

「んー、こん中じゃないかなぁ…こっちの箱?」

 この部屋にいるならせめて迷惑にならない手伝いくらいはしようと色々考えた末、箱の中から続々と取り出され、クーシルの脇に着々と積まれていく見た事のないおもちゃや絵本を少し離れた場所に運んでいく。

 クーシルも俺の役割に気付いたようで、途中からは直接渡してくるようになってきた。

「うーわ、なつかしー…。うわ、これやばー…」

 物の一つ一つに思い出があるようで、手に取ってはそんな独り言を呟いたり、くすっと笑い声をこぼしたりと楽しそうな様子を見せる。

「しゃく、見て」

「ん?」

 箱の中から出てきた小箱を抱えて、クーシルがこちらにくるっと回ってきた。

「話してたやつ」

「バッチか」

 開けられた蓋の奥には大量のバッチが仕舞われていた。

 その内の一つを彼女は取りはするが、描かれているイラストは、失ってしまったという猫の物ではなかった。

「どこ行っちゃったのかなぁ、あれ」

 小さな未練をまた覗かせたクーシルは、取ったバッチを小箱に仕舞ってまたクローゼットに身体を向ける。

「あっ…!」

 彼女から受け取った用の無いバッチの小箱を運ぼうとした時、クローゼットの奥にクーシルが身体を伸ばす。

「あったー!見て見て見てっ!」

 俺に目一杯と突き出された本のタイトルには、確かに『花かんむり』と書かれていた。

「本当だったんだな…」

 カーペットに腰を下ろし、『花かんむり』の本を間近で確かめる。

 タイトルの通り花かんむりの絵が描かれた表紙を見て、こんなだったと自分が読んだ時の記憶から(もや)が晴れる。

「やっぱりあった!あたしの記憶力すご!やっぱ読んでたんだよ、あたし!」

 クーシルはまた表紙を確かめて、表情の隅にまで嬉しさを染み渡らせる。

「えへへ…」

「そんなに気に入ったのか、『花かんむり』」

 一応整理しながら置いておいたとは言え、かなりの量のおもちゃや小物がカーペットの上には敷き詰められている。

 ここまでやる程に気に入ったのか尋ねると、クーシルはうっかり落とすのさえ嫌がるように本をぎゅっと強く両腕で抱きしめた。

「それもあるけど…この本、しゃくも読んでたんでしょ?あたしとしゃくの共通点ってことじゃん?だから、絶対見つけたかったんだ」

 本を抱いたまま、にひっとクーシルが笑顔を咲かせる。

「……そうか」

 あまりに素直で心を晒けたような理由は返す言葉を逆に難しくさせ、俺に言える精一杯は何度も口にしてきた気のする、そんな短い言葉だけだった。

「クー、ランケくーん」

「うぉっ」

「ママ」

 声がして振り向けば、いつの間にか扉を開けてススミスさんが立っていた。 

「あらもう…こんなに散らかしちゃって」

「ね、ママ、ママ。あたし、なんでこの本買ってもらったんだっけ?」

 座ったままクーシルがぺたぺたと四つん這いで移動して、ススミスさんに『花かんむり』の本を見せる。

 クーシルにとってはおぼろげな子どもの頃の思い出でも、ススミスさんにとっては大人の頃の思い出だ。

 本の表紙を見たススミスさんから、懐かしむような声が漏れた。

「あぁ、その本…」

「この本、買ってもらったやつだよね?」

「そうよ。あなたがちっちゃい頃、タイトルがかわいいからーって持ってきて、それで買ってあげたのよ?その時のクーが読むにはちょっと大人っぽかったお話なのに、読みたいって無理矢理押し切られちゃったの」

