29話目
29話目です
誤字・脱字があったら申し訳ありません
夏と冬の間に二回迎えるブランクの一回目、そして梅雨も過去の時の所有物になると、王都に本格的な夏の暑さが舞い込んできた。
辟易とさせる暑さを敬遠してか、路面電行車を使う人間も少しばかり増えたこの時期。
窓の外で流れていた街路樹が、日に日に青々と茂っていくのは明らかだった。
ついに、ネカスで迎えてしまった夏。
じきに夏の長期休暇。
俗っぽく言わせれば夏休みだが、その前に学力試験がある。
定められた点数以下であれば、夏休み中に補修の後、追試が入る事になる。
そうはなりたくないのかさしもの馬鹿共も、珍しく自習室や部屋にいる事が増えていた。
日頃傍らで見ていて…いや、聞いていて…いや、聞かされていて思ったが、あいつら、学ぶ意欲に関しては無いわけでは無い気がする。まぁ、それだけなのが悲惨で仕方ないが。
休日、夜の共用スペース。
風呂から上がり、髪を乾かし、冷房の低い駆動音が微かに耳元に触れるそこに出ると、居たのはたった一人、寝間着に薄手の服をもう一枚纏う担任だけ。
椅子に腰掛け何をするでもなくぼんやりとテーブルに並べた菓子をほうばるその姿、微かにだが、寂しそうな雰囲気があった。
担任は俺に気付くとその寂しさを消し、手を重ねた口を開けた。
「ランケくん。あ、換気扇…」
「回した。…暇そうだな」
「試験だからね。問題知ってる先生が授業以外で教えるのは、ちょっと公平じゃなくなっちゃうし…」
「あいつらの場合、教えた所で結果はそうそう揺るがないと思うがな」
俺の言葉に担任は否定も肯定もない、静かな苦笑いを浮かべる。
過去に試し、本当にそうだったのかもしれない。
担任との雑談を早々と打ち切っても良かったが、一つ、訊いておきたい事を尋ねた。
「訊くが、あいつら帰省はするのか?」
「…レグとワッフル?お家の場所、訊いたの?」
「いや。だがあいつらだぞ、都内にあるなら訊かずとも勝手に言ってくるだろう」
そういう答えが返ってくるという事は、やはり俺の予想は当たっていたか。
俺の予想に担任は口元を緩ませ、そして隠すようにそこに手を添えた。
「そっか。まえ訊いたらしないって言ってたよ。夏休みはほら、友達と王都で過ごしたいって子も多いから」
「お前、ネカス以外も担任してたのか?」
いつか聞いた話では、学院で教師をやり出した直後にネカスを任されてしまったとか言っていた覚えがある。
その『直後』は、具体的に聞き出しはしなかったが三年以上はあったのか。
「ううん。先生方がよく話してるから」
が、担任は違うと緩やかな髪を左右に揺らした。
それはどうでもいいとして、結局あいつらは帰らないのか…。
少しの間とは言えこの寮が静かになってくれるものだと僅かに期待していたが、それが木っ端微塵に砕け散る音がし、期待の溶けたため息が口を突いて流れ出た。
「…静かにはならないか」
「ふふっ、残念♪…そうだ、ランケくん」
担任の目を細めた得意げな微笑みに疲れ、話を切り上げて部屋に戻ろうとしたが、脇を抜けようとした所で声が呼び止めてくる。
「試験の心配など俺には不要だぞ」
「そ、それはもちろん分かってるよ?…えっと、前の話なんだけどね、その…ユーツでさ、面倒なんてって言ってたでしょ?」
「……」
それは、ユーツでの実地訓練で一人目の犯人を捕まえた後、帰る時刻が迫っていたのに立ち往生していた馬鹿共と話した時に俺が言った言葉の断片。その断片を中心に、あの時の記憶が鮮明に広がっていく。
無論、本心から放った言葉だった。
だのに、結局それは無視され、四日目に突入。こいつは学院から手酷く叱られた。
「今さら懺悔したくなったなら勝手にやれ」
「…私は別に、最後までやった事、間違いだったなんて思ってないよ」
担任の瞳が、揺るがない意思を灯して真正面に俺の瞳を射抜いてくる。
俺の方に身体全部を向けると、こちらの心など無視して勝手に語り始めた。
「確かに、世の中やりたくない面倒なことって、たくさん嫌になるぐらい溢れてるとは思う」
担任は小さな呼吸の間を取る。
