57話目
57話目です
誤字・脱字があったら申し訳ありません
学院に到着すると、私服が再び面倒を招いた。
学院の敷地と王都を隔てる正門は大きく蓋を閉じていて、越える為には門番の役割を担った警備の人間に声を掛けなければならなかった。
そうなると私服姿というのは如何にも学生としては信用が無く、白の制服から生徒手帳こそ取り出してはいたものの、結局身分の証明はされたというのに担任が来るまで待つ事になってしまった。
担任が来て警備の人間と数言やり取りを交わせば、無論問題が無いことは判明する。
正門の脇の小さい非常用の扉が開けられ、学院には入れたが、担任との二人きりの時間が忽然と現れてしまった。
互いに真正面にある学院の内側を見せびらかす大扉を見据え、そこに至るまでの道を歩いていく。
道の両脇には木々が育っていたが、背丈こそあれど木漏れ日と呼ぶには広過ぎる程に、枝葉は散ってしまっていた。
「制服、着てこなかったの?」
数歩分の沈黙の後、瞳の奥を見せたがらないような動きで担任が私服に眼差しを送る。
「お前には関係ない」
実技エリアの方ではどこかのクラスが訓練をしているようで、掛け声の切れ端が声という形を崩しながらもここにまで及んでくる。
「よく来れたな、授業中だろう」
今の時間帯はまさしく授業の最中だ。
誰かしらに呼ばれて来たのだろうが、にしてもあの辺境の地から随分早く来れたものだ。
「士官の授業で教員室いたの」
担任の声音はまるで他人と話すようだった。
歩いている間、視界の端には付かず離れずでクリーム色の髪の毛が靡く。
と、その付かず離れずだった髪が後ろに消えた。
それでも気にせず歩いて行けば良かったと、立ち止まって担任の表情を見た時に後悔した。
「…良くないと思う、このままなのは」
大扉まで数多の分岐を作りながら伸びる石畳の上には、無数の木の葉が落ちていた。
深い緑と赤混じりの茶色が斑らに塗られたそこに更に一枚の木の葉を重ねるように、担任が静かに言葉を落とした。
「今更謝ろうとするのは、相手の人にとって迷惑なだけかもしれない…。でも、だからって…」
「一年前の話で、俺がすべきことも思うべきことも何もない」
「相手の人…怪我させたんだよ?」
「躱すことも出来ぬ相手の責任だ」
睨んで答えると担任の視線が揺さぶられる。
それが落ち着かぬまま、怯えたような声で言葉は俺に返される。
「自分の事になると、ランケくんはどうしてそんなに甘くなるの…?目を瞑っちゃうの?」
「自分に甘い、だと…?」
胸で、怒りが煮えたのが分かった。
「俺が考え無しに、そこらの馬鹿共と同じように生きてきたと言いたいのか…!」
放たれた声が、自分の足を無意識に担任へと一歩を迫らせる。
コルファに入るまで、ひたすらに努力を積み重ねてきた。己の糧になった物もあれば、ならなかった物など無数にあった。
そんな物達へ懸けた努力をただ知らないからと、ただ想像が付かないからと、甘いと名付けられるのは許せなかった。
「他の人だって別に…甘えて生きてる訳じゃない。その人にしか分からない苦労がきっとあるんだと思う」
「安い言葉を言う…。それならば、俺の苦労だって汲み取って然るべきだろう?流石、馬鹿としか言えないな。さぞや立派に生きてきたんだろうな、お前は。俺を少しばかり知ったからと生き方に文句まで付けられるのだから」
「私は…」
担任が言葉を見失う。
しかし瞳を僅かに伏せさせるだけで、失った言葉は悲しげな表情を添えて見つかってしまった。
「私は多分…そんな立派には生きてこなかったと思う。悪いことも良いことも…きっと、全然してこなかった」
悔やむように結ばれた担任の唇だったが、次の言葉は間もなく続いてきた。
「普通に生きてきただけなの。だから、何か大事な事を言わなくちゃって思った時に何も思い付かなくて、自分って浅いんだなって思う事がある…。綺麗事を言うのが…怖い時がある」
「自分の存在が分からないからとりあえず見てくれ良い事をして、綺麗事が振り回せる人間だと自負が欲しいだけなんだろう。そんな願望に人を付き合わせるな。お前が良い教師になる為に俺はいるんじゃない」
