……呑まれるな
トイレから帰って来たセレナが椅子に座りながら店の主人と暗夜を交互に見た。
「なに、なに? なんの話?」
上機嫌なセレナに店の主人が笑いながら空になった酒ビン達を片付ける。
「セレナちゃんに彼氏がいるのかって話をしていたんだよ」
「なに~? 私がいない間にそんな話してたの? も~油断も隙もないな~」
「で、実のところはどうなんだい? この兄ちゃんは彼氏じゃないんだろ?」
「彼氏なんていないよ~」
ケラケラと軽く笑うセレナに店の主人も安心したように笑う。それはまさしく娘を心配する父親の顔だ。
「そうかい。ほら、俺のおごりだ。飲みな」
店の主人がテーブルに青色の小瓶を置いた。その小瓶の銘柄を見たセレナが目を丸くする。
「これって幻のお酒って言われてる銘酒だよ。予約しても数年待ちのお酒なのに、飲んでいいの?」
「おう。全部飲んでくれ」
満面の笑顔で気前よく言うと店の主人はカウンターの奥に戻った。
「わ~い。得しちゃった」
セレナは嬉しそうにコップに酒を注ぐと目の前にかざした。
白く濁った液体の中で白銀が粉雪のように舞っている。
「綺麗でしょ?」
「……そうですね」
暗夜は青色の小瓶を手に取った。冬の空のように澄んだ青色の小瓶の中で白銀が光る。
手の中の思わぬ芸術に、暗夜の表情が緩む。
セレナはしばらくの沈黙の後、白銀が底に沈んだお酒を一気に飲んだ。
「……永遠に片思いなんだよね……」
セレナの独白を暗夜は黙って聞いていた。
二時間後。
店の主人が言っていた通り、セレナはあれから一人であの倍の量の酒を飲み、すっかり出来上がっていた。
「もう、いいでしょう。帰りますよ」
暗夜に引っ張られるようにセレナは店を出る。が、その表情はおもちゃを取り上げられた子どものように不満そうだ。
「ヤダーまだ飲む~」
「体に悪いですよ。それでも医者ですか?」
「今は医者じゃないも~ん。それに医者って大酒飲みが多いんだよ。だから平気なの」
少しふらつきながらも真っ直ぐ歩くセレナに、暗夜はため息を吐いた。
何故、自分がここまでしないといけないのか。だが、このままここに置いておくことも出来ず……
「どういう根拠ですか? とにかく、帰ります」
暗夜がセレナの腕をしっかりと掴んで引っ張る。だが、セレナは暗夜からスルリと離れた。
「まだ、飲むの~」
そう言いながらセレナが細い脇道に入る。
「いい加減にして下さい」
「いや~」
セレナは可愛らしい声とともに身軽な動きで道を走り抜ける。暗い夜道に白いワンピースが吸い込まれる。
暗夜は必死に追いかけるがセレナの足の速さは素面の時とまったく変わりない。とても、あれだけの量の酒を飲んでいるとは思えない。
必死に追いかける暗夜を嘲笑うようにセレナは気配とともに闇の中に消えた。
「何処だ!?」
暗夜が慌てて周囲を見渡す。街灯の光も届かない暗闇。細い道が蜘蛛の巣のように複雑に交わっている。闇雲に探しても見つかる確立は低い。
全身でセレナの気配を探る。これだけの暗闇なのに、建物一戸隔てた先には昼のように明るく照らされた夜の街が広がり大勢の人の気配がある。だが、そこに目的のものはない。
暗闇の中、これだけ集中しているのにセレナの気配がみつからない。
暗夜が苦々しそうな顔で黒縁眼鏡の真ん中を押し上げる。するとセレナの笑い声のような悲鳴が響いた。楽しそうなのだが、声の響き方から激しい動きをしていることが分かる。
暗夜は声の聞こえた方に走り出した。
「きゃ~! きゃ~!」
暗夜が現場に到着すると、セレナは楽しそうに叫びながら男達の攻撃を避けていた。男達は全員スーツを着てサラリーマン風なのだが、手には銃やスタンガンなど物騒な物を持っている。
男達はセレナを傷つけたくないのか、銃を使わずにスタンガンでセレナを気絶させようとしている。もちろん、そのことに気付いているセレナは一定の距離と保ったまま男達を近づけさせない。
痺れを切らした男達の一人がセレナに銃を向けた。暗夜は腰の銃を手に持つと、セレナに向かって叫んだ。
「伏せろ!」
男達の視線が暗夜に集まる。その一瞬の間に、セレナは白いレースの日傘を男達の足に引っ掛けて地面に転がした。
慌てて立ち上がった男達は、暗夜の姿を確認して一斉に引き上げた。
「ケガは?」
暗夜は硬い表情でセレナの全身を見る。
「うん。ないよ~」
「あいつらは何者ですか?」
「わかんな~い。でも、ケガはしなかったし、飲みなおしに行こう!」
威勢よく言ったセレナの足元がふらつく。急激な全身運動で酔いがまわったのだ。
「そんな状態で何を言っているのですか。帰りますよ」
暗夜がセレナの腕をしっかりと掴む。
「でも、さっきの暗夜の顔は面白かったね~本気で心配してたでしょ?」
セレナからの指摘に暗夜の黒い瞳が大きくなり顔が微かに赤くなる。そして、掴んでいたセレナの腕を放していた。
前ぶれなく腕を放されたセレナはバランスを崩して地面に座り込んだ。
「ちょっと~! いきなり放さないでよ~」
セレナは文句を言いながら立ち上がろうとするが、ふらついて真っ直ぐ立てない。暗夜はいつもの無表情で、ため息を吐きながらセレナの腕を掴んで立たせた。
「そんな状態で帰れるのですか?」
「帰らないも~ん。まだ飲むも~ん」
暗夜は大通りに出てタクシーを拾うと、連れてこられた時とは反対にセレナを無理やりタクシーに押し込んだ。
「ほら、住所を言って下さい」
「ヤダーまだ飲むの~」
まだ飲み足りないセレナは住所を言いそうにない。
『行き先を言って下さい。もしくは行き先のデータを入力して下さい』
合成音声が規則正しく流れる。
暗夜は携帯パソコンを取り出すと、目的地の住所を言った。その内容に紺碧の瞳が丸くなる。
「なんで私の家の住所を知ってるの~?」
走り出したタクシーの中でセレナが慌てる。
「今、調べました。あまり手を掛けさせないで下さい」
「私のプライバシーが~」
「はい、はい」
タクシーが高層マンションの前で停まる。立つことも出来ないセレナが一人で家に入れるとは思えず、暗夜もタクシーから降りた。
「歩けますか?」
「平気、平気~」
そう言いながらセレナがフラフラと斜めに歩いていく。
その姿に暗夜はセレナをいつものように軽々と肩に担いだ。
「わ~い。らくち~ん」
暗夜は喜ぶセレナを担いだままマンションの前まで早足で歩くと、指紋認証センサーの前で止まった。
「開けてください」
暗夜はセレナを担いだまま指紋認証センサーに背を向ける。
セレナは着けていた白いレースの手袋を取ると、目の前に向けられた指紋認証センサーに手をかざした。 オートロックのドアが開くと同時に暗夜はマンションの中に入り、エレベーターに乗った。
「家に帰ったら、大人しく寝て下さい」
セレナが楽しそうにケラケラと笑う。
「なに言ってるの? 寝酒を飲まないで寝れるわけないでしょ」
当然のように発せられた言葉に暗夜は黙るしかなかった。