「…けどね、探せば見つかると思うの。面倒だけど…でも、これならいいなって、受け入れられるものが」
「…また、良い教師ぶったことを」
「そういうこと、探してみない?私も…」
「いい。押し付けてくるな」
こいつの言葉を受け止めてしまうと、脳にそれが染み付いてきて気分が悪くなる。
尚も見てくる瞳を振り切って、止めていた足を動かし、共用スペースと廊下を繫ぐ扉の前に立つ。
そして扉を横に除けた瞬間、全身が固まった。
「せんせ、話、聞いたよ!」
「そのお悩み、わたし達にお任せあれです!」
よく分からない決めの姿勢で構えていた、クーシルとワッフル。その二人がやる気に満ちた大声でそう言ってくる。
あぁ…。
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「て、ゆーことで」
「ランケさんの趣味を探しましょう!」
翌日。
明日に平日を控えさせた、二日目の休日。
昼が終わった時間に馬鹿共に共用スペースまで引きずり出され、そんな事を宣言された。
「…こんな事させてていいのか?」
馬鹿二人の隣に立つ担任を、自分の目に写す。
「一回こうなっちゃったらね…」
…そう言えば前も、似たような事を言われたな。
「この場合、俺を利用して逃げようとしてるように見えるがな」
俺からの遠回しの馬鹿への質問に、ワッフルが眼鏡の奥の瞳をクーシルに運ぶ。
「ちょっと何を言ってるのかさっぱりですね、クー」
「ほんとね、んな訳ないじゃん」
わざとらしいぐらいの真面目腐った顔を見合わせている時点で、その明かしたがらない心内は簡単に見透かせる。
学ぶ意欲はあれど、それの持続力はやはり壊滅的か…。
馬鹿二人から話を聞きつけたのか、俺がここに連れてこられた時から椅子に座って話に混ざっていたレグに、お前はどうなのかと、口にはせずに黙って顔だけを向ける。
するとこいつも真面目腐った顔で、真剣なトーンで語り出した。
「これは仕方ないな、お前のためだしな」
「お前の為だろう」
本当の目的はどうあれ、こうなった以上は担任の言うようにどうしようも無いらしい。
俺のため息など無視して、クーシルは人差し指を立て昨日の話を振り返り出した。
「せんせーが昨日言ってた事って、要するにさ『趣味』って事でしょ?」
「まぁ、そうなる…のかなぁ?」
「ふふーん、てことで、色々買ってきたんだよね!んしょっと…」
クーシルはキッチンにとたとたと駆け寄ると、両足を折ってしゃがみ込む。
昼食を取りに来た時には気付かなかったが、そこの影には少し顔を覗かせた大きな紙袋があり、それをクーシルは重そうにしながら抱き抱えて立ち上がる。
午前中、玄関でばたばたやかましかった理由が解けた。
今日という一日が、疲弊の厚い雲で覆われる未来しか見えなかった。
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まずはと言って出されたのは画材。
とは言っても学院で取り扱うような本格的な道具では無く、そこら辺で買ってきたのだろう安物の鉛筆と消しゴム、そして粗悪なスケッチブック。
こうして共用スペースまで強引に連れ出しといて、まさか俺の断るの一言で解放される訳はない。
馬鹿共の馬鹿さ加減を読んで諦め、スケッチブックの表紙を開き、鉛筆を構える。
この所、こいつらの強引に付き合されるその度に、諦めが深く身体に染み付いてきたような気がして白紙の紙に睨みが向く。
モデルはワッフルが立候補して決まり、いざ描こうとしたのだが、クーシルがテーブルから離した椅子にワッフルは座らなかった。
「ちょ、ちょっと!着替えてきます!」
置かれた席の正面に俺も椅子を構えてやったのだが、共用スペースから慌てた足運びで飛び出していくワッフル。
意味分からぬまま10分ばかり過ぎた頃、閉じた共用スペースの扉が開き、装いを変えたワッフルが前髪を指先で直しながらとたとたと歩いてきた。
「何故変えた」
「モデルするんですから、オシャレは必須です!」
膝を見え隠れさせる真っ白なワンピースに、眼鏡も普段のとは変えて丸枠。