口を開けた大扉へ歩き出そうとしたその瞬間、肩を掴むように担任は呟いた。
「…彼も、君の為にいたんじゃないよ」
「あ?」
自分の肩越しに背後を覗く。
彼女は木々から覗いた日差しを丁度半分ばかり身に浴びて、俺をただ鋭く見つめてきていた。
「相手の子も、君が力を見せびらかす為にいたんじゃない。君の為に学院に来てた訳じゃない」
吹き付けた風に髪と服を揺さぶられていたが、その瞳と身体は何にも負けること無く立っていた。
己の目に飛び込んできた瞳が、心の奥底にまで何かを突き刺してきたような感覚がした。
刺された何かは無痛ながらも耐えられぬ物で、また吹き付けた風に流されるように、肩越しに覗かせた視線を外した。
「そこらにいた奴の話など…興味も無い。二度とくだらん説教をしてくるな」
何に押し付けられた訳でもないのに、顔が俯き、大扉が見れない。
脚を前に出した時、潰しそうになったらしい、慌てふためいた一匹の蟻が靴の影から飛び出してきた。
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授業をしていた教室の扉を開け、馬鹿共や士官の教員が向ける何かを探る目を無視し、席に着く。
扉の音に静止した士官の教員だったが、自分の行動が適切かと疑うようにしながらも進めていた座学を再開させる。
それを聞き流し終え、昼も終えると、昨日をくり抜いて嵌め込んだかのような静かな午後の授業が始まった。
何も得ることの無い話はやはり耳は聞き流すばかりで、放課後を告げる鐘はそんな耳に実によく響き渡った。
俺を縛り付ける時間は終わった。
俺もまた昨日からくり抜いてきた物を嵌めるように、早々と教室から廊下に出る。
「ま、待って…!」
軽くなった鞄を邪魔に思いながら廊下を進んでいると、今日は背後から呼び止められた。
窓の外の夕日にも劣らないオレンジのサイドテールを大きく揺らして、リュックを背負いながらクーシルが隣まで駆けてくる。
「今日、バイトある」
「知っている」
「しゃく、行かないのかなって思って…」
俺がシフトを空けないかどうか、心配で追いかけて来たらしい。
今の今まで、バイトに行きたいと思ったことは一度として無い。
だがしかし、いま感情任せに下手な手を打てば、それを俺の問題だと指摘されつけ込まれ、何をどう言われるか分かったものではない。
授業を受けること然り、一周回って何も変わらない日々を送ることこそが、今の俺にとっては適切で己を守る安全な行動なのだ。
俺に向けられた声がしたのは結局それだけで、無言の廊下を進んでいく。
合わない歩調は俺とクーシルの間を広げ、ある程度ばかり広がると、クーシルからリュックと制服がわずかに擦れる音が迫ってくる。
遠ざかっては近付く気配を繰り返し聞きながら学院を出て路面に乗ったが、まともな会話は行われなかった。
遅らして帰るのか路面にはワッフルとレグは乗り込まず、クーシルと俺の他には、まばらに席が埋まっているだけだった。
「…」
「……」
この女がここまで静かなのは、はっきり言って異常だ。
普段であれば路面が走り出す前から何かくだらぬ話題を見つけ、俺の反応など露知らずにべらべらと話し出したに違いない。
しかしそんな普段はどこかに消え、路面が走り出しても、ともすれば泣き出しそうな暗い表情ばかり浮かべている。
その膝に置かれたリュックが、強く抱き締められた。
「ずっとね…考えてるんだ。しゃくがした、一年前のこと」
影に沈むクーシルの唇が、路面が伝える振動に消されそうな声を空気に溶かす。
「どいつもこいつも…」
対して時間も経たないまま繰り返される同じ話に、背もたれに預けられた背中は重さを増す。
「でもね、なんか…なんにも分かんないの。しゃくがなんでそんな事したのかも分かんないし、それ聞いて、あたしがどうしたら良いのかも…分かんない」
授業の時に分からないと頭を抱える姿は幾度として見てきたが、この場に現した分からないと思い悩むクーシルの姿は酷く珍しさを感じた。
「した理由は話したつもりだが」
