面影
宮下千涼はふっと息を押し出すように吐いた後、読んでいた小説を閉じた。
時刻は夜の19時を回ったところで、物語の世界に入り込んでいたことを自覚するには十分な時間が経っていた。
現在の天気は雨であり、大手コーヒーチェーン店の窓ガラスの外にはいくつもの水滴がついていた。
店の前にある大きなロータリーにはタクシーが何台か停まっていて、点滅するタクシーのウインカーと背後の駅の看板や照明の明かりがぼやけていた。
千涼は、読んでいた「王とサーカス」をカバンにしまいしばらく窓の外を見ながらぼうっとしていたが、頭が現実に戻ってきたのか床を一瞥すると、すっと椅子から降りた。
この駄善駅から彼女の使っている最寄り駅、華原駅までは三駅ある。
駄善駅の街並みは周辺に止まっていて華原駅のある華原は、お世辞にも都会とは言えない所であった。
千涼は就活生であり、都内の大学に通う四年生である。
両親は共働きで、二人とも高校教師をしていた。
物心ついてから今まで生活に困ったことはなかったが、大人になった今も自分が恵まれた存在だと思うことはなかった。
千涼の人生は一言で表すと「平凡」であり、彼女にとってそれは、道を歩けば転がっているような質素なものであった。
刺激のない人生。それは自分が求めているゆえに眼前に広がっているのか、はたまた決められた運命のようなものなのか、千涼には分からなかったが、退屈で空虚な人生に対するやるせなさのようなものが、時折両親に向かっていくことがあった。
千涼はそんなことを考えていると決まって胸が苦しくなった。
冴えない気分のまま家のドアを開けると、カレーのにおいが漂ってきた。
今晩はカレーか。そう思いながら鍵を閉めると、奥から自分を迎える母親の声が聞こえた。
その声に応えると、千涼はカバンを置くために自分の部屋に向かった。
千涼の家は2階建てであり、1階にリビングと和室、台所にお風呂やトイレがあり、2階には家族3人それぞれの部屋があった。
築15年のこの家は、3人家族が暮らすには少し大きく、立派な外観をしていた。
自分の部屋に行く途中、リビングで新聞を眺めている父親の姿が目に入り、千涼はまた少し鬱蒼とした気持ちになった。
もう何年になるか分からないが、千涼は長い間父親と口をきいていない。
千涼は父親の自分に対する関心の薄さが原因だと思っていたが、当の本人は口をきいていないという状況に対して特に感想を持っていないようだった。
部屋に戻りカバンを置くとカレーのあるリビングへと向かった。
食事をしている間、千涼はいろいろなことを考えていた。
今日読んだ小説のこと、駄善の街並みのこと、そしてこの家のこと。
「今日のカレーは中辛か」
少し不満そうな顔をして父親が言った。
「ええ」
母親がそう答える。
千涼は黙ったままだった。別に不満があるわけではないが、いわゆる家の決め事をする父親の立場というものを主張するなら日頃から家族に尊敬されるような、そうでなくとも友好的な関係を築いてほしいと思った。
「今日は面白いテレビがやってないわね」
母親が話しかけてきたので無言のまま頷いた。
父親はというとまだ新聞を読んでいる。
食事がすむと千涼は部屋に戻り着替えをもって下に降りた。そしてお風呂に入ると寝る支度を整えて就寝した。
次の日、昨日と同じように雨が降る中、千涼は就活のため東京に向かった。
それを終えると、いつものように駄善駅のコーヒーチェーン店に入り小説を開いた。
最近は頻繁にお店で小説を読みふけるようになっていた。
千涼は、自分はきっと就活を通して将来への不安を感じていて、それから逃避するために店の喧騒の中で小説にふけるということを好むようになったのだと思っていた。
そのとき、入り口の方で聞き覚えのある声がした。
そちらを振り向くと、父親が年配の男性と入り口のあたりに立っていた。
父親はこちらに気づく様子もなく店員に「2名で」と伝えると、案内された席に向かった。
恐らく先輩の教師なのだろう、父親は白髪の混じったその男性に先に席を勧めると自分も席に着いた。
私は家での父親しか知らない。そう思うとなんとなく二人の様子から目を離せなくなった。
「最近は少し涼しくなってきましたね」
「そうだな」
「このチェーン店のコーヒーはエスプレッソがおいしいですよ。先輩、確かお好きでしたよね?」
その後もなにげない会話を続け、注文を済ませると話題は最近のニュースに移った。
「最近の香港のニュース、見ました?」
父親が話題を振ると先輩は興味を示したようで、香港と中国の関係や香港で活動している政治運動化の話などをし始めた。
就活をしていると世の中のニュースには目を通しておくのは大切だと言われることが多いが、それは職場にいる年代の違う人ともコミュニケーションを取りやすいからなのではないかなと思いながら、千涼はコーヒーを啜った。
その後も父親は、相手の話を聞きながら相槌をうったり、ときには自分の解釈を挟んだりしながら先輩と会話をしていた。
二人がエスプレッソを飲み終え店から出て行ってしまうと、千涼は少し時間を置いてから会計をすまし、自分も店を出た。
いつもの帰り道、いつもの日常。その中で一つ変わったことがあるとすれば、頭のどこかにさっきの店での父親の姿が残っていることだった。
千涼は自分の表情が少し明るくなっていることに気づき、なんとなくジメジメとした今日の天気にそぐわないものを見つけたような気持ちになった。
今日のご飯は餃子とちゃんぽんだった。
家族三人で一つのお皿に盛られた餃子をつつきながら千涼は考えていた。
なんといえばいいのだろう、なんと切り出そう。
父親とは久しく口をきいていないのだ。いきなり、今日見かけたよと話しかけることもできなくはないのだが、自分の中の何かがそれを邪魔していた。
相変わらず新聞ばかり読んでいる父親をちらっと見ながら、自分が小学4年生くらいの子供であればいいのにと思った。
子供のころ、なかなかかまってくれない父親の気を引くために、自分から父親の飲んでいるビールの泡をよく飲ませてもらったものだ。
ビールの泡は苦くてまずかったし、父親は「将来酒豪になるかもしれないな」と笑っていただけだったが、千鈴には良い思い出だった。
あの頃の一種の無鉄砲さというか、思い切りの良さというものが今の自分には欠けているなと思った。
結局何も言いだせないまま晩御飯を食べ終えて、自分の部屋に向かった。
次の日、父親は朝早く仕事に出かけていたので母と二人で朝ご飯を食べている最中、ふと母親に訊いてみたくなった。
「お母さん、なんでお父さんと結婚したの?」
「なんでお父さんと結婚したか?運が悪かったのよ」
母親はそう言って笑っていた。千涼は何も言わなかったが、欲しい言葉はそんなものじゃなかったと思った。
私の欲しかった言葉は―――。一体何だったのだろう。自分でもよく分からないが、母親の言葉は違う。心のもやもやはそれを証明していた。
日程の都合上、今日の就活はお休みだったが千涼はカフェに出かけることにした。心のもやもやを抱えつつも、何かが変わるような気がしていた。
ドアを開け、秋晴れの空の中に一歩踏み出した。