こいつの眼鏡、まさかとは思うが伊達だろうか。それとも度が入った種類違いをいくつか有しているのか。
まぁなんでもいい。
さっさと描こうとまた鉛筆を構えたが、尚もワッフルは椅子に座わろうとはしなかった。
「ランケさん、なんかポーズの指定とかありますか!」
「面倒な…さっさと座れ…!」
「えー…ちょっと地味な気するんですけど…」
真剣な顔で訊いてくる馬鹿に辟易して強く言うと、不服そうにしながらもようやく馬鹿は椅子に、今度はワンピースの形を指で整えながら腰を置いた。
「やっと始められる…」
またスケッチブックにペンを向けた所で、紙に描かれていく馬鹿が気になるのだろう、いくつか背後に動く気配を感じたが、払い除けるのも億劫になってきて、そのまま鉛筆を紙に走らせた。
…背景も描かない、椅子に座った人一人の絵。
最後の線を引き切るのに、一時間も掛からなかった。
紙に描かれた、灰色の線で作られたワッフル。
絵にすれば馬鹿には似合わない、腿に両手を乗せた淑やかなも居住まい見ていられた。
芯が丸くなった鉛筆を、ろくに使わなかった消しゴムの傍に置く。ころころと転がったそれは、消しゴムを壁に止まった。
「ふつーにうま」
「だよな」
「うん、ちゃんと描けてる」
鉛筆を手放したのが完成の合図と伝わったようで、後ろから感想が耳に触れてくる。
「ど、どんな感じですか?」
馬鹿三人からの、称賛の少ない、あまり気に喰わないただの感想にそわそわと椅子の上で動くワッフル。
こちら向きでスケッチブックを開いている以上、どう考えても見える訳がないというのに、必死に首を伸ばしてひょこひょこと覗き込もうとしてくる。
淑やかな居住まいは、一瞬にして絵の中の物になってしまった。
仕方なく、スケッチブックをワッフルの方に回して見せる。
すると、大きく見開かれたワッフルの丸い瞳。
「わっ、うまいですね。はー…わたしですね…」
ワッフルは線で描かれた自分に、椅子から身を乗り出して顔を近付けた。
「中身の無い感想だな。…おい、これで満足か?」
ひとまず絵は描いてやった。
クーシルの方に視線を運べば、如何にもいま思い出した顔でそうだと俺に尋ねてきた。
「どーだった?趣味になる感じ、した?」
「するわけが無い」
「じゃ、次だね!」
納得の色など欠片も見せずに、またテーブルの足元の紙袋にクーシルは手を突っ込んだ。
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その後もやれクイズだのやれ手芸だのと、次から次に立て続けにやらされ、ジグソーパズルの時には外の日が傾き始めていた。
「…あっ!これこうだ!」
「んーと…おっ、右上揃った」
「えーっと…下のが…あ、ワッフル、腕、ピース隠しちゃってる」
「え?あっ!」
「……」
最初は絵の時と同じく俺一人にだけやらせていた馬鹿共だったが、背後から見るだけには飽き足らず、ここはそこじゃないか、あれはここじゃないかと続々口を出し始め、次に手を出してきたかと思えば、最終的には椅子まで引っ張り出して、テーブルの上のジグソーパズルに並んで頭を悩ませていた。
俺が手を止め挙げ句には席から離れても最早誰も気付く事はなく、見上げる構図で佇む学院の絵が、馬鹿共の手だけで着々と形を成していく。
…学院を組み上げるジグソーパズルなどあったのか。
馬鹿共の嗅覚は、妙な物を見つけるのにはやけに性能が高い。
「おっ、これ最後じゃね?」
「じゃあ最後、お願いね」
「ラジャー!」
最後のピースを担任に言われ、仰々しく手にしたクーシル。
真ん中付近に出来たちょうど一ピース分の隙間に、手にしたそれを劇のようにわざとらしく、ゆっくりと嵌め込んだ。
「できたー!」
クーシルが高らかに叫んで両手を伸ばすと、おーと馬鹿共からも達成感に満ちた声が上がる。
「ふぅ…結構かかりましたね…」
見えない額の汗を、ワッフルが手の甲で拭う。
「ピース、多いのだったからね。わ、もう夕方だ…」
振り向いた担任かそう口にすれば、他の目も本当だと、一様に夕日色が染め上げた背後の窓に向かう。
