暗夜の実家
エレベーターから降りて少し歩くとセレナの家のドアの前に着いた。セレナが暗夜に担がれたまま器用に家の鍵を開ける。
暗夜は玄関に入るとセレナを肩から降ろした。家の中に人の気配はなく一人暮らしであることがうかがえる。
「あとは一人でも大丈夫ですね?」
「大丈夫、大丈夫」
そう言いながらセレナは靴を脱いでフラフラと部屋の中に入っていった。
家の主人に反応して天井の明かりが自然に点いていく。片付いているというより、ほとんど物がない殺風景な部屋が浮かび上がった。
セレナの性格から可愛らしい家具や小物が並んでいそうなのだが、そういうものは一切ない。
とりあえずセレナを送り届けた暗夜は仕事以上の疲れを感じながら帰るために玄関のドアに手を伸ばした。
ガシャーン。
何かが割れる音が響く。暗夜は反射的に部屋の中に飛び込んだ。
「どうしたんですか?」
床に座り込むセレナとその周りに散らばる陶器の破片。元はどんぶりの器だったようだ。
「あのね~ラーメンが食べたくなって~作ろうとしたの。そしたら~食器を落としちゃった」
まともに歩けない状態で料理など出来るはずがない。
暗夜は自分の中で何かが切れる音を聞いた気がした。
「ほい? 何?」
暗夜は再びセレナを肩に担ぐと高層マンションから出て行った。
「どこ行くの?」
キョトンとするセレナに暗夜は何も言わない。黒縁眼鏡の下はいつも以上の無表情でまったく感情が読めない。
暗夜は黙ったまま再びタクシーを拾い、セレナとともに乗り込んだ。
「どこ行くの~?」
タクシーの中でも暗夜は何も言わない。そんな暗夜の様子を気にすることなく、セレナはニコニコと外の風景を眺めていた。
やがて大きな木と生垣に囲まれた立派な門構えの家の前でタクシーが停車した。
暗夜はタクシーから降りるとセレナを肩に担いで門をくぐった。そのまま家の中に入ると白い猫が暗夜を一番に出迎えた。だいぶん年をとっているらしく動きはゆっくりだが、暗夜に甘えるように白い体をこすりつけてくる。
暗夜は白い猫の頭を軽く撫でると、家の奥に向かって声をかけた。
「ただいま」
暗夜の声に家の奥からパタパタと軽い足音が近づいてくる。
「どうしたの? 連絡もしないで帰ってくるなんて珍しいじゃない」
外見は四十代前半ぐらいだが、おっとりとした表情は何も知らない十代の少女のように、落ち着いた声は人生経験豊富な年配の女性ように感じる。
「母さん、客人だ。突然で悪いんだけど、泊めてほしい」
暗夜の母はセレナを見て嬉しそうに微笑んだ。
「あら、まあ。可愛らしいお客さんね」
母の言葉を聞いて短い黒髪にピアスをつけた少年が部屋から顔を出してきた。つりあがった大きな黒い瞳と、全身から滲み出る活発そうな雰囲気は暗夜と真反対だ。
少年はセレナを見るなり二階に向かって叫んだ。
「姉貴! 兄貴が女連れて帰ったぞ!」
暗夜は渋い顔で母を見た。
「姉さんが帰ってきているのか?」
「さっき帰ってきたのよ。家族がそろうのは久しぶりね」
嬉しそうに答える母の後ろからバタバタと慌てて階段を下りてくる足音がする。
少年が玄関に座っているセレナと視線を合わせるように座った。
「あのさ。オレ、明夜っていうんだ」
セレナを自分と同い年ぐらいだと思って話している明夜に暗夜は何も言わない。ただこれから登場する人物に何を言われるか、それが一番の問題だった。
「セレナって言いま~す。よろしく~」
十人中九人は天使の微笑みと称する笑みでセレナが自己紹介する。その姿に母が両手を合わせて喜んだ。
「可愛い~こんな娘が欲しかったのよ」
母の言葉に後ろから冗談交じりの声がした。
「可愛くない娘で悪かったわね」
「あら、夜伽ちゃんだって可愛いわよ」
夜伽と呼ばれた意志の強そうなキツイ表情をした女性が軽く笑った。年齢は二十歳ぐらいで、つりあがった切れ長の瞳から長い睫毛が伸びている。輪郭もシャープで動作、言動に無駄がなく全てが鋭い。
「お世辞はいいわよ。私は夜伽。暗夜と明夜の姉をしているわ。よろしく」
「は~い。よろしくです~」
セレナの笑顔に夜伽は面白そうに暗夜を見る。
「それにしても本当に可愛い子ね。暗夜には勿体無いわ」
予想よりも優しいが裏のありそうな言葉に暗夜はため息を吐いた。
「ただの職場の後輩だ。酔っ払いすぎて一人だと何するか分からないから連れてきた。母さん、あと頼む」
暗夜はセレナを置いて玄関に上がる。その後を白い猫がついていく。
「お世話になりま~す」
セレナがペコリと頭を下げる。
『カワイイ~』
珍しく母と姉の声が重なった。
「こんな妹が欲しかったのよね」
嬉しそうな夜伽の言葉を聞いて、暗夜は廊下を歩きながら振り返らずに言った。
「ちなみに姉さんより年上だから」
『え!?』
非常に珍しく母と姉と弟の声が重なる。そこに
「驚かれちゃった~」
と、セレナの呑気な笑い声が響いた。
「時空間管理人になってみたら?」
記憶の中の青年が笑いながら、こちらを見る。黒縁眼鏡の下にある藍色の瞳が全てを見通したように微笑んだ。
「そうしたら分かるかもよ」
足元の滝つぼから冷たいが心地よい風が吹き上げてくる。
「初めて会った人に言う言葉ですか?」
子どもの呆れ声に青年は一つに纏めた黒に近い茶髪をなびかせながら笑った。
「初めてじゃないよ」
細い綺麗な手が黒髪を撫でる。
足元に小さな石が転がってきた。微かに地面が揺れている。顔を上げると地面が大きく揺れた。
暗夜は小鳥のさえずりで目が覚めた。久々に夢に見た過去の記憶も目覚めと同時に無意識に忘れていく。
重い遮光カーテンの隙間から微かに光が差し込む。周囲にはガラクタにしか見えない機器と、辞書のように分厚い本が山積みになっている。
もし今、地震が起きれば、これらは確実に雪崩のように暗夜の上に落ちてきて圧死するだろう。
暗夜はのっそりと体を起こして黒縁眼鏡をかけると、寝癖のついた髪のまま倉庫のような自室から出て行った。
「おはよう。よく眠れた?」
リビングに入ってきた暗夜に母がのんびりと声をかける。だが、暗夜は何も言わずに椅子に座った。そして思い出したように母を見た。
「何?」
母にむけた黒瞳はまだ覚醒しておらず、普段では考えられないほど無防備だ。
そんな暗夜の姿に母は慣れた様子でもう一度同じ言葉を言った。
「おはよう。よく眠れた?」
「あぁ……おはよう」
「もうお昼よ」
「あぁ……」
目の前に並べられる昼食となった朝食を半分寝ている瞳で眺める。
「セレナちゃんは朝一番に起きて道場に行ったわよ」
「あぁ…………ぁあ!?」
暗夜が慌てて立ち上がる。すっかり忘れていたセレナの存在を思い出し、一気に目が覚めた。
「どこにいる?」
「道場よ。行ってみたら?」
言い終わる前に暗夜はリビングから消えていた。