コルファの級長であることに懐疑的な目を向けてくる周りの人間に、力を示す為だったと。
例え馬鹿であれど、それぐらいの理由は理解出来て当たり前の筈だ。
「それは…ちゃんと憶えてる。けど、なんか……分かんない。しゃくの話の筈なのにね、違う人の話みたいに思えてくる…」
「何が言いたいんだ」
「ごめん…」
更に強く抱き締めたリュックに、顔を少し埋めさせたクーシル。
長く垂れたオレンジのサイドテールは、俺を拒むようにその横顔を隠した。
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パン屋のバイト中もクーシルは静かで、ただ互いに黙々とそれぞれの仕事を熟していく。
パンが並べられた棚の奥は客の目に留まる為にガラスが一面に貼られていて、描かれる王都は夕暮れも徐々に静まり、黄昏も直に終わるといった空色を見上げていた。
クーシルの母親に呼ばれ、品出しのパンを取りに行く。
これが最後の仕事になるのだろう、プレートの上に並べられた新しいパンも、数は抑えられていた。
「珍しいわ…あんなに静かなの」
俺に任せるつもりのプレートを持ったまま、クーシルの母親の目は俺の背後でレジを打つ娘の背中を写す。
「あれだけ騒げるいつもの方が異常だ」
「何かあったのね」
俺が起因しているのだろうという確証が、クーシルの母親の瞳にはまざまざとした色で見えていた。
「…大したことではない」
「大したことじゃないなら、クーはあんなに悩まないわ」
「はっ。口出しすれば気分が晴れるか」
手軽さとは釣り合わない程に、身勝手な口出しというのは気分が良いものだ。
小馬鹿にしようした俺の笑いにクーシルの母親はそんなつもりではないと、首を静かに横に振った。
「口出しをするつもりはないわ。私の言葉じゃ、君には足りないと思うから」
意味の分からない事を言って、ようやくクーシルの母親は持ったままにしていたプレートを俺に渡してくる。
両手が空いたクーシルの母親だったが、直ぐには去らなかった。
「でも、一つだけ言わせてほしいの。もしあなたに話したい事がある人がいたら、ちゃんとそれを最後まで聞いてあげて欲しい。私が言うのはそれだけ。あなたにとって、とても大事な事だと思うから」
「それを口出しと言うのだろう」
パンは少なくともプレート自体が少し重い。
その重さを恨むように呟いて、クーシルの母親と別れ、パンの品出しに向かう。
レジでの精算を終えて店から出ていく客に頭を下げるクーシルの横を抜け、トングでプレートの上のパンを隙間の多い棚に陳列していく。
その最後の一つを並べた時、窓越しに子供を連れた紙袋を抱える母親らしき人間と目が合った。
俺の顔を見るなりその女と子供は目を丸くし、隣の小さい子供が俺を不躾にも短い人差し指で差してくる。
母親と子供は丸くさせた目をほとんど崩さないままパン屋に入ってきて、子供の方が嬉しそうな声を上げながら近寄ってきた。
「ひさしぶり!」
挨拶のつもりなのか、踵を上げて俺の顔面を目掛けて子供の右手が伸びてくる。
全く届いてはいなかったが、その勢いに少し顔が引いてしまった。
「…誰だ」
「ご、ごめんなさい…!ほら、クゥ」
子供を落ち着かせようと、母親が肩を掴みながら名前を呼ぶ。
すると、視界の端でレジ周りの整理をしていたクーシルがぴくりと反応して顔を上げる。
「クゥくん…!」
「クー、ひさしぶり!」
他に客もおらず、レジを空けて良いと思ったらしい。クーシルはレジの台を回ってこちらに出てきて、その見知らぬ親子に近寄る。
「ど、どうしたんですか?」
「偶然通ったんですけど、彼がいるの見えて」
俺を見て店に入ってきたのだと、こちらに母親が手のひらを向けてくる。
「お二人共、ここで働いてられるんですか?バイトさんですか?」
「ちがうよ、お店のひとでしょ?」
「うん、そうなの。憶えててくれたんだ」
自信ありげに母親の間違いを訂正した子供に、膝を曲げたクーシルが小さく微笑む。
それから、子供の母親の方に立ち上がりながらクーシルは顔を向けた。
「あたし、ここのお店の娘なんです。学院祭の時に、それちょっと話して」