「そろそろ買い物行かないとじゃない?」
「んじゃ、これ片付けるか」
「えー、せっかく完成したのにですか?なんかちょっと悲しいです…」
レグがジグソーパズルを見ると、残念そうにワッフルが口を尖らす。
それを見た担任が、ならと一つの提案をした。
「額縁買えば、廊下に飾れると思うよ?そんな大きくないし」
「マジですか!」
「せんせ、そーしよ!」
ジグソーパズルの行方が決まった所で、担任の口があれと動き、ぱちぱちと目瞬きをした。
「…なんでパズルしてたんだっけ?」
「ん?………あ!…ん?あっ!趣味!そうだ、灼熱の趣味探し!」
「………」
俺が呆れなりを込めたため息を徐ろに吐くと、馬鹿共全員が俺に目を向け、口を困らせる。
「ごめんなさい…楽しんじゃってました」
「なに、なんつーの?一人でやる量じゃなかったし」
「ど…どーだった?趣味になる感じ、あった?」
馬鹿二人の誤魔化しの後、取って付けたようなクーシルの粗雑な確認に、声音が少し荒れる。
「するか馬鹿」
「あははー…。じゃあ次は…てしたいけど、もう時間ないよね…晩ごはんの準備しないとだし」
「ガクブチも探さないとです!」
「あー、んじゃそれついでで探してみりゃ良くね?外見てなんか見つけっかもしんないし」
「俺のはついでか」
「あれ、実はけっこう乗り気ですか?」
傾げられたワッフルの頭に、喉と眼差しの温度が冷めていく。
「勘違いするな阿呆。二の次にされているのが気に喰わないという話だ」
周りが言葉を入れにくくする深い息を吐いて、このくだらない時間に終止符を打とうと言葉を繋げた。
「少しは付き合ってやったんだ、もう終わりでいいだろう…」
「はいはい行こ行こー」
語る俺の背中に馬鹿はサイドテールを揺らして回り込み、ぐいぐいと両手でそこを押して、自然、足が動くように力を入れてくる。
まだ終わらないのか…。
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夕暮れの王都の風は、暑くはあったが蒸れはなかった。
街を抜ける空気は体感自由そうで、建物の隙間を抜け姿を見せた大通りの路面電行車も、平日の昼間とは違って、客足は数人程度だったのが一瞬だけ覗けた。
電行車が消えても尚、帽子の下の横目で何の気なくそちらを見ていると、目の前の四馬鹿がぴたりと足を止め、首を回した。
「ガクブチ、どこですかね」
「あんまりこの辺でそういうお店って見掛けた事ないよね」
夕飯の買い出し程度に、わざわざ路面電行車は使わないか。
寮を出て程近い場所を歩いていたが、馬鹿共の記憶に、額縁が売られているような店は記されていなかった。
「見たことないお店なら使ったことない道!じゃない?」
担任の言葉に得意げにクーシルは言い出し、日差しから瞳を隠すように片手を屋根にして左右に首を振ると、大通りを更に背後にさせる方角の道に立てた人差し指をぴんと指し向けた。
「あっち!いっつも使ってなくない?」
「だっけな。行ってみっか」
そうして行き先は決まり、五人で歩いていく。
額縁を探しているのか、それとも単純に使っていなかった道に興味があるのか、馬鹿共の視線は縦横無尽に動き、そして、横に現れた楽器の店のディスプレイにクーシルが視線を固定させた。
「楽器とかけっこー趣味だとベタな方だよね。ひゃー、値段やばー…」
特に立ち止まる事はせず、歩きながらクーシルは横に広いそこを覗き込んで悲鳴を上げる。
俺もその店のディスプレイを見たが、管楽器や弦楽器が目立つよう配置されていて、値段はまぁ、平民ならば驚く額ではあった。が、これぐらいなら、立派なプロ向けというよりも、アマチュアぐらいが適切な客層だろう。
「バイオリンか…」
ディスプレイの終わりに見つけた物を呟くと、敏く俺の声に気付いた担任がその顔を半分だけ振り向かせた。
「ランケくんやってたりしたの?」
「嗜む程度だがな」
馬鹿共の視線が、興味の色を付けて俺に絡まってくる。
バイオリンは最早視界から消え去り、とうに店の前も過ぎていたが、楽器の話は俺達に付いてきた。
