朝焼け
雅はずっと空を見ていた。
「どうして天国は空にあって、地獄は地の底にあるのだろう。そうだとしたら、この世は良くも悪くもないのかしら。」
今日は、仕事の日だった。明け方に目が覚める。仕事の日はいつもそうだ。戸を開けると、薄い紺色空と澄んだ空気を全身に感じた。その戸の縁に座って煙草を吸うのが日課だった。そんな中、空を見て、そう考えるのだった。
雅は煙草をふかしながら思い出していた。
「もう終わりにしよう」
決めゼリフのように格好つけてるな、と思った。理由はわかっていた。新しい女ができただけなのだ。
大して好きでもなかったが、言われた側は惨めな気持ちになる。プライドは高くない方だと思っていたが、案外たかいのかもしれない。
もしくは淋しくなったのかもしれない。好き、と独りは嫌、は、違うのだ。
雅はまた思い出していた。煙草は灰がそのまま地面にポトリと落ち、自然消火していた。2本目に手を出す。
今度は最愛の人のことである。私に沢山与え、私を慈しんでくれる人。
敬吾のことである。彼は雅の「傷」を単なるかすり傷だと言った。過去、今までのことを話して、引かなかったのは彼だけである。それから敬吾は雅の思いを出来るだけ叶えようとした。犬が欲しいと言えば飼ってくれたし、喧嘩の後でも、独りにしておくのは不安だと、彼の腕と雅腕を紐でくくりつけたりした。
雅は敬吾のことを、淋しいから一緒に居るだけの存在でなくなっていた。
雅は、煙草を吸い終えると、戸を閉めソファーに座った。まだまだ敬吾が起きるには時間があった。
今日は、雨だろうか、何となくそう思った。気分は悪くない。日課の薬を飲んだ。「もう、行こう」雅は、敬吾を起こさないまま家を後にした。
雅が道を歩いていると、車が猛スピードで横を追い越して行くや否や、急にものすごい音がした。ドンッという音と同時に叫び声のような鳴き声だ。車に乗っていた若い男が、面倒そうに腰をゆっくりあげて出てきた。そして、足で何かしているようである。雅は歩く足を速め、車の横を通りすぎながらその様子を見ようとして足が止まった。車の前には子犬が横たわり、男は足の爪先で子犬を歩道に蹴りあげた。子犬はまだ動いている様子で、血まみれになり脚が違う方向に折れ曲がっているようだ。
男はチッと舌打ちすると、車の底やタイヤを丁寧に見て、雅を睨むように見た後、走り去っていった。
雅は走って駆け寄り、子犬を見た。ハァハァとした息づかい、血がどんどん溢れる様に、雅は病院に連れていかなきゃ!と思った。そして子犬を抱き抱えると、手首を通って子犬の内臓がぬるりと垂れ落ちた。
あぁ。雅は、ダメだと思った。全てがダメだと思った。
呼吸がどんどん荒くなる子犬を抱き抱えたまま、全身血だらけになって雅は立ちつくした。
ー子犬の息づかいが微かになると、雅は子犬をギュッと抱きしめ一筋涙を流した“一緒だよ”ー
私がこの世にいなくなったら、地獄に落ちるのだろう。それでもいい…私は泣きたくなるような朝焼けを、この手につかんでみたいのだ!!この世に未練があるとしたら、それは1つ、たった1つだけである。
雅はふと、敬吾は起きたかしら。そんなことを思い、赤くなりはじめた朝焼けを全身に受け、子犬を抱いていない方の血まみれの手を伸ばして、つかめるはずもない朝焼けをつかむようにして、ビルの屋上から落ちていった。
END