「そうだったんですね」
何か面識があるようなやり取りが繰り広げられるが、全くの憶えの無さに怪訝な目になる。
このまま何も知らぬままというのも気分が悪く、仕方なくクーシルに顔を声を掛ける。
「誰だ、こいつらは」
問うと、クーシルが大きく目を瞠った。
その反応は直ぐに落ち着いたが、何かを考え込んでいるのか黙って下を向いてしまい、答えを求めて質問を続ける。
「会ったことがあるのか」
「クゥくんとクゥくんのママ。学院祭の時、あの子と一緒に親捜したじゃん。…忘れたんだ」
「捜したのは憶えている、顔を忘れただけだ」
「…だけって。あ、その…すみません」
「いえ、お久しぶりですもんね」
俺とクーシルの話はクゥと呼ぶらしい子供の母親にも聞こえていて、クーシルが申し訳無さそうに頭を下げると母親も頭を下げ返してくる。
「学院祭の時は本当に…ご迷惑お掛けしました」
「全くだな。貴様らが目を離さなければ、何も問題は起きなかった」
「ほんとさ…」
本当にその通りですからと子供の母親は頷き、それから微笑みを向けてきた。
「私達のことを捜してる時、クゥのこと、色々励ましてくださったんですよね。えっと、クーさん…?」
どうやら子供からクーシルの名前は聞いたらしいが、中途半端に伝わっているらしい。
親本人も本来の名前ではないと察しているようで、確かめるような眼差しが覗いてくる。
「クーシルです。あだ名が『クー』で。あ、隣のがしゃく…じゃなくて、ランケです」
「クーシルさんとランケさんですね。クーシルさんもそうですし、それにランケさんも『会える』って言ってくれたって、クゥから後で聞きました」
迷子の子供は母親のする会話にはさして興味がないようで、足元から離れて陳列されたパンの棚を見回りに行く。
「俺のは別に貴様が思ってるような意図ではないがな。そっちの方が素直に動くだろうし、早く解決出来るからと願望を言ったに過ぎない」
子供の顔は憶えていないが、その時のやり取りの自分の意図は無論憶えている。
仕事としての発言だったのだと告げても、子供の母親は対して不服そうな表情にはならなかった。
「だとしても、クゥにとっては嬉しかったみたいですから。迷子のこと、私たち親からしてみれば怖い思いだけでしたけど、クゥにはちょっとした学院祭の良い思い出になってるみたいで。貴方がどういう思いだったにしても、それはお二人のおかげだと思うんです」
「それ、スゴい嬉しいです…。なんか怖い思い出、みたいになってなくて」
「…どうでもいいな」
「本当にクゥの事、ありがとうございました」
また子供の母親に深々と頭を下げられ、どういう態度が適切な対応なのか分からず、クーシルが少し取り乱す。
「ね、あのパンどこ!イチゴの!」
と、店内を見回っていた子供が母親の脇から飛び出し、こちらを見上げてくる。
「もしかして…ジャムの?一緒に食べたやつだよね?」
「それ!それ食べたい!」
クーシルが目的の物を推測と、子供の頭は大きく縦に振り落とされる。
「あれ多分イベント用のだから、ちょっと大きいのならあると思うけど…。あ、ていうか、大丈夫ですか?晩ごはん、もう決まっちゃってますよね?」
クゥを案内しようとしたクーシルだったが、子供の母親が持つ夕飯の材料が入っているのだろう紙袋を気にして、進めた足を止める。
子供の勝手な決定に、母親は困りながらも笑顔をこぼした。
「大丈夫です。パンは明日の朝ごはんにしますから」
「分かりました」
クーシルがジャムパンのある棚に歩いていくと、クゥと呼ぶらしい子供も短い歩幅で後ろを追いかけて行った。
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学院祭で会っていたらしい親子が退店し、少しすると今日は閉店となった。
エプロンを脱いで鞄を拾い上げ、帰りの支度を済ませて従業員用の部屋から出ると、二階から降りてきたクーシルと鉢合わせた。
「…今日、あたしこっち泊まるね。ミー先生にも言ってある」
「そうか」
端的に返事をして、店内を抜けて外に出る。
すでに空は夜と呼べる暗さ。