「あー、なんかイメージ出来た、それ。腹立つ感じでやってそう」
「すげぇ。クー、それ俺とおんなじイメージだ」
「わたしも一緒でした…!すっごいカッコつけた感じの顔浮かびました!」
「だよね!そうだよね!」
「お前ら…。おい、教師なんだろう、注意したらどうなんだ」
「私もおんなじだなぁ…」
敏い耳は何処にやったのか、俺の声など遠くに夕日の王都に独り言を転がした担任。
「あ?」
「う、ううん、なんでもない!」
背後の非難の眼差しに気付き、髪の形が崩れる程に頭を横に振る担任。その頬の汗は、確実に暑さ由来のものではなかった。
勝手な事を全くぺらぺらと…。
と、クーシルが何か引っ掛かったらしくまた俺を見て口を開ける。
「…てかだけどさ、それ趣味じゃないの?好きでやってたんでしょ?」
「あっ、そうかもね」
「…別に好きでやっていたという訳ではない。多彩な方が色々便利だろうと…父が決めたのだ」
貴族同士の会話、学院からの評価、それらを考えて、多彩になっての損はない。
馬鹿共相手では、その限りでは無かったが。
「じゃあ…趣味って言うよりも、ランケくんの特技なのかもね」
「でもほんと器用だよな、お前。今日も色々さらっと出来てたしさ」
「当たり前だ、お前達とは違うんだ」
「服たためなかったけどね」
「蒸し返して…。今は出来てるんだ、それでいいだろう」
クーシルのからかいが潜んだ反証に、舌打ちが出る。
「そう言われるとそうなんだけどさ。…て、あれ!あれ額縁じゃない?」
十字路、俺を見ようと軽く顔を向けていた左を指差したクーシル。
そこにあったのは、外観の新しい画材店。
近寄ったガラスの壁の先、筆や絵の具、本格的な画材に並んで額縁はあった。
早速と馬鹿共は入り、そのガラスから見えていた額縁のエリアにとたとたと駆けていく。
積み重ねるだけの幾らか雑な物の配置がされた店ではあったが、案外本当の芸術家というのは、宝石を売る店のような何もかもが計算された綺麗さよりも、こういう、人の香りが残った雑多な店を愛するのかもしれない。
「…ん?」
額縁を買うだけ、すぐに終わるだろうと適当に入り口の近くにあったパレットを眺めていたのだが、馬鹿共は並んで置かれた額縁の前からまるで動かず、疑問に思い足が動いた。
「何をしてる?」
声を掛けると、ワッフルが巨大な問題に直面したような苦しげな顔を振り向かせてきた。
「…パズルって、どれぐらいのサイズでしたっけ」
「まさか…忘れたのか?」
「測ってくれば良かったね…」
隣の担任がはは…と、苦笑いで後悔をこぼす。必死なトーンで、クーシルが俺に尋ねてきた。
「ね、覚えてない?どんぐらいだったか」
「…どけ」
馬鹿共から額縁の前を取り、左から右に瞳を流していく。
すぐ真横にあるのと比べてほんの少しばかり横に広いのだったりと、サイズは豊富で一瞬悩みはしたが、頭にある、あのテーブルに残されたジグソーパズルのサイズを思い出せば、これだと言うのはすぐに見つけられた。
「これだろう。…確か」
この店の中で、一番小さいのから三つ目のを指差す。
専門的な画材店な事もあってなのか写真用の額縁はどうやら無いようで、下から三つ目でも少しはサイズがある額縁。
目測、今日絵で使ったあの量産品らしいスケッチブックを、閉じた時ぐらいはあるか。
これと言ったデザインは無い地味な枠だったが、廊下に飾るだけで、それも中身はパズル。
有名な画家が描いた絵を収めるような、絢爛豪華なのは、プラスとマイナスの掛け算で逆に滑稽にしかならないだろう。
「おー、よく覚えてたね、ありがと」
「買ってきます!」
俺が指差したのをワッフルは手に取り、馬鹿共は白髪の年寄りが立つレジへと精算に向かっていった。
俺がレジにまで付いていく意味はない。
店から外に出た時、同じタイミングで向かいに構えられた建物の扉も開いた。
どうやら向かいも何かしらを売る店らしい。
買い物を済ませた客が開けたその扉の先からふわりと流れてきた、穏やかな自然の香り。
無意識の気まぐれ、ふらりと足が誘われた。