 本だけではなく、幼い頃のクーシルさえもススミスさんは憶えているのだろう。話す表情に過去を慈しむ温かさが通う。

「え、そんな理由?」

 思っていたよりも単純な理由だったのか、調子を外した声がクーシルがこぼれる。

「えぇ。それで買ったはいいけど、ちょっと読んですぐ、これ難しいーって読むのやめちゃって。それからはもう、それっきりだったんじゃないかしら?」

「おぉう…恥ずかしいエピソードお披露目してしまった…」

 自分の過去の行動に、クーシルはいたたまれなさそうに天を仰いでぎゅっと目を(つむ)る。

「子どもの頃はまぁ…そんなものだろう」

「明らかに気遣い…」

「その本、探してたの?」

 過去に読まなくなった本を探していた理由に、ススミスさんが首を傾げる。

 クーシルは俺に視線を運んでから、先ほど話した理由をススミスさんにも伝えた。

「しゃくもね、この本、昔読んでたんだって。あたしとしゃくの共通点なの!」

「あらー、そうだったのね」

 ふふっと笑ったススミスさんだったが、探す過程で散らかってしまった部屋をぐるりと見回すと娘を細めた目で見やる。

「…それでー?このお部屋の片付けは誰がやる予定なのかしらー?」

「もー…ちゃんと自分でやるから!お店戻ってよ!」

「はーい♪」

 自分がやらなくていい言質をきちんと取ってから、娘に背中を押されてススミスさんが部屋から出ていく。

 かと思いきや扉が閉まるよりも速く戻ってきて、にっこりと俺に微笑んでくる。

「ランケくん、さっき私の事、なんて呼んでくれたのかしら?」

「えっ?あ…ススミス、さん?」

「うふふ、片付け忘れないようにねー♪」

 名前を呼ぶと今度はたちまちに部屋を出ていき、ぱたりと扉が完全に閉まる。

 クーシルが俺にからかうような声音を送ってきた。

「呼んだんだ、ママのこと」

「憶えたから、呼ぶべきだと思った」

「驚いてたでしょ?」

「あまり…表情は見なかった」

 二人の反応を真正面から受け止める勇気が湧かず、横目でわずかに覗くだけで二階には上がってきてしまった。

 今ススミスさんが見せたような表情が、きっと、さっきもそこにあったのだろう。

 と、クーシルが抱き締めていた本を見下ろす。

「ん、なんか…?挟まってる?」

 本に見えた隙間に人差し指を挟んで、クーシルはそのページを開く。

「…これっ!」

 序盤の方のページにしおりのように挟まっていたのは、一枚のバッチ。

 クーシルはその絵を確認してオレンジ色の目を丸くすると、正面に座る俺にも見せてくる。

 描かれていたのは、木陰で丸まって眠る一匹の黒猫の絵。

 クーシルが好きだったのに無くしたと言っていた、猫の絵だった。

「無くしたの、もしかしてそれか?」

「そう、これ!こんなとこにあったんだ…」

「しおりに使ってたのか…」

 クーシルは『花かんむり』の本をすぐに読まなくなってしまったと、ススミスさんが言っていた。

 推測にはなるがその際、一応はまだ読み進める気があったのか、子供の頃のクーシルは手近にあったお気に入りのバッチをしおりとして咄嗟に代用したのだろう。

 子どもの気まぐれか、それ以降クーシルが『花かんむり』を開く事はなく、黒猫のバッチも一緒にクローゼットの奥底に仕舞われてしまった。

 その推測が当たっていたとしても外れていたとしても、なんであれ、一つ気になる部分がある。

「大事に…していた?」

「子供ながらに…!大事にしてたから!」

 読まなくなった本に挟まれているというのは、好きだったバッチの扱い方として飲み込みにくいものがあった。

 しかしクーシルにとってはやはり大事なバッチだったと記憶しているようで、こぼした疑問に必死の反論が返ってくる。

「…でもさ、スゴいよね。こんな風に見つかるなんて」

 黒猫のバッチを見つめながら、予想もしていなかったとクーシルが言う。

「こういう偶然があるものなのだな。流石はクーシルの直感だ」

 予想をしていなかったのは当然俺も同じだ。

 クーシルが選んだ場所で降り、そこで『花かんむり』の劇を見て、無くしたと思っていたバッチに巡り合う。

 偶然以外の言葉など、この物語には当てはまらない。

 俺の言葉にクーシルはくすっと笑う。

「劇見つけたのはしゃくじゃん」

「遅かれ早かれクーシルも気付いていた」

「でも、見つけたのはしゃく」

 どこか頑固に言うクーシルが小さく呼吸の間を取る。

 同時に一瞬だけ目を閉じて、開いた(まぶた)から現れた瞳は俺の目を掴まえた。

「だからね。このバッチ、しゃくに持っててほしい」

「大事なバッチだったんじゃないのか」