夜空には数も少ない小さな雲ばかりで、電灯の明かりには負けながらも、月が光を降ろしていた。
ここから寮まではさして遠くない。
それこそ普段は路面を使わず徒歩で寮まで向かっているが、今日ばかりは折り重なった様々な疲れが路面を使わせようと足を大通りに向けさせる。
「しゃく…!」
目的地を定め、歩きながら帽子を被り直していた時、店からクーシルが飛び出してきた。
クーシルは一本の電灯が落とす光を隔てて、俺と相対してくる。
大きく靡いたサイドテールは、そのオレンジの色を電灯の明かりの縁に鮮やかに照らされていた。
「なんだ」
「文句、言いに来た」
小さな呼吸の間の後、クーシルは面と向かってそう言い切ってくる。
「文句だと?」
正面からぶつけられた宣戦布告のような言葉は、むしろ敵意を忘れる程に自分を困惑させる。
「なんで、クゥくんのこと忘れちゃったの?」
「興味がないからだ」
「あれだけ一緒にいたのに?あれだけ一緒に頑張ったのに?」
語るクーシルは、暗くなった表情を前髪に透かさせる。
「…なんかね、悲しくなった。しゃくがクゥくんのこと憶えてなかったの。あたしとしゃくが持ってる思い出が、ちょっとだけ欠けちゃった気がして。そういうとこは、しゃくの…ランケの嫌いなとこ」
「……ふん」
文句と強く言われ不意に足を止めたが、くだらない会話がしたいということは分かった。
聞く価値もないと顔は前へ動こうとするが、そこでこいつの母親から押し付けられた言葉が、ふと足を地に結び付けた。
「…きっと昔からそうだったんだよね。虐めの相手の人も、ないんでしょ?」
「あぁ。あの親子と同じでな」
「そういうの躊躇わないで言えるのも…すごく嫌い。絶対に、何があっても、嫌い」
心からの想いだというのは、自分から口にしておきながら痛みに耐えるように握られたクーシルの手を見れば、容易く理解は出来た。
しかしだから許されたいと、そもそもそんな許しを請う請わないの話ではないと口を出そうとしたが、クーシルは更に話を続ける。
「けど、だからって、今日まで一緒にいた全部のランケが、その時と同じままで過ごしてたとは思えないの。リッドくんはさ、なんにも変わってないって言ってたけど…でもね、ランケの一年前の虐めの話聞いた時、もしかしたらウソかもって、あたし、どっかで思ってたとこがあったの」
わずかに顔を俯かせたクーシルだったが、言葉が終わる頃には顔を俺に上げてくる。
彼女には似合わない真剣な面持ちは、電灯の明かりが無ければ見られなかった。
「それってね、多分昔のランケと今のランケが、ちょっと違うからなんじゃないかなって。今のランケに変わったとこがあるから、昔のランケの話が違う人の話みたいに感じちゃったんじゃないかなって、そう思うの」
「何かを変えたつもりはないが」
「ほんと、小さい事なんだと思う。でも、大事な事だとも思う。あたしが何したら今のが解決してくれるかは分かんないけど…出来るならやっぱり…このままは、ヤダ」
「自分は何も出来ぬくせに人には解決しろか。幼稚な我儘だな」
「ごめん」
「そもそも根底から間違えている。俺は何か非難されるような事をしたつもりはない」
クーシルは一瞬ばかり口を噤んだが、真剣な面持ちは何も変わらなかった。
「これからもずっとそういう考えなら、あたしはこれからもずっと、ランケの事が、嫌い。だから変わってとか、そんなずるい事言うつもりないけど…これがあたしの考えだから。…文句終わり」
飛び出してきてまで言いたかった文句とやらは全て出し切ったらしく、クーシルは身体を回すと自分の家へ歩いていく。
電灯から暗闇に入っても、オレンジのサイドテールは実によく見えた。
「また明日」
店の扉に手を掛けながら、クーシルは一日だけ効力を持った別れの挨拶を口にする。
開けられた扉から漏れ出た光は、閉まるにつれて細まっていく。結局、最後まで俺の足元まで光は届かず、そのまま消えてしまった。
終始、幼稚な文句でしかなかった。
感情任せで、伝えたい思いに適した言葉を知らないような話し方で。
だからこそなのか、その話を忘れる事は酷く難しいように思えた。