中には数人の客がいたが、手に取っているのはどれも揃って植物。
花屋…にしては、見回してみても鮮やかな花弁は見えない。細かな明度は違えど、端的に言ってしまえば緑ばかり。観葉植物をメインで取り扱っている店だった。
家の隅に目立って飾られるようなのが床に置かれた鉢植えから伸びていれば、また、棚には手で簡単に持てるサイズの鉢植えで飾られている物もあった。
「あーいた」
手にも取らず、その棚に並んだそれのうねった茎や緑の葉をなんとなく見つめていると、背後から背中に触れた馬鹿の声。
「急に消えないでよー、焦ったじゃん」
「終わったか」
ワッフルが抱えた額縁を見て、次の買い物かと棚から離れたが、今度はクーシルが小さな緑の占拠する棚の前に居座った。
「クー?どうしたんですか?」
「…これ、よくない?」
「趣味の話か?」
レグの問いに小さな鉢植えのそれをまじまじと見つめていたクーシルが頷く。
「そーそー。だって、興味あったから灼熱、いま見てたんでしょ?」
「別に、そういう訳ではないが…」
「私は良いと思うよ?何かを育てるって、大事なことだと思うし」
俺としては植物を育てるなど今まで同様欠片も気の進まない事だったが、そんな俺の心を傾けようとしてなのか、担任がさも立派な教育的考え方とばかりにそう言ってくる。
「ね、買おっ!」
それに見事なまでに影響され、晴れ渡った表情をぐいと近寄らせてきたクーシル。
反対に、俺の顔はその分引き下がる。
「お前達が決めるなら今までの時間はなんだったんだ…」
「でもよくないですか?」
「な、偶然入った店が趣味に向いてるのなんてな」
レグもワッフルも二人の意見に惜しげもなく同調し、いつもの調子へ着々と向かい出していく。
「だがな…」
「灼熱買わないならあたし買うー。でそれ灼熱にプレゼントする!」
にひーと、邪気の影が見えない笑みが俺の眼前でうっとおしく咲く。
「ならわたし、半分出します!」
「それなら全員で分けるか?せんせーもいいっすか?」
「うん。あ、じゃあ、私が半分出すから、みんなでもう半分分けてくれる?」
「え、ミーせんせ、半分もいいんですか?額縁も買ってもらっちゃったのに…」
「気にしないで。私、大人ですから!ふふっ♪ほら、選ぼ?」
俺の脇を揃って抜け、どれなら適しているかと観葉植物を選定し始めた馬鹿共。
やっぱりいつもの調子ではないか…。
「あ、すみませーん。あのー、初心者なんですけど、なんかオススメの、これいいーとかってのあります?」
近くを歩いていた店員をクーシルが呼び止め、数日家を空ける事があったりするなど、選定はどんどんと詳細を詰めていく。
「霧吹きも必要じゃないかな?あ、これ可愛い…」
店員が説明を終え去った後、担任が傍を見回し、水を貯める箇所が丸いデザインの霧吹きを手に取って口元を柔く綻ばせる。
「どうしてお前らは…ちっ」
色々な意地を捨て、だが頑として譲れない部分は持って、馬鹿共の意識を声で引き寄せた。
「…分かった、それにしてやる。だが、草いじりなど趣味にするつもりはない。扱いはただの『日課』としてだ。良いか?」
小さな白の鉢植えで育つ、貼られたシール見る限りさして値段のしない観葉植物をクーシルが、丸いデザインの霧吹きを担任が持っていて、残すは二つを揃えてレジに通すだけ。
俺から発せられた決意に嬉しそうにクーシルはにんまりと笑い、レジに靴先を向けた。
「分かった♪じゃ、レジ通してくるね」
「いい。俺が払う」
クーシルと担任から、観葉植物と霧吹きを奪い取る。
「…どしたの?灼熱らしくない」
突然の事に目を丸くし、馬鹿共の表情が理由を求めるものに変わる。
「お前らに払わせたら恩を売ったと一方的に勘違いするだろう。そんなの恐ろし過ぎる」
その理由で納得したかは知らない。
馬鹿共が俺の言葉に反応した物に表情を変える前に踵を回し、二つを持ってレジへと精算しに向かった。
蒼が溶けたような黒の長財布を取り出し、金を払う。
紙袋に入れられてから気付いた。
この二つ、馬鹿共が選んだ物ではないか…。