「あたしとしゃくの共通点で見つけたから…もらってほしいなって。…あんま理由になってない?」

 にひっと誤魔化すように笑いながらも、クーシルは俺に黒猫のバッチを差し出してくる。

 時間が経ったとは言え大事な物を、彼女は俺に譲ろうとしてくれている。

 そうしたいと思ってくれての行動なら、断らずに貰うべきなのだろう。

 ただどうしても、無償で貰うというのは気が引けた。

 少し考えて、自分のポケットに仕舞っておいたあれを思い出した。

「ただ貰う…というのもなんだ」

 ポケットから出して自分の手に乗せたのは、偶然手に入れてしまった柴犬のバッチ。

 仰向けになって眠るなんとも言えないやる気のない目を、俺の発言の意図に惑うクーシルに差し出した。

「俺のと、交換するのはどうだろうか?同じバッチだから…わ、悪くないと思うが?」

 提案として下手ではなかったか、断られてしまわないか、恐る恐るで彼女を覗く。

 柴犬のバッチから俺に持ち上がった、彼女のオレンジ色の瞳の一番奥底。そこで何かが眩しく輝いた気がした。

「うんっ!するっ!交換!」

 八重歯を見せきった笑顔の彼女の大きな頷きに、押し付けがましい提案ではなかったと安堵する。

 互いにバッチを渡して、俺の手には黒猫が、クーシルの手には柴犬が乗る。

 クーシルは近くにあったクッションを枕にしてカーペットにぱたりと仰向けで倒れると「ほぉぉ…」と息を吐きながら、顔の真上に柴犬を持ってきらきらとした目で絵を眺める。

 それから何事か思い付いたようにハッと身体を上げると、床に置いてあった小さな鞄を引き寄せて、中からカメラを取り出した。

「写真撮ろ!」

「な、なんの理由で」

「バッチ、交換したから!」

 そう言ってカメラを持ったサイドテールが、俺の肩にはらりと掛かる。

「別に撮る程の事ではないと思うが…」

「それぐらいの写真の方が、後で見た時ぜったい楽しいって!」

「そ、そういうものなのか?」

「あたし的にはそうなの!ほら、撮ろっ?」

 クーシルは自分の頬に俺が渡したバッチを押し付けると、カメラのレンズにとびきりの笑顔を見せつける。

 笑顔は出せなかったが俺も顔の近くにバッチを構え、このポーズで正しいのか迷いながら、カメラのレンズがそんな自分とクーシルを写し取るのを待つ。

 ぱしゃりと鳴ったカメラのシャッター音。

 今日という一日が、思い出として確かに残った日だった。


 ━━━━━  ━━━━━  ━━━━━


 新しく買ったペンを使って、自室で勉強をしていた。

 文字が詰まったページを次に送ると、扉がこつこつこつと勢いよく自分を呼び立てた。

「しゃくー」

「今開ける」

 気分良さげな声に呼ばれ扉を開けると、ほどかれたオレンジの長い髪がひらりと風のように部屋へ入ってくる。

 風呂から上がったばかりなようで、髪の毛は水気少なく乾いていたが、血色の良さは頬にぽっと出ていた。

「見てっ!バッチ、ペンケースに付けた!」

 流れのままに見せられたのは、あの柴犬のバッチが布地の側面に付いた彼女のペンケース。その付けられた場所に思わず声が出た。

「…同じだな」

「えっ?」

「いや…」

 勉強で使っていた机からペンケースを取って、クーシルに見せる。

 クーシルから貰った黒猫のバッチを、俺も丁度ペンケースに付けていた。

「しゃくもそこ付けたんだ」

「他に候補が大してなかったのもあるが…」

 全く同じ位置という訳では無いが、付けている物は同じ。その事にクーシルが口元を緩める。

「でも、一緒だね。うん、一緒だ」

 片目に掛かった前髪を指で退けながら、眠る黒猫のバッチをクーシルはじっと見つめる。

「大事にしてね?」

「もちろんだ」

 俺の返答にクーシルはうむと頷いて、俺がペンケースを取ってきた机の方を見る。

「勉強やってたの?」

「他にすることもなくてな」

「だからってそれするの、ちょっとあたし理解できないけど…。…あ、んじゃさ、折角だし一緒にしない?教えてほしいとことかあるし。うん、すごい考えたくないぐらいあるし」

「時間、少し厳しいと思うが…大丈夫か?」

「いけるいける!ダッシュで取ってくるから!」

 いつもみんなが就寝する時間までもう三十分ばかり。

 出来る範囲にはかなりの限りがある事は承知で、クーシルはくるっと回って俺の部屋から足早に出ていく。

 教えるのに自信はないが、机に戻ってノートや教科書を端に寄せる。

 出ていく際に置いていった柴犬の付いたペンケースを自分の黒猫の付いたペンケースの隣に並べ、クーシルのスペースを用意した。

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